第八話  羽ばたいた小鳥の行方を捜すことは




 ロイが夕食をいらないといったのは初めてだったけれど、軍人の――しかも中佐の地位にある人の――仕事が不規則で大変であろうことは解る。どんな仕事なのか聞かせてもらえるわけでもなく、また聞いてもわからないだろうけれど、危険な仕事でないことをは祈った。
 進まない夕食をひとりでとると、もうすることはなかった。は借りている部屋へ戻ると、早々に寝てしまうことにした。
 シャツを脱ごうとしたとき手を引っ掛けてしまい、首から提げていた小袋がスルリと落ちていく。切れてしまった紐を結び合わせていたのだが、それが解けてしまったらしい。
 は傷に障らないようゆっくりと屈んで、それを拾い上げた。袋の口から少しだけはみ出た金色の鎖に、は複雑そうに顔を歪ませた。
(早く――これをセントラルにいるはずのあの人へ届けなきゃ……)
 病院をあとにしようとしたを、看護婦が慌てて追いかけてきて手渡してくれたもの。
『ベッドの隙間に――押し込むようにして入っていたの。落ちたとは思えないから、きっと見られたくなくて隠したのだとは思ったのだけれど――ごめんなさい、なかを見てしまって……』
 震える手では上手く留め金を外すことができず、引き千切るように引っ張って壊れたのだろう。細い金色の鎖と留め金と小さな丸いロケット。
『でも見てしまったら――これはあなたに渡すべきだと思って』
 こんなものを持っていたことも知らなかった。見られたくなくて隠したのなら、は見てはいけないのかもしれないと思う。けれど、彼女の言葉の意味も知りたかった。
 ゆっくりとそのロケットを開いたは、そこに入っていた写真を見て、すべてが解った。ペンダントが隠された意味も、看護婦の彼女がに渡そうと走ってきた意味も。
 そしては決めた。このペンダントを、ここに写っているその人へと届けることを。
(でも本当に、それが正しいことなのか――)
 は袋の口を開き、静かにその中身を手のひらの上に零した。スルスルと、金色の鎖とロケットが落ちてくる。
(え……?)
 は自分の手のひらが受け止めたものを見て目を疑った。
(どうして――? 留め金が壊れていたはずなのに――)
 の手にあるのは、壊れた様子などまるでない、綺麗なペンダントだった。
(まさか違うもの――?)
 慌ててそのロケットを開けると、そのなかに納められていた写真は、初めて見たときとなんら変わっていなかった。
(どうして……? 無くさないようにこうやって袋に入れて、ずっと身につけていたはず――)
 は思い返して、気がついた。
『すまない、紐を切ってしまったんだ――』
 病院で気がついたとき、これはの傍になかった。そう言ってロイに渡された、その間だけだ――がこれを外していたのは。
(ロイさんなら……なにか知っているのかもしれない)
 寝間着に着替えてベッドに入ったものの、そう思ったら眠れなくなってしまった。電気を消して横になってはいたけれど、眠気は訪れてくれない。思考もぐるぐると回るだけで、なんの結論にもたどり着かなかった。それでもじっとベッドのなかに横たわっていたけれど、どうしても耐え切れなくなって時計を見ると、すでに日付が変わっていた。
(ロイさん……まだ帰ってないのかな?)
 は暗闇のなか、ゆっくりと身体を起した。
(水でも、飲もう――)
 階下へ降りていったは、小さな灯りをひとつだけ点け、コップに水を注いだ。その場で飲み干してしまえば済むことだったけれど、はグラスを手に、ソファへと腰掛けた。チラリと暗闇に視線を走らせるけれど、扉が開かれることはなく。少しずつグラスに口をつけて、これがなくなってしまったら戻ろうと思いながら、は何度も扉を振り返っていた。
 だから、扉が開かれるのを見つけたのは、偶然じゃない。
『おかえり』をしようと近づいていったとき、薄暗くてロイの顔がよく見えなかった。そっと両手を伸ばしたときロイの手が動き、肩を押されて押し戻される。そのとき、ふわりと甘い香りが漂った。
 女性の香水だと――その残り香だと――は気づいた。
 一度ロイの副官のリザには会っているが、彼女はこんなに移り香が残るような香水をつけたりはしていなかった。とて男として二十年間生きてきたのだ、それがなにを意味するのかくらい解ると思う。それにロイは、男のから見てもとても魅力的な男性だ。女性が放っておくはずがない。
 だからロイが女性と会っていただろうことは、なんらおかしいことでもないし、嫌悪感など抱くはずもなかった。が思ったことは、ただひとつ。
(ぼくがここにいるから――)
 がこの家にいるせいで、ロイは自由に女性と会うこともできないのだ。その考えはの胸を締め付けた。傷のことも忘れて、ロイの前から逃げ出した。
(ぼくがここにいることで、ロイさんに迷惑をかけてる……)
 その事実と、それにまったく気づけなかった自分の短慮さに、はひっそりと涙を零した。


