果てで覚醒する温もりは狂気か善か
(買いすぎた、かも……)
三日分の薬と包帯を買ったは、ついでに食料品も買ってしまおうと市場まで足を伸ばした。ハム、チーズ、オレンジ、パンなどすぐに食べられるものばかりを選んで購入し、家に帰ることにした。しかし、片手がつかえないということを、すっかり忘れていたのだ。 は路地へ入り、荷物を降ろす。買ってきたものを少し整理して、重い物は肩から提げている鞄のほうへ移すことにした。 隙があった――といえば、そうなのだろう。肩から外した鞄を、不用意に身体の脇においてしまったのだから。 気配に気づいたときには、もう遅かった。小さな手と、宙に浮く鞄。慌てて伸ばした手は傷のある左手のほうで、痛みを感じたは鞄を掴むことができなかった。 盗られた鞄と、走っていく子供らしき小さな姿を追いかけようとした。けれど一瞬、買った物をこの場に残していくことを躊躇ってしまい、それらを掴んで走り出した。 あの鞄のなかには、財布、ノート、家の鍵も入っていた。あの鞄のほうが大事だから荷物は放っておけばよかったのに、それに気づいたときにはすでに息が上がったあとで――もちろん鞄を盗っていった少年は見失ってしまった。 それどころか――気づいたら、知らない場所にいる。 (どうしよう、どうしたら――……) とりあえず帰り道を見つけることのほうが大事だと思った。邪魔になる重い荷物をその場に置いて、周囲を歩き回ってみた。 だが、見覚えのある通りを見つけることはできない。 はとぼとぼと荷物を置いた路地まで戻ってきた。皮肉にも、買った物は盗まれることなくそのまま残っているようだった。が近づいていくちょうどそのとき、荷物に駆け寄っていく子供の姿が見えた。は走り出す。袋のなかを覗き込んでいる子供の前で、右手を伸ばして荷物を押さえ、子供を睨みつけた。 子供はの勢いに驚いた顔を見せたが、すぐにニカッと笑う。 「なーんだ。この荷物、ねえちゃんのか。落ちてるんならもらっちまおうと思ったけど、残念だな」 屈託のない笑顔を見せる少年の歯が一本抜けていて、それがいっそう彼を幼く見せていた。 「オレが言うのもなんだけど、このへん物騒だから、あんまり物おいたままフラフラしないほうがいーぜ」 どうやら彼は、の鞄を盗った少年とは別人なのだと気づいて、はほっとした。と、同時に、膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまう。 「どうしたんだよ、ねえちゃん!」 俯いてしまったには、その声は聞こえない。 少年を疑ってしまったことが恥ずかしくもあったし、なにより、鞄を盗まれてしまった自分の軽率さに情けなさが増す。 財布は――買い物を済ませたあとでそれほどの金額は入っていなかったから、諦めもつく。 鍵は――なければ家に入れない。合い鍵を持っているロイもいない。だが、あの家は軍の宿舎だと聞いている。情けない話だが、ハボックに事情を話せば、合い鍵が別にあるかもしれないし、なくても、申し訳ないがロイが帰ってくるまでの間、どこか宿に泊まれるだけの金を貸してもらえるよう頼むこともできるだろう。帰り道が解ればの話だが。 (でも、ノートが……) 胸のポケットに入れている決まった文章が書かれたメモ帳とは別に、会話や覚え書き用のノートを鞄に入れていたのだが、それも盗られてしまった。もちろんそれらも、買い直すことはできる。だが、あのノートには、先日のロイとの会話が入っているのだ。 『ロイ・マスタングは将来・の店で働くことをここに誓う』 ロイとの大事な未来の約束――ノートを失ったからといって、ロイとの約束が破棄になるものではないことは、解ってはいる。だがロイが誓ってくれたあの言葉が、誰かの手によって踏みにじられることは、我慢ができなかった。それもこれも――自分の浅はかな行動が原因なのだが。 「どうしたんだよ、ねえちゃん。どっか具合悪いのか? ああ、ケガしてんのか!」 少年は、ぐったりとしゃがみ込んだまま動かないに声を掛ける。はそれに気づかないまま自己嫌悪に沈み込んでいたのだが、のケガに気づいた少年が、の腕に触れたことで、ははっとして顔を上げた。 「傷、痛いのか?」 少年が心配そうにを覗き込んでいた。 「気分悪いのか? 立てない?」 自分に問いかけているのだと気づき、は慌てて首を振る。 「そっか、ならよかった」 少年は再びニカッと笑う。つられるようにも微笑みながら、立ち上がった。 「なぁ、ねえちゃん。その手じゃ荷物運ぶの大変だろ? オレ、手伝ってやろうか?」 その申し出に、はビクッと身体を震わせてしまった。頼んだら、少年は荷物を持ったままどこかへ行ってしまうのではないかと。だが、そんなはずはないとすぐに気づく。彼が本当にそうするつもりなら、が項垂れている隙にいつでもできたのだから。 は少年に、頭を下げるように大きく頷いて見せた。 