第六話  存在の確かさはその手で触れるから




(これ、は――っ!)
 ロイの目に入ってきたその文章は、日記ではなかった。
 手書きではあるが、そこに書かれていた文章は恋愛小説だった。けれど、ただの小説ではない。先に構築式を見ていなかったら気づけなかったかもしれないが、いまなら解る。
(これは――小説に見せかけた、研究書だ――!)
 これを書いたのがだという考えはすぐに打ち消された。ロイはもう何度もの書いた字を見ている。この本に書かれている筆跡は細く、少し神経質そうな印象を受ける――たぶん、女性のものだろう。
 研究書だとは解っても、暗号化されているものを拾い出してすぐに繋げることは流石にできず、なにについての研究なのかまでは解らなかったが――捲っていくうちに、もう一枚挟まれていた紙を見つけた。折りたたまれていたその紙を広げてみると、それはカルテのようだった。
 医学に関しては専門でやったことがないので詳しくはないが、国家錬金術師の試験を受ける前に、一通りの基礎は学んでいる。そのカルテに書かれている単語の意味をすべて理解することはできないが、なにについて書かれたものなのかくらいは解った。
の耳の状態について、詳しく調べてある――)
 そのカルテに記入されている文字は、研究書と同じもの。つまりそこから導き出される答えは、ただひとつだろう。
(これは、のために書かれたものだ。の耳を聞こえるようにするための構築式――生体、錬成か……)
 けれどいまだの耳は聞こえないままだ。この構築式を書いた人物は実行しなかったのだろうか。
(それとも……この構築式は不完全なのか?)
 拾い上げた紙に書かれた構築式をまじまじと見つめていたロイは、の身体が揺れたのに気づくのが遅れた。
 次の瞬間、ロイの手にあったはずの本と紙片は、半身を起していたにの手によって引き抜かれた。ロイがなにか言う隙もなく、は両方の腕で抱えるようにしっかりとその本を抱きしめ、俯いてしまう。
「……?」
 勝手に見てしまったことを謝りたかった。
 言いたくないのなら無理に聞くつもりはないと、言いたい。
 けれど――俯いて目を閉じているには、言葉では伝わらないのだ。
 ロイはの前に膝をつくと、その顔を覗き込みながら、その細い肩に手を伸ばした。
……?」
 聞こえないと解っていても、その名前を呼ばずにはいられなかった。そっと触れても、軽く叩いても、は顔を上げようとしない。
 ロイはなにもできない自分の右手を見ながら思う。この手から自分の気持ちが伝わらないというもどかしさを、あの構築式を書いた人物も感じたのだろうか……?
「――ならばわたしは誓おう」
 には聞こえないからこそ、ロイは口に出してそう言いながら、いまはまだ無力な右手での頬に触れた。親指でゆっくりと、ふたりを隔てているの耳をなぞる。
 それでも身体を強張らせたまま顔を上げようとしないの頬に、ロイは顔を寄せて口づけた。
 顔を近づけたままでの様子を伺っていると、その瞳がゆっくりと開き、何度もまばたきを繰り返した。その目線をロイへ向けるのを躊躇っている様子を見て取ると、ロイは楽しげにに触れていた右手をその小さな顎へと滑らせ、少しだけ上向かせた。
「ん? 眠り姫を起すのは、やはりくちびるへのキスでないとダメかな?」
 ロイの言葉に驚いてだろう――目を見開いてロイを見つめ返したに、ロイは素早く告げた。
「きみの大事なものを勝手に見てすまなかった。なにも聞く気はないよ。すぐに着替えてくるから、食事に行こう」
 一気にそう言って微笑みかけたロイを、はまだ大きな瞳で見つめ返しているだけだった。
「解ったかい? それともまだ目覚めてはいないのかな――」
 顎にかけた手をそのままに顔を近づけたロイに、は慌てて顎を引いて顔を背けると、ロイのほうを見ないままでコクコクと頷いた。その頬が微かに赤く染まっている。
「やりすぎた、かな」
 ロイは笑いながら立ち上がって、の緊張が解けるように、その肩を軽く叩いて部屋を出た。後ろ手に扉を閉めながら、さっきとは打って変わった真剣な表情でロイは呟いていた。
「わたしにできるだけのことをしよう――例えそれが、ただの自己満足だとしても」
 