 翌朝、はいつもどおり起床して、ロイのために朝食を用意した。ロイも、いつもどおりの時間に起きてきて、「おはよう」と言葉をかけた。けれど、ふたりの間に漂った空気は、いつもと違うぎこちなさが隠せないものだった。
……きょうは病院で消毒の日だよ。昼にわたしが迎えに来るから、支度しておいてくれ」
 は頷くとロイに近づき、首から提げていた小袋からペンダントを取り出してロイに見せた。壊れていたはずの留め金のところを指で示す。なにか知っていれば、返事がくるだろうと思いながら。
「ん? ああ――これか。わたしが直したんだ。錬金術師だからね」
 あっさりと出された答えに、はなぜか寂しいものを感じた。ロイが錬金術師だと知っていたら、昨晩あんなにも悩むこともなかっただろうに。
(そんなことも知らなかったんだな、ぼくは……)
 けれどこれでもし、あの人がこのペンダントをいらないと言っても、自分が身につけることができる。
 ありがとうの意味を込めて、は頭を下げた。これで――これでもう、満足だ。
 ロイを見送ったあと、決意が変わらないように、は駅へ行った。セントラル行き夕方4:00発の切符を購入する。昼に迎えに来たロイにこれを見せて話そうと、そう思っていたのに。
「よう、。中佐はちょっと仕事が忙しくてなぁ」
 傷はどうだ?と話しかけてくるハボックに、戸惑いながらも頷いて、病院へと連れて行ってもらった。
「経過は良好みたいだな。中佐に伝えとくよ。じゃあまたな、
 家に戻ってきたけれど、切符の時間では、ロイが帰ってくるのを待っていられない。ハボックに頼めば司令部に連れて行ってくれたかもしれなかったが――ここに迎えにくることもできないくらい忙しいロイの仕事を邪魔することなんてできるはずもない。これ以上迷惑になることはしたくなかった。
 はロイが帰ってきたら食べられるように夕食の支度をして、書置きを残す。ふと目に留まったのは電話機だった。近づいて受話器を取り上げる。どうしても電話を使わなければいけないときは、伝えたい内容を紙に書いて、通りがかった人にお願いして代わりに言ってもらった。けれどいまは――――
 自分が声を持たないことに、は初めて大粒の涙を零した。


 帰宅したロイは違和感を覚えた。そう、灯りが点いていない。この家に来た最初の日以来、ロイが帰宅したときは、部屋に灯りが点いていたはずなのだから。
! 部屋か?」
 つい呼びかけてみてしまってから、にはそれが聞こえないのだと思い返す。灯りを点け、制服を着替えるために部屋へ上がろうとテーブルを横切って――気づく。そこに残されていた一枚の紙片に。
 そこには、いままで世話になった礼と、傷の経過も良好なのでセントラルへ行くということと、汽車の発車時間があるので直接礼が言えないことに対する侘びが、の読みやすくきれいな文字で綴られていた。
「なんだと――!」
 いまから駅へ向かってもいるはずはなく――時間からいって、セントラルへ着いたころだろう。ロイは受話器を取り上げると、ヒューズの自宅のほうへ電話を掛けた。
『ごめんなさい、まだ帰っていなくて……』
 申し訳なさそうに答えたグレイシアに、では軍のほうに掛けるからとろくな挨拶もせずに切ってしまう。セントラルのヒューズの部署へと電話を掛けようとして――その手が止まる。
を、掴まえる気なのか、わたしは……)
 なにもは、ここから逃げ出したわけではない。もともとセントラルへ行く途中だったのを、傷の静養のためにここにいただけのことだ。傷が治ったら出ていく、そういう存在だったはずだ。ロイには、のセントラル行きを阻む資格も権限もない。
(だが…………)
 口論――ではないが、あんなことのあとで気まずいまま別れてしまったことが気にかかる。とにかくそれだけでも謝りたい。
 ロイは再びダイヤルを回し始めた。
「東方司令部のロイ・マスタング中佐だ。ヒューズ少佐を頼む。コードは――」
(違う、謝りたいんじゃない)
 ロイは気づいた。
(ただ、会いたいんだ――