手から零れたもの、この手にあるもの




『だ・か・ら・よ! うちの娘が三歳なるんだよ!』
 受話器の向こうから聞こえてくる楽しそうな声に、ロイは眉を顰めた。
 ヒューズの家族自慢はいつものことだが、だからこそもう聞き飽きている。
「――マスタング大佐のセントラル招聘も近いって噂だぜ」
 とはいえ、世間話を装って、大事な情報を流してくれるためだと思えば、まぁすこしは我慢できるのだが。
「セントラルか、悪くないな」
 早い昇進を妬まれるように飛ばされたイーストシティだったが、返ってロイにはよい方向へ働いたようだ。ただ異動になるのではなく、空きの出た上層部の一員となれるのならば。
『気をつけろよ――』
 ヒューズの言葉に、ロイは「覚悟している」と呟くように返した。
 何度も――そう何度も考えてきた。自分の目的のためには、いつまでもイーストシティにいるわけにはいかないのは解っていたことだった。そう遠くない未来に、セントラルへ異動するだろうことも。
 そのとき――をどうするか。
『おまえさんを理解して支えてくれる人間を、ひとりでも多く作っとけよ』
 なにか含みのある言い方だと、ロイが思った瞬間だった。
『だから早くを嫁さんにしちまえ――ウェディングドレス、絶対似合うぞ』
「やかましい!」
 笑いだしたヒューズ本人に投げつけたい気分で、ロイは受話器を叩き付けた。背後から自分を注意するリザの声も聞こえてきたが、無視してロイは部屋を出た。
 ヒューズは茶化してそう言うが、ロイだってその可能性を考えたことがなかったわけではない。
 もちろん男同士で結婚できるわけではないのだが、書類を偽造することは可能だ。の外見なら“ボーイッシュな女性”で通しても、さほど無理はないだろう。ヒューズが言うとおり、ドレスだって似合ってしまうのではないかと思う。
 でも、だからこそ――にそんなことは言い出せない。がその身を偽らなければいけないような生活をさせたくはない。そのままのを、ロイが守れないのなら、一緒にいても意味はないのだから。
(セントラル、か……)
 立ち止まった廊下で、窓の外をぼんやりと眺めながら、ロイは思う。敵地に乗り込むようなつもりで準備をしなければならないだろう。
(中尉だけでは心もとない、か。グラマン中将に頼んで、何人かもらうか……)
 ハボック、ファルマン、フェリー、ブレダ――現在の直属の部下はすべて連れて行こう。彼らがイヤだと言っても、上司命令といえば済むことだ。問題は、たったひとつ。
――……)
 正直、連れて行きたい。ロイが一緒に行ってくれないかと頼めば、は頷いてくれるかもしれない。けれど――セントラルは、にとって暮らしやすい街とはいえないだろう。いまのように料理店で働くことも、難しいかもしれない。
 そして、最も大事なことは。
(わたしは、を守れるのか……?)
 漠然としか想定できずにいた“敵”はすでにいて、すぐそこまで迫っていたことに、ロイは気づくことができなかった。
 
