澄み切った世界へ手を伸ばす 6 




(どうしたら、いいんだろう……)
 その晩、は眠ることができず、ため息をついては何度目かの寝返りを打った。
 驚いた――というのが、正直な気持ちだ。
『俺――のこと、好きだ』
 昼間のクリフの言葉を思い出して、は自分の頬が熱くなるのを感じる。本当に初めてのことなのだ。他人から思いを告げられたのは。
 恋をしたことがないのかと問われれば、頷くしかできない。恋愛がどんなものか、知識として知ってはいるけれど、自分には縁のないものだと思っていた。にとってなによりも優先されることは、自分が“独りで”生きていけるようになることだったから。
 それを淋しいと思ったことはない。には家族がいたし、両親が亡くなってからも、姉がいた。離れて暮らしていても、の愛する、そしてを愛してくれる存在に変わりはなかった。
 姉が亡くなって――は本当に、たった独りになってしまったのだが――それでも、さほどの孤独感に襲われることはなかった。確かに亡くなってしまった直後は、ひどい喪失感で、なにをしたらいいのかも解らなかった。けれどペンダントを渡されて――そのペンダントのなかに大事に飾られた写真を見たときから、この人に会おうという気持ちが湧き上がり、荷物をまとめて汽車に乗ってしまった。そして、乗り換えるために降りたイーストシティの駅で。
(ロイさんに、会った――)
 あれから、の生活は大きく変わった。本当に、大きく。
(そうか、だから……)
 孤独感なんて、感じる暇がなかった。ロイが――傍にいてくれたから。
 会ったばかりの相手なのに、たった三日離れただけで、とても会いたくなった。そして再び会えたときには、ひどく懐かしく思えた。あのときはそれを不思議に思ったけれど、それこそが気づかずにいた孤独感から発した思いだったのかもしれない。
(ロイ、さん……)
 心のなかで呟いて、は気づいた。クリフのことを考えなければいけないのに、いつのまにかロイのことばかりを考えていた。
 帰宅したロイを、いつものように出迎えたると、ロイは“ただいま”を――両腕を回してを抱きしめ、軽く背中を叩いた。ポンポンと大きな掌で叩かれたとき、は身体の緊張が抜けていくのを感じた。自分が身体を強張らせていたことに、気づいていなかったのだ。
 はいつもより少し遅れて、ロイの広く大きな背中に手を伸ばすと“おかえりなさい”をした。
「なにかあった?」
 身体を離すと、ロイは静かにそう尋ねてきた。
 クリフのことを話そうかと迷ったのは、一瞬のことだった。は首を横に振ると、夕食を並べるためにキッチンへと戻った。ロイからそれ以上の追求はなく。おかげで、も普段どおり過ごせたのだが、こうしてひとりになって、ベッドで横になっても、いつものような眠気は訪れてくれなかった。
(ちゃんと、ひとりで考えなきゃ……)
 どうしても理解できなかったり、困難だったりする事柄なら、ロイに相談してもいいだろうと思う。けれど相談するにしても、その前にちゃんと自分で考えなければいけないとも思う。
(こんな曖昧なまま相談したって、ロイさんも困る……だろうし)
 は再び、暗闇のなかで寝返りを打った。
 クリフのことは、嫌いではない――どちらかといえば、好きだと思う。確かに出会いは最悪だったのかもしれないが、クリフが悪いわけではない。その後ちゃんとお詫びにも来てくれて、誠実な人柄だというのも解っている。食材に対する知識は豊富で、には興味深い話を聞かせてくれるし、一緒にいて楽しいと思う。
『ずっと――一緒にいられたら、楽しいと思う。だから俺……のこと守りたいって思う』
 クリフの言葉は、嬉しいと思うと同時に、なにか小さな棘のようなものが心に刺さった気がしていた。
(ずっと一緒にってことは……この家を出る? ロイさんと、離れる――……?)
