願うのはただ現在、けれど近づく未来
その朝、目を覚ましたがいつものように朝食の支度をしようと階下へ降りていくと、そこにはすでにロイの姿があった。ロイは寝間着の上に上着を羽織っただけの姿で――受話器を手にしていた。
に気づいてロイが軽く手を上げたのは、おはようという挨拶と、この状況に対する謝罪だろう。頷いて、はキッチンへ向かった。 (こんな朝早くから、なにか事件が……?) 湯を沸かし始めながら、は思う。会話を読んだわけではなく、チラリと見ただけだがロイは頷きを繰り返していて、報告を受けているような様子だったからだ。 お茶を入れる用意をして、とりあえずパンとチーズを切る。もしすぐにロイが出なければいけないようなら、これらを包んで持たせるために。 隣に立った人影――ロイに気づいて、は手を止めた。顔を上げると、微笑むロイと目が合う。 「おはよう、。きょうは少し早く出るが、朝食を取るくらいの時間はあるから、頼むよ」 が頷くと、ロイはの頬に軽いキスを落とす。そして、着替えてくるとキッチンを後にした。 ロイが慌てて現場に向かわなければならないほど悪い事態ではないらしい――ロイの背中を見送りながらは思う。けれどにすぐ伝えなかったということは、いい話でもないらしい。 とにかく、ロイが再び降りてくるまでに朝食の支度を済ませなければと、は再び手を動かし始めた。 「朝食でするような話題ではないのは解っているんだが――」 青い軍服に身を包み、身支度を整えたロイは、の用意した朝食を口に運びながらそう切り出した。 「先日、錬金術師ばかりを狙っている男の話はしたね?」 アームストロング少佐とエルリック兄弟を――残念ながら弟のほうには会えなかったのだが――駅まで見送りに行った、そのあとのことだ。ヒューズに言われて司令部への差し入れを持っていたに、ロイはいままでの経緯を話してくれた。 錬金術師ばかりを狙い、殺している男がセントラルからイーストシティへ来たこと。 通称“スカー”と呼ばれるその男は、額に大きな傷のあるイシュヴァール人であること。 綴命の錬金術師ショウ・タッカーと――一緒に暮らしていた幼い娘が殺されたこと。 そして、時計塔の下でエルリック兄弟とも戦闘になったこと。 「昨晩、西の運河沿いの一帯が崩れたらしい。どうやらまた地下水道の陥没らしいんだが――爆破されたように内部から粉々に崩れているそうだ。生存者の捜索が夜通し続けられていたんだが、今朝になって撤去中の瓦礫のなかから、スカーの着ていたものと酷似した上着が発見されたそうだ」 ロイはいったん言葉を切るとお茶を口にする。のほうは手を止めてロイを見つめることしかできなくなっていたのだが。 「ヤツがまた誰かを殺したのか、それとも――ヤツが殺されたのか」 先日の戦闘では、エルリック兄弟は軽傷ですんだらしい。アームストロング少佐も無傷だった。けれどスカーのほうもかすり傷だけで、彼が再び現れる可能性は高いという。 『そうなったら――狙われるのは、まずこの私だな』 ロイにそう告げられたとき、は思わずロイにしがみついてしまった。ロイの執務室にふたりだけで、誰に見咎められる心配もなかったが、もしそこが人通りの多い街中だったとしても、はそうしていただろう。ロイの命が狙われていると知って、平静でいられるわけはない。 『大丈夫だ、私は死なない。あんなヤツに、殺されたりはしない――』 ロイはの髪を優しく撫でながらそう言ってくれた。けれど、こうも続けた。 『――しばらくは一緒に出かけることは控えよう』 ロイの表情も、の髪を撫でる手も、とても優しかったが――その言葉の示すことが解らないはずはない。ひとたび戦闘が始まってしまえば、はロイの足手まといにしかならないのだから。 (とうとう、そのときが来た――……?) 一緒に暮らし始めるとき、自分の存在が迷惑になったらそう言って欲しいと頼んだ。そのときは、すぐに出て行くつもりだった。いや――出て行けると思っていた。 けれどすでに、ロイはにとってかけがえのない存在になっていて――いつかは別れる日がくるとは解っていたはずなのに――俄かに彼の元を去るのは、難しすぎた。 『おいおい、そんな顔をされると決心が揺らぐじゃないか。私だって、とデートできないのは辛いんだよ。ヤツが捕まるまでだ――辛抱してくれるね?』 おどけるようなロイの言葉に、とりあえずすぐ出て行かなくてはならない事態ではないと知る。けれどまだ、は頷くことができなかった。いっそ自分から、別れを切り出したほうがいいのではないかと。 そんなの迷いを、ロイは少なからず理解したらしい。