約束の地で待つものを知ることはなく
目が覚めたとき、はひとりだった。
一緒に眠ったはずのロイの姿はすでになく、代わりに残されていたメモには、セントラルへ行くということと、戸締りに気をつけるようにということが書かれていた。 そのメモに残されている字を、そっと指先でなぞりながら、は知らずにため息をついた。 昨晩、帰ってきたロイにいつものようにお帰りなさいの代わりに手を伸ばすと、そのまま強く抱きしめられた。胸に顔をうずめる寸前、一瞬だけ見えたロイの顔はひどく険しいもので。 なにがあったのか解らないままだったが、はロイの腕のなかにいた。ロイに抱きしめられることを拒む理由など、ひとつもなかったのだから。 やがて、いっそう強くロイの腕がを――それこそしがみつくように――抱き寄せたと思うと、その身体が小刻みに震え始めたのが伝わってきた。一瞬、ロイはどこか具合が悪いのかという思いも過ぎったが、すぐに違うと直感した。ロイは――泣いているのだと。 四年間一緒に暮らして、初めてだった。ロイがの前でこんな姿を見せたのは。辛く、苦しいことだってあるだろうに、の前では決してそれを見せなかった彼が、こんなふうに身体を震わせて泣くなんて――どれほど辛いことがロイの身に起こったのかと思うと、それだけでも泣きそうになってしまった。 けれど、しばらくして身体を離したロイから告げられた言葉に、は涙を堪えることができなくなった。 『ヒューズが、死んだ……』 ロイは目を逸らせたままで、それ以上なにも言わなかった。けれど、それで充分だった。 もちろんだって信じられなかった。けれどロイの態度からそれが嘘なんかではないことは解る。それになにがあったのかを訊ねても、その事実が変わることはなく、それを説明するロイに更なる苦痛を与えることになるのだから。 はロイから離れがたく、再び身体を触れ合わせた。ロイも、そう思ってくれているようで、を抱き寄せてくれた。だからそのまま、ロイのベッドで一緒に横になった。 涙が、止まらなかった。 ヒューズとはつい先日、言葉を交わしたばかりだった。 駅でアームストロング少佐と鋼の錬金術師を見送ったあと、ヒューズの頼みで東方司令部に差し入れを届けることになって。 『ロイを支えてやってくれよ、』 別れ際に言われたヒューズの言葉に、はすぐには頷けなかった。 は男で、しかも耳が聞こえない。ロイのためならなんでもしたいとは思っていても、どうしたって制限はある。 そんなの思考を、ヒューズは正確に読み取った。 『お前さんなら、ロイの支えになれるさ。ここのな――』 ヒューズは拳で、自分の胸を軽く叩いて見せた。 『生きるか死ぬかの局面で大事なのは、力よりも心だ。守りたいものの存在が、男を強くする。――お前さんだって、あいつを大事に思えば思うほど、強くなれるはずだぜ』 トンッとの胸を叩いたヒューズの笑顔につられるように、は頷いたのだけれど、そのとき、その言葉を本当に理解していたとは言いがたい。 司令部で忙しく働いている軍人たちを見て、ロイのために自分ができることは本当に少ないのだと思い知らされて、辛くなってしまったから。 けれど―――― 『いつまでも、この国は軍人を必要としないはずだ。いや、そういう国にするために、わたしはここにいる。そうなればもちろんわたしも失業するわけだが――そのときは、の店で雇ってくれるかい?』 ロイの言葉は教えてくれた。ロイとが見ているものは、確かに同じ未来なのだと。 そのときようやく、ヒューズの言葉が理解できたのだ。いまロイの隣に立ち、ロイの役に立つことはできなくても、ロイの未来のために――ロイの未来を支えるために生きることを、もあのキスに誓った。そして、自分とロイを理解してくれているヒューズに、改めて感謝したのだ。 ロイと出会えたのは、偶然かもしれない。 ロイの家に置いてもらえることになったのも、同情や気まぐれだったのかもしれない。 けれど一緒に暮らし始めたことは――お互いの意志ももちろんあったが――周囲に助けられたことが大きい。ロイの迷惑になるのではと躊躇っていたの背中を押してくれたのは、セントラルを去る前日、ヒューズに言われた言葉だった。 『ロイにはお前さんが無事に見つかったことを伝えておいたぜ。ただ、かなり心配してたみたいだからな、もしイーストシティを通ることになったら、少し顔出すくらいの時間はつくってやってくれよ』 ロイに会いたかった。けれど会っても迷惑をかけるだけで、さらに離れがたくなるのなら、このまま会わずにどこか落ち着く先を決めたほうがいいのではと思っていた。 