「ホント! じゃあさ、やる前からなんだけど、お礼もらってもいい? 実はいまウチにケガ人がいてさ、包帯とか薬とか、足りなくなりそうなんだよ。ちょっと、もらえるだけでいいからさ」 少年の言葉に、は驚きを隠せなかった。 よくよく見れば少年の服は薄汚れていて、所々つぎはぎもある。あまり裕福とはいえない暮らしをしているようだった。 けれど少年の瞳はとても生き生きと輝いている。小さくても、貧しくても、生きることの喜びを知っている瞳だ。 ほっとする――少年は、信用できる。必要としているのなら薬も包帯も渡して、代わりに道を教えてもらおうと、は包帯と薬の入った袋を少年に差し出した。 「ん? これ持てばいいの? あと、こっちは? オレこー見えても結構力あるんだぜ。さっきだって、下水道で拾ったケガ人をひとり運んで――とっ」 余計なことを言い過ぎたとでも言うように、少年が言葉を切る。それがなんのことがには解らなかったが、とにかく道を教えてもらいたいということを伝えるために、少年の手を取った。 「なに?」 問いかける少年の手のひらに、一字ずつ通りの名前を綴った。書き終えて少年の顔を見るが、少年はきょとんとを見返してるだけだ。 「なに? なんかのゲーム?」 もう一度書こうとすると、あっさりと手を振り払われてしまう。 「それにしてもねえちゃん、さっきから黙ったまんまで――、オレなんかとは口聞きたくないとか?」 不満そうに、少年がを睨みつけてくる。 慌てて首を振り、自分の口元を指す。口を開いては閉じてを繰り返し、再び首を左右に振った。最初は訳がわからないというように少年はぽかんとを見上げていたが、やがて気づいてくれたらしい。 「もしかして……声出ないの!」 少年の言葉に、は大きく頷く。 「あ、じゃあさっきオレの手のひらに書いたのは、もしかして――字?」 再び、は笑顔で頷く。 「そっか……ゴメン! オレ、字読めないんだよな」 苦笑する少年に、はその可能性をすっかり忘れていたことに気づく。 「で? どっち行くの?」 荷物を持って歩きだそうとする少年に、は困ったように首を振ることしかできなかった。 「あー、ねえちゃん。ひょっとして……迷子?」 子供から迷子と言われてしまったことに、は恥じ入りながら頷いた。 「そっか、まいったな……」 なんとか手振り身振りで伝えることはできないかと必死で考えていたは、自分を見上げる少年の視線に気づく。少年は楽しそうに、その欠けた歯を見せて笑った。 「じゃあ、じっちゃんとこ行くか。アンタなら――たぶん連れてっても怒られないと思うから」 じっちゃんなら字も読めるしなんでも知ってる――そう言われて、は少年のあとをついていったのだが、歩いていくうちに、明らかにまずい場所に踏み込んでいることに気づいた。ロイに、近づいてはいけないと言われている場所に。 見えてきたのは、積み上げた瓦礫や廃材、布で覆われただけの粗末な建物――貧民街だ。 一瞬、は不安を覚えたが、そこにいる人々の笑顔に気づいた。 「また新入り拾ってきたのかー?」 少年を迎え入れる男性の瞳は、を見ても笑顔のままだった。 「迷子だよ。じっちゃんはどこ?」 「さあな、あのケガ人のとこじゃねえか」 「ありがと。行くよ、ねえちゃん」 未知なる場所へ足を踏み入れるのは怖くもあったが、なぜだか、ここは安心だと思えた。少年と一緒だからかも知れない。は小さくとも頼もしく見えるその背中について行った。 「じっちゃん、いるー?」 布を捲ってなかを覗き込む少年につられるように、の視線もそちらに向けられる。隙間から覗いたものに、は息をのんだ。あまり綺麗とはいえない布を巻かれて横たわっている男は、どうみてもひどいケガ人った。 「いないなぁ、オレちょっと探してくるよ。あー、ねえちゃん、悪いんだけど、ねえちゃんの持ってる薬、このおっちゃんに少し使ってやってくれないかな?」 はこくこくと頷いた。 「じゃ、なかで待ってて」 言われて、は布をくぐる。 大きな傷は手当てされているようだったが、全身に擦り傷や小さな切り傷を負っている。は男の傍らに膝をつくと、持っていたハンカチに薬を塗り、彼の身体を清めるように拭いていった。 ふと、は男の右腕に書かれた不思議な模様に気づく。 (これ、は――) なんだろうと不思議に思ったとき、唐突にはロイの言葉を思い出した。 『錬金術師ばかりを、狙う男がいるんだ――私が狙われる確率は高い』 一緒にいるときにその男が現れたら、まず逃げるようにとその男の特徴を教えられた。 『そいつは右腕に入れ墨のあるイシュヴァール人で、そして――』 は恐る恐る横たわる男の額に掛けられていた布に手を掛けた。 『額に大きな傷があるんだ』 の瞳に飛び込んできたのは、男の顔に走る大きな傷跡だった。 *あとがき* 読み切りで続けていたお話ですが、今回は続きます。そしてあと一回か二回はロイが出ません。すみません…… |