第四話 朝の光は濡れた石畳を優しく照らした
「……わたしの家に来ないか?」
ゆっくりと動かされたくちびるは、にも容易に読み取ることができた。退院したいとつい感情的になってしまったのは、病院で大事な人を亡くした辛い記憶を思い出したせいだった。けれどまさか、そんなことを言われるとは思っても見なかった。今日会った――というか、にとっては、たったいま会ったばかりの相手に。 ただ見返すだけしかできなかったに、目の前の黒髪の人物は、同じく黒い瞳でを見下ろしながら微笑んだ。 「わたしの家――といっても、わたしも今日イーストシティに着いたばかりでね。寝るところぐらいしか提供できないんだが、どうかな?」 にはどうしてそんなふうに言ってもらえるのかが解らなかった。けれど口の聞けない自分に同情して親切にしてもらうことは度々ある。そういう場合はよほどのことがない限り受けてしまったほうが波風が立たないというのが姉の教えだ。自分にできないことを他人にお願いすることは恥ずかしいことではない、耳が聞こえないからといって卑下する必要なんてどこにもないと、繰り返し教えられた。きっといつか――こんなふうに離れ離れになってしまう未来を、予測してのことだったに違いない。 は首にかけた袋をギュッと握り締めながら、自分を見つめる黒い瞳に頷いて見せた。微笑みを浮かべていた相手は、さらに優しげな笑みを見せた。 (とても優しそうな人――) それががロイに抱いた第一印象だった。 (けれど、とても強い意志を感じさせる人だ――) ロイ・マスタング……の見間違いでなければ、中佐と言っていたと思う。若く見えるのにすでにその地位にあるとは、優秀な軍人なのだ。優秀な軍人ということは、それだけ人を殺してきたのだということも解る。けれどは、一般市民よりも、軍人に対する嫌悪感は少ない。それは、この袋の中に入っているロケットの、そのなかに大事にしまわれた写真に残されている人物も、青い軍服を着ているからだ。 セントラルへ行くのは、そう急ぐ旅ではない。捜している人物が、セントラルのどこにいるのかは解らないが、セントラルにいることは確実なのだ。軍の情報網を使って捜してもらえばすぐに見つかるだろうが、自分で見つけなければ意味がない。ロイがのことを厄介だと思わないのなら、素直にロイの世話になろうとは決めた。 よろしくお願いしますの意味を込めて、は微笑んだあと、深々と頭を下げた。だからは気づかなかった。ロイが硬直して、頬を赤くしたことに。 それまでも、男だと解っていても目を惹く綺麗な顔立ちだとは思っていたのだが、近距離で微笑まれたとき、それまで浮かべていたのとは違う、とても親しげな裏のない微笑みに、ロイは見とれてしまった。 25年間生きてきて、その約三分の一を軍属として、国家錬金術師として生きてきて、ロイの人間関係はガラリと変わった。初対面の人間に向けられる視線は、嫌悪、畏怖、妬み、羨望、打算――おおよそ好意的なものは含まれていなかったし、対するロイも、自分の野望にとって有益かどうかで相手を判断してきたのだから、お互いさまといえる。 けれどそのロイが、に関しては、なぜかもっと知りたいという思いから、利益など度外視して行動している。確かに、あの場にいた誰よりも素早く行動できたのだから、あの場にいた人間のなかではいちばん優秀なのだと言える。けれど軍人でないが自分の手駒になるわけではなく、そうしたいという思いもない。 下心――というのが、いちばん近いのかもしれない。だからといって、会ったばかりの、しかも男にいきなり手を出そうと考えているわけではない。もちろん女性ならまたそれはそれで話は変わってくるのだが、いくら綺麗でもが男であるのは承知しているし、こういってはなんだが、ロイ自身、女性に不自由しているわけでもないのだから。 ただ、知りたい。ただ、気になる。ただ、もっと見てみたいのだ――この・という人物を。 だから多少強引でもとした提案に、から邪気のない笑みが返ってきたとき、普通なら少なからず己の抱いた下心を反省するところであるはずなのだが、ロイ・マスタングは逆に、その下心を増幅させた。どんな手を使ってでも、彼を家に連れて帰ろうと。 もちろん頭を下げていたがそんなことに気づくわけもない。が顔を上げたのは傍らからロイの気配が消えたからだった。見ると医者が来ていて、ロイと向き合って話している。 からは医者もロイも、見えるのは横顔だけだったので、なにを話しているのかは微妙に読み取ることができなかったが、しばらくすると医者が出て行き、ロイは向かって勝ち誇ったような笑みを見せた。 「許可が下りたぞ」 ロイはベッドサイドに近づき、置いていたトランクを取り上げる。 「荷物はこれだけだったな」 頷いたは、再び扉が開き、医者が車椅子を押して入ってきたことに気づく。 そこまでしなくても、とがロイを見上げると、その視線に気づいたロイは「ん? ああ、心配するな」とだけ言った。 次の瞬間、の背中と膝の裏に、ロイの腕が入れられていた。理解する前に、はロイに抱き上げられていた。 「傷は――痛まないか?」 の本当に目の前で、ロイのくちびるが動いていた。あまりのことに、コクコクと頷くのが精一杯で、抵抗する以前に身体が動かせなかった。 ロイは、自分の腕のなかでが身体を強張らせていることに気づいて、俯いているに気取られないよう楽しげに微笑んだ。