第七話  甘く香るのは互いの心がすれ違う傷




「今日はリゼンブールまで行ってくる。泊りにはならない。用が済んだらすぐに帰って来るから、夕飯は頼むよ」
 その日の朝、玄関まで見送りにいったに、ロイはそう言った。がロイの家に来てちょうど一週間が経とうとしていた。
「土産は期待しないでおいてくれ、かなりの田舎だそうだから」
 笑いながら、ロイがの頭をポンポンッと軽く叩く。
 大事な本を読み返しながらうかうかと寝てしまったあの日――頬にキスをされて――以来、キスをされることはないが、こういった感じのスキンシップは確実に増えていた。耳の聞こえないのためにそうしてくれているのか、それとももとからロイがそういうことが好きな人間だったのかは、には解りかねる。
 けれどやはり、手馴れている気はする。小さな子供相手ならともかく、たった五歳しか離れていない男相手に、こういう触れ方が自然にできるというのは。
 それとも、ロイはのことをただ小さい子供のように見ているだけなのかもしれない――そう思うと、やはり羞恥から、の頬は少しだけ赤く染まった。
「じゃあ」
 軽く手を上げ、出て行くロイに「いってらっしゃい」と言いたいのだが、声は出ない。はただ頷いて、小さく手を振った。
 知り合ったばかりのその日に同居、しかも耳が聞こえないが相手であるというのに、ロイの態度はとても自然でに馴染んだ。ロイは他愛のないことでもよく話しかけてきたし、「はい」「いいえ」で答えられない質問のときの、紙に書く時間にも厭な顔を見せることはなかった。もちろんに話しかけるにはの視界にいなければならず、その点でかなりの気を遣っていたとは思うのだが、それが自然で、気を遣われているという気にさせられなかった。だからこそもいつのまにか常にロイを見ているようになっていた。一緒にいるときはもちろん、帰宅する時間になると何度も何度も扉を振り返るのはすでに癖になっていた。
 だからその晩も、夕食の支度を済ませたあとは、にとっては貴重な情報源となる新聞を手にし、もう朝から何度も目を通したそれを再び読み返したり、扉を見たりしていた。
 だからちょうど、タイミングよく、扉が開かれるのをは見ることができた。
 扉を開けたロイのくちびるが、ただいまと動いた。その瞳はを捉えていたわけではなかったのに。
 単なる習慣でそう言っただけなのかもしれないが、それでもロイがここを帰る場所だと思っているからそう口にしたのだという気がして、それがと関係あるわけでもないはずなのに、なぜだか嬉しくなってしまった。
 立ち上がって近づいていったに気づいたロイが、今度はを見ながら「ただいま」と微笑んだ。ロイがその表情を素早く変えたことで、は気づいた。入ってきたときのロイがひどく――疲れている、というか、なにか考え込んでいるような様子だったことに。
 なにかあったのかもしれない――けれどそれをロイに聞くことは身体的にも、立場的にもできそうもなかった。けれどせめて、自分の気持ちを伝えたく。
(お帰りなさい――)
 は思いを込めてくちびるを動かそうとしたけれど、うまく形を作れているかどうかも解らない状態にしかならなかった。誤魔化すように曖昧に微笑んで、やりきれない思いはを俯かせた。
 軽く肩を叩かれ顔を上げると、すぐ目の前にロイが立っていて、そのくちびるが『ただいま』と、もう一度動いた。頷こうとしたは、あっという間に伸ばされてきた両腕に抱きしめられていた。回された手に軽く、撫でるようにポンポンと背中を叩かれたと思うと、ロイの腕はすぐに離れた。一瞬のことに驚いて見上げたままでいたの瞳に、ロイが言った。
も『おかえり』をしてくれないか?」
 ロイの突然の抱擁の意味を、その言葉では理解した。が恐る恐る手を伸ばすと、ロイが屈んでくれる。
(お帰りなさい。無事でよかった――)
 その思いを込めて、はロイの軍服に包まれた背中を優しく叩いた。たったそれだけの行為が、の胸を幸福感で埋め尽くした。