 そんなこと、想像もつかない。
 は気づかないまま重苦しいため息を繰り返していた。そんなにようやく眠気が訪れたのは東の空の色が変わるころで――再び目を覚ましたときには、太陽はすっかり昇りきっていた。
『よく眠っているようだから、起こさずに行くよ』
 飛び起きたを迎えたのは、枕元に残されていたロイの字で書かれたと解るメモ一枚。
 それを手にした途端、はなぜだかひどく哀しくなって、泣き出してしまいそうになった。


 キッチンの窓の外から手が振られる――玄関のベルもノックの音も聞こえないへ、来訪を知らせるためにクリフと決めたサインだ。が気づいたら窓を叩き返して、そしてお互い玄関へ回り扉を開ける。
 いつもなら彼がどんな食材を持ってきてくれたのか、会うのを心待ちにするだったが、きょうは――玄関へ向かう足取りすら重く感じられた。
(いけない、こんな気持ちのままじゃ――)
 クリフはを好きになってくれただけで、になにかひどいことをしたわけではないのだ。沈んだような顔を見せるわけにはいかない。は、務めて笑顔を作って、玄関の扉を開けた。
「よ、よお!」
 いつものように軽く手をあげて挨拶してきたクリフだったが、戸惑いを感じているのは同じだったようだ。と目が合った途端、微妙にその目線がさ迷ったのが見て取れた。も気まずさに思わず目を逸らしてしまいそうになったが、そうすると会話が成立しなくなってしまうので、必死に思いとどまった。
「……えーっとさ、あの、きょう、午後は仕事ないんだ。だからきょうは買うトコから――その、実際に市場に行って、一緒に買ってみないか? 選び方のポイントとか、教えるし」
 クリフの突然の提案に、は驚く。見ればいつもと違い、その手はなんの食材も抱えていない。
「ほ、ほら足も――その、だいぶ良くなって……るよな?」
 それは確かに事実だった。さすがにまだ、捻った右足で飛んだり跳ねたりは無理だろうが、普通に歩く分にはもう支障はない。
 正直、気は進まなかった。この家を出て、クリフとふたりで出かけることは。けれど――相手を不快にさせずに断る理由を、必死で探してみても見つけることができなかった。
 は、返答を待っていたクリフへ頷いて見せる。
「よかった――じゃ、きょうは少し寒いから、上になんか着てきたほうがいいぜ」
 確かにきょうは曇っていて、少し風もあるようだった。クリフを玄関先に引き入れ、は二階の自室へ戻ると、クローゼットを開ける。
(これ――……)
 が、吸い寄せられるように手にしたのは、ロイから贈られた上着だった。
 手早くその上着を羽織ると、予備のメモ帳とペン、それに財布の入った小さな鞄を持って、階下へ降りた。
 扉の前で所在無げに待っていたクリフに、はお待たせしましたの意味を込めて、微笑んで軽く頭を下げた。が視線を戻すと、クリフはじっと、を見つめていた。
 なにかあるのかと尋ねるように首を傾げると、クリフは慌てて目を逸らしてに背を向けた。
「じゃ…、じゃあ、行こうか」
 首だけ振り返ったクリフにそう言われて、は訳が解らないながらも頷いて、そのあとに続いた。
 クリフがの笑顔を、一緒に出かけられて嬉しいと取ったことに、は気づかなかった。


 クリフの配達用の小型トラックの助手席に乗って、連れて行かれたのはかなり郊外の市場だった。
 初めて出会った、あのときの市場よりは小さいものだったが、売っている食材もなかなか珍しいものもあり、そしてなにより――安い。
 市場の入り口に、テーブルと椅子を並べただけの簡単な食堂があって、昼食はそこで食べることになった。名物だというチーズの入った揚げパンと、選んだ果物をその場で絞ってくれるフレッシュジュース――シンプルだが、とても美味しかった。
 時間が昼過ぎだということもあって、新鮮な野菜などはほとんど売れてしまっていたが、それでもは、クリフに尋ねながら野菜と果物、そして香辛料を買った。
 食材に関するクリフの知識はやはり豊富で、は気が進まなかった気持ちなどすっかり忘れて、この買い物を楽しんでいた。きょうはさっそくこれらの食材を使ってロイの夕飯を作ろう――そう思うと、わくわくする気持ちを抑えきれず、つい笑顔になってしまうのだった。
 やがて市場の探索も終え、とクリフは車へ戻った。買い込んだ食材をクリフのトラックに乗せてもらったは、助手席へと乗り込む。早く調理に取り掛かりたくて、うずうずしていたは、運転席に乗り込んだクリフがいつまでも車を発進させないのを、不思議に思って――ハンドルに置かれたままのクリフの腕にそっと手をかけると、その顔を覗き込んだ。
……」
 なにか思いつめたようなクリフの瞳がを捉えたかと思うと、すぐに逸らされてしまう。けれどクリフの唇は動いていたので、はそれを見つめていた。
「これから、その――夕食も、一緒に、どうかな?」
 クリフの唇は、確かにそう動いた。
 は、クリフの腕に手をかけたまま、ゆるゆると首を振った。申し訳ないけれど、それに関しては断らなければいけない理由がある。
「あの――ロイって人の夕飯作らないといけないからか?」
 いけないというわけではなく、が作りたいからなのだが、そんな細かいことは説明する必要はないかと、はそのまま頷いた。
「じゃあ明日! 前もって約束しておけば、夜まで一緒にいられるだろ?」
 そう言い始めたクリフの剣幕に驚いて、は触れていた手を引いた――はずだったのに、逆にクリフに腕をつかまれ、身体ごと引き寄せられてしまう。
「きょう、楽しかったろ? 俺も――すげえ楽しかった。もっとずっと、一緒にいたいよ。好きだ――好きだよ、――」
 突然のことで、なにが起こっているのか、まだには解らなかった。けれどクリフの顔が近づいてきて――理解できないながらも、は反射的に顔を伏せた。
 遅れて、好きだと言われ、抱き寄せられ――キス、されそうになったのだと気づく。
(どうしよう、どうしたら――……?)