いっそ車椅子を断ってこのままハボックのいる駐車場まで運びたかったが、流石にわき腹の傷に障りそうだと考え直して、細心の注意を払いながらの細い身体を車椅子に降ろした。こんなところで、退院許可を取り消されては困るのだから。 の肩は火傷というほどではなく、注意しなければいけないのは縫ったばかりのわき腹の傷だけだったが、病院にいても寝ているだけなのだから自宅でも同じだろうとロイは半ば強引に話をつけた。消毒と抜糸に来なければならないのだが、それは自分がついていけばいい。 車椅子を押す前に、ロイは無言でコートを脱いだ。がいま着ているのは病院のスモックのようなパジャマで、血まみれになった服は捨てられてしまったはずだ。このまま外に連れ出すのは少し寒いだろう。けれどロイのコートは、の血がついたままだ。ロイは軍服のボタンを外して上着を脱ぐと、の肩にかけた。 「すまないが、これで勘弁してくれ」 もともと動きやすいように大き目に作られているものだったから、線の細いには余るほどに大きく、寒さを凌ぐにはちょうどいいだろう。 女性も同デザインなのだし、そもそも軍服というのは誰が着ても無個性になるようにデザインされているのものなのだが、その重たそうな上着は、には明らかに似合っていなかった。こんな無骨なものではなく、もっと柔らかく軽そうな服を着せてやりたかった。 「動けるようになったら、まず服を買いに行こう」 ポンと軽くの頭を叩いてその思いを口にすると、ロイはシャツの上に再び黒いコートを羽織り、車椅子を押し始めた。 病院の玄関へ出ると、すっかり陽も落ちて暗くなっていた。雨足は少しは弱まっていたが、依然として降り続いていた。ロイはハボックに合図をして玄関へ車を回させると、再び車椅子からを抱き上げようとした。今度はは首を振ったが、ロイはニヤリと笑って答えた。 「すまないが、靴も買いなおさないとな」 そのとき初めて、は自分が裸足であることに気づいた。これでは歩けると主張しても無理なことだった。すまなそうにロイを見上げるに、努めて平静を装って、ロイは告げる。 「わたしの首に腕を回してもらえると抱えやすいのだが――いや、傷が痛むようなら無理はしないでくれ」 もちろんロイの思惑に気づくはずもなく、素直には左腕をロイに伸ばし、遅れて、右わき腹の傷の状態を確かめながら右腕も伸ばした。ロイは満足気にを抱え上げる。 車から降り、後部座席のドアを開けて待っていたハボックはその一連の行動に思わず咥えていたタバコを落とした。 「騙されてる……」 血まみれになってしまった服はともかく、確か靴は、ベッドの下に置かれていたのをハボックは見たのだが。 「なにがだ、少尉?」 勝利者然とした上官に、逆らえる言葉はなく。 「い、いえ、なんでもありません」 「そうか――とりあえず、今日はもう遅い。夕飯を食べに行きたいのだが、どこかいい店を知らないか? 静かで落ち着いた――だがドレスコードのない店に案内してくれたら、君の分も奢るが?」 「……はぁ」 逆らったら怖いと思わせる上官に出会ってしまった自分の不運を嘆きつつ、になにもしてやれないことを心のなかで手を合わせて謝りながら、ハボックは後部座席の扉を閉めた。 ハボックに案内されたのは夫婦ふたりでやっているらしいこじんまりとした家庭料理の店で、静かで落ち着いているとは言いがたかったが、座席数が少ないため、賑やかすぎるというほどでもなかった。なにより、軍服とパジャマ姿で入れる店といったら、そう高級なところは無理なのだから、贅沢もいっていられないだろう。 確かに、値段の割には美味しく、の口にも合ったらしい。ハボックやロイほどではなかったが、それでも人並みの量は食べていた。 食事を終えるとハボックに家まで送らせ、ロイは再びを抱きかかえながら、家に入る。レストランでもそうだったのだが、律儀にロイの首に腕を伸ばしてくるに、内心の笑みを隠し切れずにいるロイの姿は、ハボック以外の人間が見ても『怪我をした恋人を大事に甘やかしている図』にしか見えなかっただろう。現に、ハボックが常連であるそのレストランの奥さんに「アンタも早く恋人作りなさいよ」と帰り際に耳打ちされてしまったくらいだ。 の鞄を持って家のなかへ続いたハボックは、「みんな騙されてる…」と上官に聞こえないように呟いたのだった。 ロイはそんな周囲の視線に気づいていたが、が気づかないのをいいことに、辞めるつもりなどなく、楽しんでいた。喋れない分、仕草や目線でその純粋さを感じさせるは、二十歳だと申告した彼の言葉が嘘でないのなら自分と五つしか変わらないはずなのだが、幼い子供のようにも思えた。だからこそ、悪戯心がむくむくとわき上がってきたのかもしれない。 ベッドにを寝かせ、鞄を置いたハボックが出て行ったのを確認すると、ロイはの髪をかきあげ、あらわになった額に、素早くくちびるを落とした。 「おやすみ。いい夢を」 目を見開いてロイを見つめているに、ロイは微笑んで部屋をあとにした。ハボックに、明日の迎えの時間を確認して送り出すと、ロイも自分用の寝室へ向かった。 ベッドに入ったロイは、先ほどのの顔を思い出しす。あんなふうに子ども扱いされたことを、彼はどう思ったのだろうと考えると堪えきれずに笑い声がもれる。笑みを浮かべたままロイはいつのまにか眠りに落ち、その隣の部屋では、がすでに眠っていた。 ずっと降り続いていた重苦しい雨は、その日の夜明け前にようやく降り止んだ。 やがて薄く切れ始めた雲間から、朝の光はまだ濡れた石畳を優しく照らしていった。 |