 その次の日、ロイはイーストシティに来てから初めての休日となった。
 ロイは何度もに話しかけたことによって、もイーストシティには乗換えで立ち寄っただけで、詳しくはないのだと知っていた。だから朝食を食べ終わったあと、ロイはを誘った。
「買い物にいくついでに、街なかでも見てまわるか? もちろん、傷にさわりのない程度だが」
 断られるはずはないと思ってはいたが、が思いのほか嬉しそうな顔をしたので、ロイは少々申し訳ない気持ちになった。やはりこの家にひとりでいる時間は退屈なのだろう。
 そうと解っても、ロイには毎日を連れ出してやる時間はとれるはずもなく、だからこそこの日をできるだけ楽しませようと決めた。
 軍から借りている車で、市内を走る。なるべく車から降りなくてすむように、街全体を把握するようなドライブでの観光となった。途中、見つけたカフェでサンドイッチとコーヒーをテイクアウトし、公園のベンチで食べることにする。
 まるでデートみたいだと思いながら、こんなデートはしたことがないとも思う。
 女性を誘うときは、酒だの食事だの、観劇だの買物だのと、なにか予定があるのが普通で、こんなふうに目的もなくその場で決めて行動するなどということはしない。女性をエスコートするのは当然のことで、は違うのだから当たり前なのかもしれないが、それでもロイは、いまこうしている時間がいままででいちばんデートと呼ぶに相応しい時間のように思えた。なぜなら、相手を楽しませたいという気持ちがあるのはいつものことだが、それ以上に、自分が楽しんでいたからだ。
 は口が聞けなくても、その瞳で言葉を語る。耳が聞こえないことをハンデだと思っているようなところはまるでないし、思わせない。
 がいつも会話に使うために持ち歩いている小さなノートには、知らない人間と会話をするとき用にいくつかの文章が書き込まれたままになっている。それは『わたしは耳が聞こえません』で始まり、『くちびるが読めますのでゆっくり言っていただけますか』や『申し訳ありませんがここに書いてもらえませんか』、『変わりに電話を掛けていただけませんか』などで、組み合わせて使うのだそうだ。そしての瞳が楽しげに輝き、一枚のページを開く。
『いくらですか?』と書かれたページをロイに見せながら、はそのページの裏を見せた。そこに書かれていた文章は『もう少しまけていただけませんか』だった。これにはロイも笑い出してしまう。
 はとても純粋で愛嬌もあって――だからこそ幼く見えてしまうのかもしれないが――一緒にいるのがとても自然で心地良かった。最初は、が発することのできない言葉を読み取ろうと注意して視線を向けるようにしていたのだが、いまではを見つめることが、その一挙一動を見逃すまいと思ってしまうほど、楽しくて仕方がないのだ。
 そのあとは、商店街のほうへも行ってみた。他人にぶつからないようの肩を抱き寄せてゆっくりと歩きながら店先を眺める。が思わず目を留めた観葉植物を買ったり、ロイの物を見立てるという名目で洋品店に入り、その礼にとの服を買ったりもした。食料品も、保存食になりそうなものを中心に買い込む。気がつけばすっかり、陽も陰る時間になっていた。
 どこかで夕食を食べてから帰ろうとロイが言うと、は、先日ハボックに連れて行ってもらった店がいいと書いた。
 正直、もっといいレストランに連れて行くことを考えていたので、が遠慮しているのではないかと思ったのだが、喫茶店の厨房で働いていたというのは賃金のためだけだったわけではないらしい。あそこの味が気に入ったので、自分でも作ってみたいと書いてきた。
 店の夫婦はロイとのことを覚えていたらしい。笑顔で奥のテーブルに案内してくれる。オススメ料理をいくつか頼むと、そのうちのどれを食べてもは美味しそうな顔を見せたが、特に気になったひとつについて、紙に書いてなにやら質問していた。夫人はその行為に驚いていたが、ロイが彼は耳が聞こえないんですと説明すると、とても複雑そうな顔に変わった。けれど当のがそのことをまったく気にせず質問を繰り返すものだから、あっという間に打ち解けてしまう。帰り際には、夫人から紙に書いたレシピまで渡されていた。