 俯いたまま、身体を起こそうとは両手に力を入れた。クリフの腕は、それを阻むことはなかった。
 ゆっくりと身体を起こしてクリフから離れたは、ふたたびクリフへと視線を向けることができた。
「驚かせて、ゴメン――」
 そう言って、今度はクリフが俯いてしまう。どうやら、性急に事を運ぼうとしたことを、悔いている様子だった。
 そういう実直なところには好感が持てるとは思う。ケガをさせたと、のノートをわざわざ届けて謝ってくれたこともそうだ。口調や行動は、ときに乱暴になることもあるけれど、根はとても真っ直ぐで、優しい人なのだともう理解している。
(でも、違う……)
 クリフのことは嫌いじゃない。好きだとも思う。
 けれど、クリフと同じ意味で彼に応えることはできないと、唐突に解ってしまった。
 彼のキスを――反射的に避けてしまったことで。
(ロイさんにされたときは……それは、驚いたけど――)
 驚いたけれど、嫌だなんて感情は少しもなかった。もちろんロイは、に避ける隙を与えずに不意打ちでキスを仕掛けてくることも多かったのだが、それでも嫌ではなかった。それに――あの、ロイと再会した雪の夜――は確かに、自分の意思で彼のキスを受けた。
 嫌ではなかった。むしろ――――
(嬉しかった……)
 唇から、ロイの気持ちが伝わってくるようで。
(大事だと、言われているようで)
?」
 思考の淵に沈んでいたの手を、クリフが握って呼び戻した。
「明日、また会える?」
 そう問われて、もう会ってはいけないのだと気づく。は緩やかに首を振って、自分の手を握っているクリフの手を外すと、メモを取り出して記入し始めた。
『ごめんなさい。もう、お会いしないほうがいいと思います』
 そう書いてクリフに見せると、クリフが眉を顰めた。
「な、に……?」
 やはりこんな曖昧な書き方では卑怯だろう。は改めてペンを取り、はっきりと気持ちを伝えることにした。
『ごめんなさい。あなたと一緒にはいられません。あなたの気持ちにお応えすることは、できませ――』
 そこまで書いた瞬間、の右腕はクリフに激しく掴まれた。
「アイツのせいなのかっ? あのロイって男の――!」
 痛みと驚きでクリフを見上げたを、怒りに満ちたクリフの目が見下ろしている。
「アイツはのなんなんだ! 恋人じゃないって言ったろっ? だったら――いいじゃないか、俺と付き合えよっ!」
 さきほどよりももっと強引に――は抱き寄せられた。そしてクリフに顎をとられる。なにが起きるているのか、今度はも自覚していた。だから必死で、彼の胸を押し返し、顔を背ける。
 気持ちを曖昧にしたまま、彼についてきてしまったことには申し訳なく思う。けれどそれとこれとは別のことだ。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――!)
 心のなかで必死に謝りながら、は抵抗を続けた。
 やがて、クリフの腕がを離した――というか、助手席に叩きつけるように押し戻された。
 それでも解放されたのだとが安堵したのも、本当につかの間のことだった。
 全身にかかった負荷と、流れた周囲の景色。
 クリフが、猛スピードで車を発進させたのだ。