第五話  無力だからこそ立ち止まるのではなく




 ロイが目を覚ましたとき、窓からは柔らかい朝の光が射しこんでいた。
 起き上がって窓を開けてみると、長く降り続いていた雨はすっかり上がっていて、まだ濡れている街並みを伝う冷えて湿った風にその名残を残すのみだった。
 ロイはまだ荷解きもしていなかった鞄のなかから適当に私服を取り出すと手早く着替えた。最低限の生活必需品は用意されているはずだが、食べ物だけはなにもないのだから、買いに行かなくてはいけない。
 ロイはジャケットを羽織りながら部屋を出ると、隣の部屋の前で足を止める。静かに扉を開け室内を覗き込むと、ベッドのなかの淡い金髪に朝の光が反射して輝いていた。はまだぐっすりと眠っているらしい。目覚める気配はなさそうだから少しくらい買い物に出ても大丈夫だろう――そっと扉を閉めようとして、ロイは気づく。もしいまこの扉を開ける前にノックをしていたとしても、が気づくことはないのだと。やりきれない感情を胸に、それでもロイは静かに扉を閉めて、その部屋を後にした。
 はじめて来た場所でも、人間の生活がそう変わるわけではない。早朝から営業しているパン屋と、搾りたての牛乳を積んだ移動販売車は大通りに出るとすぐに見つけることができた。他にも、市場のほうまで足を伸ばせば野菜など手に入るだろうとは思ったのだが、がいつ目を覚ますか解らない状態で、あまり長く家を空けたくなかった。
(まだ好き嫌いもちゃんと聞いていないしな――)
 ロイの頭の中ではすでに“これから”のことがいくつも考えられていた。


 はゆっくりと目を開けた。とてもすっきりとした気分だった。これほどしっかりと眠れたのは久しぶりだ。おかげで目覚めたときから頭もはっきりしていて、見たことのない場所であるのに、ここはどこかと焦ることもなかった。
(ここは、昨日の夜連れてきてもらった、ロイ――さん、の家だ……)
 は右のわき腹の傷を気遣いながらゆっくりと身体を起した。引きつれるような痛みはあったが、動けないほどではなかった。
(この程度の傷で気を失ったから、ロイさんはぼくを心配してくれたのかな……?)
 が気を失ったのは、出血のせいもあっただろうが、少女が無事だと解ってほっとしたからだと思う。ここ数日、はあまり眠れていなかった。
 ひとりになってみて初めて、は知らない場所で眠るのが困難なことだと気づいた。先日泊まった宿で夜中にぼや騒ぎがあり、の耳が聞こえないことに気づいた従業員が、扉を叩くだけでなく、扉を蹴破って起してくれたのだが、そのときまでは気づかずに眠っていたのだ。幸い発見が早かったため客にも宿にも大した被害はなかったのだが、起してもらえなかったらと思うと、ぞっとした。臭いや温度でが気づけたときには、もう手遅れだろうから。
 その日から、あまりぐっすりと眠ってはいけないような気がして、は熟睡することができなくなってしまった。そのせいで体調も良くなかったのだと思う。
『おやすみ。いい夢を――』
 言葉とともに額にされたキスは、まだ両親が生きていたころの幸せな生活を思い出させた。そのおかげで、身体の疲れからではなく、心から安心して眠ることができたのではないかと思うのは、いい訳だろうか。
(ロイさんは男の人で……ぼくだって、そんなキスをされるほど子供ではないのに――)
 けれど不思議と厭な気はしなかった。少し恥ずかしくはあったけれど。
 は傷に障らないよう、ゆっくりと身体を動かしてベッドから降り、脇に置かれていたトランクを開けて着替えた。そのなかから小さなペンとメモ帳も取り出し、シャツのポケットに入れると、は静かに朝の光が満ちている部屋を出た。


