覚醒した赤い狂気に差し伸べる術は
ほどなく、少年がひとりの老人をつれて戻ってきた。薬をいったん少年に預け、は老人と別のテントへ入る。
白い髭を長く伸ばした小柄な老人は、少年が言ったとおり字が解り、はいまの状況を伝えることができた。 鞄を取られてしまったこと。慌てて追いかけたら道に迷ってしまったこと。鞄のなかに財布と家の鍵と、大事なノートが入っていたこと。お金はいらないが、ノートはできれば見つけたいと思っていること。 取っていった少年の人相風体を聞かれ、は覚えている限りのことを答えた。 そういう少年は同じ場所で同じ行為を繰り返すことが多いので、探してみてもいいと老人は言ってくれた。 「そのかわり、と言ってはなんじゃがの」 老人は、白い髭を触りながら淡々と続ける。 「お前さんの薬を、あの御仁に分けてやって欲しいんじゃ。それと……お前さん、あの御仁を知っておるな?」 はっとして老人を見返した、のその仕草こそが、答えになってしまった。 「黙っていて欲しい――」 そう言うと、老人は深々と頭を下げた。 はすぐに答えることができずにいた。彼が軍が追っているスカーであることに間違いないだろう。ロイの言っていた特徴とも合致する。 ロイに言われていたのは、一緒にいるときに彼と遭遇したら迷わずその場から逃げること、だった。戦闘などできないでは、ロイの助けにはならない。卑怯者だと罵られても、が逃げることがふたりにとって最も生命の危険が少ない選択なのだと、あのときから理解している。 けれど、いまは―――― ロイが傍にいるわけではなく、はひとりだ。スカーが狙うのは国家錬金術師だけという話なのだから、がスカーの傍にいても、危険はないように思われる。 だが、軍が追っていると知っていて、その存在を黙っていてもいいものか。彼が生きていれば、ロイの命が狙われることにもなるのだから。 (ロイ、さん――……) 救いを求めるように、はロイの名前を心のなかで呟いていた。 失われてしまったノート。そこに書かれているのは、ふたりの、遠い未来の約束。 文章は失われてしまったけれど、ふたりの間で交わされたその約束が消えてしまったわけではない。 その約束を叶えるために、きっとこれは避けて通れない道なのだと、は理解した。 は老人を見てゆっくりと頷いた。そして彼の手を取り、自分がここに来たこと、ここで会った人のことは誰にも話さないと書いた。 「そのほうがいいじゃろ。お前さんにも、われわれにもな」 老人は笑みを浮かべながらそう言ったのだが、はとても寂しいものを感じ取った。イシュヴァールの民だけが、なぜこんな苦しい生活を強いられなければならないのか。 ロイはきっと彼らのことも考えて、軍人の必要のない世界を作ろうとしているのではないかとは思った。誰もが等しく幸せに生きることのできる世界。 それを素晴らしいと思いながらも、理想でしかないと諦めてしまう人が多いなかで、ロイがどれほどその目標のために尽力していることか。ロイと同じ戦いを自分ができるとは思えない。けれどはここで自分ができる限りのことをしようと決意した。 は老人の手を取ると、その意志をはっきりと告げる。 ここで、スカーの看病をさせてくださいと。 テントに戻ったは少年と一緒にスカーの手当を続けた。といっても、に医療の知識があるわけでもなく、片手も使えないので、満足な治療ができたとは言い難い。 少年に水をくんできてもらい、汚れている傷口を洗ったあと、薬を塗り、包帯を巻いた。 の傷の三日分として買った薬だったが、スカーの全身に使ったら薬は無くなってしまった。包帯もすべてなくなり、足りないくらいだった。 お金があれば、もっと薬を買ってくることもできるが、いまのではそれも叶わない。 全身に傷を負っているせいか、スカーは熱を出しているようだった。身体が熱く、額には汗をかいている。は持っていたハンカチで、その汗を拭った。 スカーはときおり、苦しそうに顔を歪めた。苦しそうに手を握りしめることもあった。 にできたのは、その握りしめられた拳にそっと手を重ねることくらいだったが、そうすると少しだけ彼の拳から力が抜け、呼吸が安定するようだった。 が買ってきた食料のなかからオレンジを一つだけ取ると、残りを少年に渡し、みんなで食べるようにと仕草で伝えた。ここの住人のすべての口に入るほどの量ではないのは解っていたが、そうせずにはいられなかった。 はオレンジの果汁を絞ると、少しだけスカーの唇に垂らす。意識はないようだったが、スカーの唇は動き、飲み込んでいった。それを確認して、はスカーの状態を見ながら、ゆっくりと与えた。 少しずつ呼吸が楽になってきているのを確認して、は少年が桶にくんできてくれていた水に、ハンカチを浸す。怪我をしている親指に力を入れないようにそれを絞るのは難しく、少しだけ包帯に血がにじんでしまった。 あまり上手に絞ることはできなかったが、その濡れたハンカチをスカーの額に置いた。 消えない傷のある額。こんな傷跡が残るほどの苦しい思いを、過去に彼は受けているのだ。そう思うと、は悲しくなった。彼が国家錬金術師への復讐を選ぶのは、仕方のないことなのかもしれない。 でも、それでも。 復讐の人生を選んだからこそ、彼はこうしていまも傷ついているのではないか。 スカーに復讐をやめてもらいたい。でもどうすればいいのか。 (ぼくにできることは、あるんだろうか……) いくら考えても、その答えは見つけられそうになかった。 