 また来ることを約束して、店を出る。
「疲れたか?」
 ロイが問うと、は首を左右に振ったあと、口を動かそうとする。
「ありがとう――か?」
 ロイが言うと、は嬉しそうに頷いた。
「ああ、こちらこそ楽しかった。ありがとう、
 ロイの言葉で、薄闇のなかだから見えるはずはないのだが、の目元がうっすらと赤くなっているだろうと解る。
 ロイは手を伸ばしていた。短くなってしまったの髪に触れる。
 指から伝わってくる柔らかさは以前と同じだったが、すぐに零れてしまうのが残念すぎる。髪を抜けたロイの指先が、の耳を掠めた。少しだけくすぐったそうに、そして恥ずかしそうにが俯く。
 の耳は機能していない。けれどそれはまるで、世間の汚いもの、醜いものからを守っているように思えた。だからこそは、こんなにも純粋なのだ。
……」
 ロイは、両腕を伸ばしてを抱きしめていた。
 腕のなかにすっぽりと入ってしまう細い身体は、力を入れすぎたら壊れてしまいそうな気がした。いままでに出会った誰とも違う。
(このまま……いっそ、このまま――どこかに閉じ込めてしまいたい)
 自分の思考に、ロイははっと顔を上げた。
(――なにを考えているんだ!)
 ロイが手を離すと、不思議そうにロイを見つめるの姿が目に入る。
「帰ろうか」
 そう言ってを促し車に乗せ、自分の行動を誤魔化した。
 確かにのことは好ましく思うし、綺麗だとも思う。だけれど自分のなかにあんな凶暴な感情が眠っていたなんて、気づきもしなかった。
 帰宅して買ってきたものを片付けると、早々に部屋にこもり、ロイは考えた。そこには、が自分に向ける信頼しきった笑顔を、ほかの誰にも見せたくないと思っている自分がいた。
「重症だな……」
 頭を抱え、ロイは呟く。
「ここのところ忙しかったからかもしれん。気分転換が、必要だ」
 いくらなんでもそう簡単に理性がぶち切れることはないと思うのだが、を抱きしめたとき、彼の傷のことを忘れていたという事実がロイを焦らせた。
 次の日、には仕事で遅くなるから夕飯もいらないので先に寝ているようにと言って家を出た。定時で仕事を終えたあと、ロイはバーのカウンターでグラスを傾けながら、一夜の相手を探した。
 声をかけてきた何人かの女性を断り、自分から声をかけていたのは、金色の髪をした小柄な女性だった。その気のなさそうだった女性を念入りに口説き落とし、ホテルに連れ込んで首尾よく事を済ませた。上手くいかなかったわけではないし、彼女も満足して眠っている――身体は満たされたのに、心が満たされなかった。
 ベッドサイドにホテル代を多めに置いて、ロイは部屋をあとにした。
 気がつけばすでに日にちも変わっていた。人気のない深夜の道を、ロイは足早に家へ向かった。なにか後ろめたいモノに追い立てられているようだった。
 扉を開けて室内に入ろうとしたとき、真っ暗なはずの部屋に灯りがひとつ灯されていた。まさかと思ったロイの不安通り、寝間着姿のが近づいてくる。
 閉めたばかりの扉を背に、ロイは動くことができずにいた。
 ロイの前に立ったが、ロイに両手を伸ばしてきた。ロイは咄嗟に、の肩に手を突き、その身体を押し戻した。
「先に寝ているように言ったじゃないか」
 思わず口をついて出た言葉の不機嫌そうな声音に、言った自分のほうが驚く。には聞こえないのだとしても。
「いや……その、寝ないと、身体に障る……」
 慌てて言い換えたのだが、ロイの視界に入ったは、驚いたようにロイを見返していて――慌てて頭を下げたあと、パタパタとスリッパの音を立てて逃げるように去っていった。
「なにをやってるんだ、わたしは……」
 行き場のない思いに、ロイは右手を握り締めた。けれどその手を扉にぶつけるほどの気力すらなく、ロイはただ情けなく俯いただけだった。