 が階段を降りて居間の扉を開けると、ちょうど、パンの入った紙袋と牛乳の瓶を抱えたロイが帰宅したところだった。
「起きていたのか? 寝ていなくてはダメだろう――」
 ロイはの姿を見つけるなり抱えていたものをテーブルに置き、の傍らへ寄ると、その腕を取り支えながらソファへ誘導した。腰を下ろしてからは首を振り、ポケットからメモとペンを取り出して素早く記入する。
『大丈夫です。よく眠れたので気分もいいです』
「そうか――でも、無理はしないでくれよ」
 は微笑んで頷き、そのままふたりは朝食をとった。
 食べながら、ロイは考えていたその日の予定を話した。昼食時に一度戻ってくること、夕食は帰ってきてからどこかに食べに行こうということ。もし自分が来れない場合は、ハボックか自分の副官を行かせるということ。
 ときおり筆談を挟みながら、ロイとの会話は進んでいく。なにか足りないものはないか、食べ物の好き嫌いはないか、夕食はなにがいいか――――
 は、できれば髪を切りたいと控え目に書いた。
 ロイは、少し考えたあと笑って、それではわたしではなく副官を寄越したほうがいいな、と告げた。
 くれぐれも安静にしているようにと言い残して出勤したロイを見送ったあと、は、すっきりとした気分で天気もいいのにベッドの上にいるのはなんとなくつまらない気がして、家中の窓を開けて、風を通すことにした。流石に掃除ができるまでは身体も動かなかったし、昨日来たばかりという家に汚れたところは見受けられなかったからだ。
 傷が開かぬようゆっくりと移動しながら、家の中の窓をひとつひとつ開けていく。降り続いた雨があけたようやくの晴れ間の、太陽の光を含んでいるような風が頬に心地よかった。家中の窓を開け終わると、一階のソファに腰を下ろした。まだ生活感のない、ホテルのような家であるのに、なぜか落ち着くような気がして、は不思議でたまらなかった。
(セントラルへ、行きたくないわけじゃなくて……)
 は首から下げていた袋を取り出してギュッと握り締めた。
(これを届けるのが、本当に正しいことなのか、まだ解らないんだ……)
 解っているのは、そう急いでセントラルへ行っても変わらないということだけ。
(だからもう少しだけ、ここにいさせてもらおう――)
 ぼんやりとソファに座っていたはどれだけ時間が経ったのか解らなかった。
 玄関のベルにも気づけないは、人が動く空気を感じて顔を上げる。
「初めまして。わたしはリザ・ホークアイ。よろしくね」
 微笑みながら差し出された手を、も笑顔で握り返した。


 司令部に着いたロイは、昨日の事件の事後処理という名目で、リザにのことを頼んだ。
 ダメにしてしまった彼の服を買いなおすことも頼むと、サイズは?と聞き返される。ロイはの身長や肩幅を思い出しながら告げると、良くご存知ですこと、と冷ややかな視線を向けられた。
「男だぞ」
 口では勝てたことはない相手だが、いちおう、ロイは上官の威厳を持ってそう言ってみた。
「ええ、とても綺麗な青年でしたね」
「いつ見たんだ!」
「昨日現場で。一瞬ですが、それでも、中佐の興味を惹く華やかさがあると思いましたよ」
 意味ありげに向けられたリザの視線に、危うくまだなにもしていないと白状してしまうところだった。
 午後に戻ってきたリザから、髪は短く切って欲しいと言われて、わたしくらいに切りましたとの報告を受けた。綺麗だったのに勿体無い――とリザの前で言わないくらいの分別は、まだロイにもあった。
 赴任初日でもあったし、もちろん仕事は真面目にこなした。その裏に、早く家に帰りたいという思いがあったのは、自覚していたことだったけれど。
 治安がまだ悪いというイーストシティであったが、その日はロイの味方だったらしく、定時に帰ることができた。軍の送迎は断り、車を借りて自分で運転して帰ってきた。そのまま、を連れて食事に行くために。
 まだ一日しか経っていない“自分の家”の扉を開けて、ロイは中に入った。「ただいま」と小声で口にしたのは、が聞こえないと知っていたからこそだった。もう何年も――士官学校を卒業して以来だろう――口にしていなかったその言葉をいきなり言えるようになるには、自分にとっても気恥ずかしさが先に立つ難しい行為だった。
 当然「おかえり」の声はなく室内は静かだったから、は部屋にいるものだろうと、ロイは着替えるために二階へ向かおうとする。すると、微かな寝息をたてて、居間のソファでが眠っていた。
 肩まであった淡い金髪は、リザと同じように短く切りそろえられていた。もちろんリザのように女性でもおかしくない髪形ではあるのだが、ここまで短くしてしまえば、女性と見間違うこともないだろう。原因を作ったのは自分なのに、綺麗な髪が無くなってしまったのを惜しく思う。
 を起して食事に行くべきか――ロイが迷っていると、の手から本が落ちた。
 拾い上げてみて、ロイは、それがあのトランクを見せたときにいちばんに確認していたものだと気づく。日記だと思っていたから見るつもりはなかったのだが、拾い上げたときにその本に挟んであったらしい紙が落ち、それを拾い上げたとき――ロイの視線は変わった。
(これ、は――っ!)
 ロイは手にしていた本を最初から捲り始めた。
 ロイが目の色を変えた、その紙に書かれていたもの――それは間違いなく、ロイがもっとも見慣れているもの、けれど自分のとは違うもの。
 自分には発動させることのできない――錬成陣の構築式だった。