けれどヒューズが、決して押し付けがましくなく、軽い口調でそう言って来たので、世話になった礼を直接言うくらいはしておこうと思えたのだ。 行ったほうがいい、行くべきだなどと言われたら、逆に重荷になってイーストシティには向かえなかっただろう。そしてそれはたぶん、偶然ではない。あのときもヒューズは、のことをために、が行動しやすいように、そういう言い方をしてくれたのだ。会ったばかりだったというのに。 どうしてそこまでしてくれたのか、いまなら解る。 ロイのためだ。 ヒューズもまた、ロイと同じ未来を見ていたからだ――彼の、家族を守るために。 潤んでいたの瞳から、再び涙が溢れ始めた。 志半ばで愛する家族を残していかなければならなくなった彼と、彼と別れなければならなくなった家族のことを思うと――涙が止まらなかった。 ロイのベッドで一緒に横になってからも、涙は止まることなく。ロイは泣き続けるを優しく抱きしめ、ずっと髪を撫でてくれていた。 ロイのほうがずっと辛いだろうに、を気遣ってくれ――そのまま、泣きつかれて眠ってしまったらしい。時間はわからないが、明け方近かったはずだ。ロイはきっと、一睡もせずに家を出たのだろう。 いまごろロイは、ヒューズと哀しい再会をしているころだろうか――溢れる涙を押さえながら、はそっとロイの残したメモを取り上げた。 『なるべく早く帰る』 メモの最後に書かれた文字を、は右手の小指でゆっくりとなぞった。まるで、指切りでもするかのように。 (お休みでよかったと……思うべきなのかな) 泣きはらして赤いままの瞳を鏡で見ながら、は思った。 きょうはちょうど、週に一度の店休日で、給仕の仕事はなかった。ロイも休みを取っていた。 なにか予定があったというわけではなく、たぶんいつもの休みのように――ロイと一緒に部屋を片付けたり、買物に行ったり――のんびりと過ごすはずだった。 けれど………… 少しでもヒューズのことを思い出すと、再び涙が滲む。だがいつまでもこのままではいられないことも解っていた。明日は仕事もあるし、ロイの不在中は一層気を引き締めていなければいけない。 は冷たい水で顔を洗って気持ちも引き締めると、台所へ向かった。とりあえず温かいお茶を入れて、なにか軽い食事を取ろうと思った。それから掃除をして、食料の買出しに行って――ロイがいつ帰ってきてもいいように、この家を整えておこうと。 そう決意はしたものの、やはり意識はどこかに捉えられているような、普段とは違う緩慢な動きになっていて――戸棚から取り出したティーカップが、の手からつるりと落ちた。 (あ――……!) 反射的には手を伸ばしたが、間に合わずカップは割れ、そのままの勢いでは割れたカップの上に手をついてしまった。 (痛っ……) 親指の付け根に焼けるような痛みを感じたと思ったら、砕けた白いカップの破片がに紅いものが流れた。 は体勢を整え、近くにあったタオルで切ってしまった左の親指を押さえた。その白いタオルも、見る見るうちに紅く染まってゆく。 (なにをやってるんだろう……。こんなことひとつ、満足にできないなんて――) 床に散乱するカップの破片と、血の染みを見下ろしながら、は情けなくて泣きたくなった。すぐに掃除をしたいと思うのだが、左指を右手で押さえている状態では、さすがに無理な話で。 (ロイ、さん……) はギュッと唇を噛んだ。こんなことで泣いていては、いけない。ロイを頼るばかりでは。 は右手と口を使って器用に傷口を縛ると、鞄を肩に掛けるようにして家を出た。 医者に見てもらうと、破片も入っていないし、出血のわりに傷口も深くはないとのことだった。 だが、一週間は濡らさないように、最低でも三日は、重いものなどはもたないようにと言われてしまった。 仕方なくは帰りがけに店主の住居を訪ね、訳を話した。幸いにも右手は無事だったから、筆談はできた。 不注意を詫びて、三日ほど休ませてもらえるよう頼んだ。店主は一週間でもいいと言ったが、が譲らなかったので、とりあえず三日で様子をみようということになった。 は再び頭を下げて、店主の家を後にした。片手しか使えず不自由だが、帰ったら真っ先にカップを片付けて床の掃除をしようと思いながら岐路についていただったが、そうすることは叶わなかった。 その日――が姿を消したことに、気づいた者はいなかった。 *あとがき* 予告通り、今後はすこしオリジナルな展開が続きます。ので、主人公の話ばかりになる予定です。 |