その表情から笑みが消え、真剣なものへと変わる。 『……普段の生活で、きみを負担に思ったことは一度もないよ。むしろきみがいないほうが私の負担が増えて大変困る。だがキッチンでは私が素人なように、戦闘ではきみは素人だ。戦うのは私に任せて欲しい。幸いにもヤツは独りで、他に仲間がいないのは解っている。一対一なら、負けはしない。だが、もしきみが一緒にいるときにヤツに遭遇したら――、きみは迷わずにその場から逃げると約束して欲しい』 淡々と語られるロイの言葉が、にしみこんでくる。それは紛れもない真実だから。 だが本当に、ロイの危機に自分ができることはなにもないのだろうか――ロイへと伸ばしていたの指先が、知らずに震えた。 『愛している、。もしきみが人質に取られるような事態になったら――私は戦えない。解って欲しい――それはきみを足手まといに思っているからではないんだ。きみが無事で、私の帰りを待っていてくれるからこそ、私は戦えるんだ。忘れないで欲しい、きみの存在が私を強くすることを』 もしスカーと出くわしたとき、真っ先にが逃げ出したら、他人はを卑怯者だと罵るのかもしれない。 けれど、他の誰になにを言われたって構わない。それが、ロイとにとって最も生命の危険が少ない選択だからだ。 約束してくれるね、というロイの問いかけに、ようやくは頷くことができた。 あれから数日――スカーの捜索や市街の復旧に尽くしているロイがを迎えにくることは稀で、は店主に送ってもらい、先にひとりで眠る夜がほとんどだった。 誰と戦ったのかは知らないが、もしスカーが死んだのなら、ロイの生命の危険はなくなるし、その仕事も少しは減るだろう。 それはとても喜ばしいことのはずなのだが、は素直にそう思うことができなかった。 なぜスカーは国家錬金術師ばかりを狙うのかと尋ねたら、彼がイシュヴァールの民であることを、ロイが教えてくれたからだ。 『この手で――大勢殺したよ。ヤツの復讐には、正当性がある……』 人が人を殺すのに“正当な”理由なんてない――はそう思ったが、ロイに向かってそんな言葉を言えるはずもなかった。 でも、ロイは誰よりも解っている――人に人を殺す権利などないことを。 だから言ったのだ、いつか軍人など必要のない国にすると。 (スカーと、話すことができたらいいのに……) 無理を承知で、は思った。 復讐など止めて、彼が少しでも幸せに生きることを考えてくれたらいいのにと思う。 それがどんなに虫のいい話なのかは解っている。 そんなことには絶対ならないのだが――もしロイが殺されたとして、ロイのことは忘れて幸せに生きろなどと言われても、にだって頷くことはできない。 でも――ロイがイシュヴァールの民をたくさん殺したのは事実でも――それはロイが望んでしたことではないこと、それと――ロイは、軍のない国を創ろうとしていることを、解って欲しいとは言わない、でもせめて、知ってくれたらいいのにと思う。 あの日、ノートに書いてくれたロイとの約束を叶えるために、誰かの死が必要なのだとしたら、そんなのは哀しすぎる。 矛盾していると知りながら、はスカーの死と生の両方を祈るしかなかった。 「」 食事などとうに忘れて俯いていたの前で、ロイの手が振られる。 「残念だが、そろそろ出るよ」 立ち上がったロイに続いて、も席を立つ。 玄関に立つロイの、その青い軍服の胸元に手を添えて、は背伸びをした。 触れるだけのキスに、ロイの無事を願う。 (いってらっしゃい。どうか、気をつけて――) ロイのコートを取ろうと、身体を離したは力強い腕に抱き寄せられ、キスを受けていた。 挨拶のキスではなく、深く重なり合う唇に、も夢中になる。 「残念、時間だ」 名残惜しそうに離れたロイの唇は、の頬に軽く触れてから、そう告げた。 突然の激しい口づけに、は立っているのがやっとで――支えを探すように、玄関の扉に手を掛けて、開けた。 「行ってくる――夜に会おう。今夜は、きみが眠る前に帰るよ」 黒いコートを肩に羽織っただけのロイが、扉の外に出てゆく。道路には車が停まっていた。どうやら運転席にいるのはホークアイ中尉のようだったが、影になっていてその姿ははっきりと見えない。 助手席に乗り込んだその車が見えなくなるまで、はじっと扉に寄りかかりながら見送った。 (どうかお願いです。少しでも長く、彼の傍にいさせてください――) 遠くなる車を見つめながら、はただひたすらそのことだけを願っていた。 *あとがき* まだ終わりではないんですが、書くたびに終わりが近づいてますね(当たり前か…)。このあとはヒューズですが、少しオリジナルな展開も入れる予定です。 |