 
「やれやれ、今晩は早く帰れそうにはないか……」
 書類を抱えながら執務室へ戻ってきたロイは、室内の電話が鳴っているのに気づく。
『セントラルのヒューズ中佐から、一般回線でお電話です』
 交換手の言葉に、自分でも不機嫌になるのが解った。
「またヒューズか、つなげ」
 ロイは定時では上がれないというのに、昨日の娘の誕生日パーティーの話でも聞かせる気か。
「わたしだ。娘自慢なら聞かんぞ」
 繋がった途端、釘を刺すつもりでそう言った。
 まぁまぁそう言うなよ――と、いつもの調子で返ってくると思ったのに。
「……おい、ヒューズ?」
 つながっているはずの受話器からは、なにも聞こえては来ない。
「ヒューズ! ヒューズ!!」
 何度も何度も、電話口へ呼びかけたが、ヒューズからの応えはなく。
 声を聞きつけたのか、ロイの背後で扉が開いた。
「大佐、どうかされたんですか? ヒューズ中佐が、どうか?」
「中尉――」
 現れたリザに、受話器から耳を離さないままロイは顔を向ける。
「いや……」
 悪戯だったのだろうか――呟くように答えたロイは、交換手の『一般回線で通信です』という言葉を思い出した。外から軍の回線に繋ぐには、コードの照会が必要だ。ヒューズ以外の相手は、ありえないはずだ。
(……おかしい)
「中尉、いますぐセントラルに電話して、誰か捕まえてくれ。ヒューズを捜すように――」
 そう、おかしい。おかしすぎる。確かにかけてきたのはヒューズのはずなのに、なんの応答もないなんて。回線だって、まだ繋がっているのに。
「そうだ――この回線はこのまま、逆探知させろ! それとは別にセントラルに繋いで、誰か捕まえるんだ! ヒューズを探すように言え――いや、探知が先か。探知させた場所に、誰かを向かわせろ!」
「落ち着いてください。なにがあったんですか?」
「なにも――なにもなければいいんだが」
 いつもと同じ、冷静に返されるリザの言葉に、ロイの焦りは増した。
「急いでくれ! 嫌な予感がする――」
「解りました」
 深刻さを理解したらしく、リザは端的に返事をすると部屋を出て行った。
「冗談であってくれ、ヒューズ……」
 呟いた、ロイの望みは叶わなかった。
 リザが部屋に戻ってきたのは、何分後だったろうか。十分、二十分、いや――三十分は経っていたかもしれない。
 顔を顰めて、なんとか冷静さを保とうとしている彼女の口から告げられたのは、ヒューズの死。
「なんて、ことだ……」
 嘘だろう、間違いないのかと、リザを問いただしたかった。彼女の両肩を掴んで揺さぶって、その口から嘘でしたと言わせたかった。
 けれど彼女がそんな嘘をつく人間ではないことはロイ自身がよく知っている。そのリザがはっきりと告げたのだ『マース・ヒューズ中佐の死亡が確認されました。殺人の可能性が高いとのことです』と。
 ロイだって人を殺してきた。
 人が簡単に死んでしまうことを、知っている。
 けれど――――
「なぜ――! なぜだっ!」
 叫びながらロイの拳は、壁を叩いていた。何度も、何度も。
「なにが――なにがあった!」
 壁に向かって、ロイは叫び続けていた。いつのまにか、リザの姿は消えていた。
「ヒューズ――……」
 その名を呼んだロイの声は力なく、ずるずるとロイはその場に膝をついた。


 しばらくして、ノックの音がした。
 壁を背に、床に座り込んでいたロイは顔を上げる。入ってきたのはリザだった。
「大佐、明日の朝いちばんのセントラル行きの列車を手配しました。本日はもう、ご自宅にお戻りいただいたほうがよろしいかと。明日の朝、迎えに伺います」
「ああ……すまない、中尉。頼む」
 ゆっくりと、ロイは身体を起こした。
 そのまま、リザと一緒に執務室を出る。
 リザは必要以上の言葉は口にしなかったし、ロイも話しかけることはなかった。
 変わることなく世界は、静かに時を刻んでいた。
 穏やか過ぎるほどに。
 リザの運転でロイが自宅へと戻ってきたのは、すでに日付も変わろうという時刻だった。
「ではまた明日」
「ああ」
 最低限の言葉だけを交わして、車は走り去る。ロイも車に背を向けると、扉を開けた。
 灯りがついているとは思わなかった。いつもならは眠っている時間のはずだ。
 一瞬、も知っていて、それでロイが帰ってくるのを待っていたのかと思った。けれど違った――近づいてきたは、いつもと変わらない笑顔で、ロイの背中に腕を伸ばしてきたから。
 ポンポンと背中を叩く、柔らかな手。
 ロイの両腕にすっぽりと収まってしまう細い身体。
 縋りつくように、ロイはを抱きしめていた。
――……」
 こんなことになるなんて思わなかった。
 ヒューズに会ったのはほんの数日前だったのに。
「ヒューズが死んだんだ、――」
 の肩に顔を埋めながらロイは吐き出す。
 俯いたまま呟いた言葉では、には伝わらないと解っていた。
 けれど伝えたくなかった。
 なによりもまだ自分が、本当だと信じたくなかった。
「あいつが――先に逝く、なんて……」
 ロイはを抱きしめたまま、抑え切れなくなった感情のままに嗚咽を上げた。
 この手で大勢殺したイシュヴァールの地で、苦しみと哀しみに苛まれたときですら、涙など流しはしなかったのに。
 ひとたび溢れ始めた涙は、止まることなく。
 事情はわからないはずなのに、はロイの腕のなかで身じろぎすることもなく、ただ静かにロイを抱きしめてくれていた。
 この腕のなかにある温もりだけは失くせないと、ロイは強く――強く思った。




*あとがき* できれば、避けて通りたかったです……