そして――はその日、スカーの看病を続けながら、その横で一夜を明かしたのだった。 気がつくと、周囲はうっすらと明るくなってきていた。 知らないうちに、はスカーの横に寄り添うような形でウトウトと眠っていたらしい。 にしては珍しいことだった。知らない場所で、他人の横で眠ってしまうなどということは。それはスカーが身動きできないというせいではなく。 (彼は、悪い人には、見えない――) は身体を起こし、スカーの様子を確認する。呼吸は安定していて、眠っているようだった。 スカーの額に置いたままになっていたハンカチを換えようと、は手を伸ばす。そのときだった。 カッとスカーの目が開かれ、の腕はスカーの手によって掴まれていた。そしてスカーのもう片方の――入れ墨の施された右腕はに伸ばされ、その指先はののど元を掴んでいた。スカーがほんの少しその手に力を入れれば、の細い首は折れてしまうだろう。 「お前――名は?」 スカーはその赤い瞳をぎらつかせて、に尋ねる。 「ここはどこだ?」 続けてそう問われても、には答えることができない。震えるように左右に首を振ると、スカーはその怒りを顕わにした。 「ここはどこだと聞いているっ!」 スカーの手に力がこもり、ののどを圧迫する。 「……ッ」 苦しさに、の口があえぐ。だがそれでも言葉を発しないに苛立ち、スカーはさらにその指先に力を込めた。 「ウウッ――」 「助けてくれた人に、なにしてんの!」 そのとき、少年がテントに入ってきてそう叫んだことに、は気づけなかった。 「な、に…?」 「その人が、アンタに薬を塗って、一晩中看病してくれたんだよ。ま、見つけてきたのは俺とじっちゃんだけど」 少年の言葉を聞き、スカーはからゆっくりと手を引いた。苦しさから解放され、一気に入り込んできた空気に、は咳き込む。 「それに――ねえちゃんは喋れないんだよ。耳が聞こえないんだって」 その言葉に、スカーがを見る。は項垂れるように床に両手をつき、咳を繰り返していた。 「大丈夫か、ねえちゃん」 少年がそっとの肩を掴み、抱き起こす。もそれに気づき、呼吸を整え、少年に微笑んで見せた。 「よかった。ねえちゃんの取られた鞄、金は無理そうだけど、それ以外ならなんとかなりそうだってじっちゃんが」 少年からもたらされた朗報に、は嬉しさを隠さずに微笑んだ。ありがとうという気持ちを伝えたくて、少年をギュッと抱きしめる。 「よせよ、ねえちゃん、照れるって――って」 抱きしめられながら少年がそう言ったことは、には見えなかったのだが。少年が驚いた様子で、の身体を押し返す。 「も、もしかして、ねえちゃんじゃ、ない?」 は、彼の誤解を解くひまがなかったことを思いだした。頷くと、少年が明らかに戸惑った様子を見せた。だますつもりは無かったのだが、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、は目を伏せた。 「こいつは、耳が聞こえないのではなかったのか? なぜ会話できる?」 スカーがそう少年に尋ねたのは、からは見えなかった。 「え? ああ、唇の動きで解るんだって。あと、字を書くんだ。おれは、字が読めないから、ねえちゃん――じゃなかった、この人とは会話できないけど……」 「なにか聞きたいことがあるのか?」 「え、アンタ、字書けるの?」 「ああ」 目を伏せていたは、ふたりが会話していることに気づき、顔を上げる。すると少年がの手に触れ、ニカッと笑顔を見せて、こう言った。 「名前、教えてよ」 驚いたの前に、ぬっと差し出されたもの。それはスカーの手のひらだった。がスカーを見ると、彼は頷いた。その意味を察して、はスカーの手のひらに自分の名前を一文字ずつ綴っていく。 「、か?」 書き終わったあとスカーを見上げると、確認するようにそう言った。は頷く。 「っていうの? 教えてくれてありがと。じゃあこれからそう呼んでいいよね? おれ、朝メシ取ってくるよ、」 少年は嬉しそうに、テントから出て行った。彼に誤解させてしまったことを、は申し訳なく思う。わざと明るく振る舞ってくれたのではないかと心配になって、は彼が出て行った先をじっと見つめていた。 「気にするな」 肩に大きな手が置かれ、は振り返る。スカーもまた、少年が出て行った先を見つめていた。 「あいつは――、たぶんお前に、母親の影を重ねていたんだろう。それだけのことだ」 突然のスカーの言葉だったが、なぜかそれはすんなりの胸に入ってきた。少年はが女性だと思ったから助けてくれたわけではないだろう。困っている相手なら誰でも助けるのだ。だからこそ、こうしてスカーもここにいる。 少年はを無償で助けてくれた。申し訳ないと思う以上に、少年に対する感謝を示さなければ。 はそのことに気づかせてくれたスカーにお礼の意味を込めて頷いた。スカーはじっとを見つめると、どこか遠くを見るような目で呟いた。 「……、いい名だな」 そう言われて初めて、はスカーというのが、軍のつけた通称であることを思いだした。そっと彼の手を取り、は尋ねる。 『あたなの名前は?』 「おれに名前はない――捨てた」 なんでもないことのように言われた言葉だったが、その赤い瞳の奥が苦渋に満ちているのを感じ、は哀しくなった。 *あとがき* 続きが三年ぶり…!になってしまいましたが、自分の中で区切りをつけるために、書いてみました。あと一回続きます。 |