 次の日、リザは珍しく真剣な顔で机に向かっている上司を邪魔しないよう執務室を出たのだが、書類が終わったであろう時間を見計らって再びその部屋を訪れたとき、積み上げられた書類の位置がまったく変わっていないことに気づいた。けれど相変わらず真面目な表情でロイはなにかを書き続けている。
「中佐――?」
 ホルスターに手をかけながら近づいていったリザが見たものは――錬成陣の構築式だった。
 ふうっとため息をつき、リザは手を戻した。
「なにをそんなに真剣になさっているのかと思ったら――研究ですか?」
 リザの声にも、ロイは反応しない。国家資格を取るほどの錬金術師の集中力を、リザは初めて間近で見た。静かに出て行こうとしたリザの背後で、紙をクシャリと握り締める音が聞こえる。リザが振り返ると、ロイが先ほどまで構築式を記入していたとおぼしき紙を丸めていた。
「ん――ああ、少尉」
 立ち止まって見つめていたリザに、ロイはそのとき初めて気づいたというように声をかけた。
「研究をされていたのですか?」
 リザの言葉に、ロイは手の中で丸められた紙を見つめる。
「ああ――これか。いや――やはりわたしには生体錬成は無理のようだ……」
 呟くような、覇気のない声音でロイはそう言うと、丸めた紙を机の横にあるゴミ箱へと投げた。その中へきれいに落ちていったものは、もうただのゴミでしかない。考え込むロイの横顔に、リザはなんの声もかけられなかった。
「すまんが、少尉。少々、個人的なことを頼みたいのだが――」
 どこか遠くを見つめていた目線を、リザへと戻しながらロイは言った。
「生体錬成に詳しい錬金術師を――国家資格はなくても、噂でも構わん――調べてくれないか?」
 その声に含まれている決意に気づけないリザではない。
「――優秀な錬金術師を見つけて軍にスカウトするということであれば、立派な軍務に値すると思われますが?」
 リザの回答にロイは満足気に微笑んで頷いた。
 それから三日の間は、何事もなく過ぎていった。少なくとも表面上は。
 ロイは真面目に書類に取り組んで、自分でを病院へ連れていく時間も作ったし、それと平行してリザが次々と調べてくる錬金術師の書類もチェックしていた。セントラルのヒューズから掛かってきた家族自慢の電話も我慢して聞いて、いくつか頼みごともした。
 はひとりで動き回れるくらいには回復していた。が以前喫茶店の厨房で働いていたことをロイに教え、くれぐれも無理をしないという約束で、食事や掃除などの家事を担当することになった。
 あの錬成陣についてはお互いになにも口にしなかった。が時折見せる警戒心がすっかりなくなることはなかったが、徐々に少なくなっていっているようだった。
 ロイはの作ってくれた朝食を食べ出勤し、帰宅しての作ってくれた夕食を食べた――いままでとまるで違う生活が、とても心地のよいものになっていった。
 その日の午後、ロイは執務室でリザから手渡された書類のなかから一枚を抜き出した。
「これは――なかなか見込みがありそうだ」
 すべてに目を通した書類を、リザにも見えるように机の上に広げてみせる。
「エルリック兄弟――住所はリゼンブールですね。田舎ですが、ここからなら日帰りでいけます」
「そうだな……では明日、この兄弟に会いにいってみるか」
 そこで待っているものを、ロイはまだ知らなかった。
 
 
 血なんて見慣れていた――――
 もっとたくさんの血を見てきた。この手で流させたこともあった。けれど、これは――――
「きみたちの家に行ったぞ――なんだあの有様は! なにを作ったっ!」
 ロイは激高して、うつろな目をした少年の胸倉を掴んでいた。『ごめんなさい。ごめんなさい』と少年の背後から告げられた淡々とした声に、ロイは自分が冷静さを失っていたことに気づかされた。
 人体錬成――錬金術師なら、誰でも一度は考えることだ。いまだ誰も成功させたことのない未知の領域――いや、神の領域――人間が踏み込んではいけない禁忌。
 幼いその無邪気さで禁忌を犯したことに怒りを覚えたわけでは――どうやらなかったようだ。その証拠に、冷静さを取り戻してからのロイは、予定通り少年を勧誘することもできたのだから。
 あの錬成陣の上に拡がる血溜まりを見てロイが我を忘れてしまったのは、一瞬にして襲ってきた焦りと不安――自分の進んでいる道の最後に、の血が拡がっているのではないかと。
(そんなことにはならない! わたしがさせない――!)
 用件を済ませると、ロイたちは足早にリゼンブールを後にした。イーストシティーの駅からはタクシーを使い、一刻も早くロイは家に帰りつくことだけを望んだ。すっかり陽も落ちて暗くなったなか、窓から明かりが漏れる自分の家にほっとしながら、ロイは駆け込むようにその扉を開けた。
「ただいま」
 聞こえないとは解っていても、言わずにはいられないのだ。けれど聞こえなくてもロイの姿を見つけて、がゆっくりとロイのほうへ近づいてくる。とても穏やかな微笑を浮かべながら。
「ただいま」
 の瞳に、ロイは言った。するとロイを見つめているのくちびるが震えるように動いた。なにかの言葉を発するために動いているはずのくちびるから声が漏れることはなく、は曖昧な笑顔を見せたあと俯いた。
 ロイはのもとへ歩みよると、その肩を軽く叩いて自分を見るように促す。顔を上げたに、ロイは再び「ただいま」と口にすると、両腕を伸ばしてを軽く抱きしめ、その背中をポンポンと叩いた。そして身体を離すと、再びの瞳に言う。
も『おかえり』をしてくれないか?」
 微笑んでいるロイの言葉の意味に気づいたは、すぐに笑顔を見せ、その細い腕をロイへと伸ばしてきた。ロイが少し屈むと、ロイの背中に回されたの手が、先ほどロイがしたのと同じようにポンポン叩く。
 ロイはの優しい掌を背中に感じながら、彼のためにできる限りのことをする――そう誓ったことを思い出していた。