|
第二話 シセン
「そうか、が帰ってきたか。約半年――やはりそれ以上は無理だったか……」
ハボックから取り上げた写真を再び眺めながら、ロイがそう呟いた。 聞こえてしまったハボックが顔を上げると、その視線に気づきロイはハボックを見返した。 「いや、こちらの話だ」 ロイは身を翻して机に回り込むと、もとの引き出しに写真をしまう。 「――の復帰はセントラルになるはずだから、しばらく会うこともないと思うが、また会っても粗相はするなよ。お前より上官だし、怖い保護者もいるからな」 念を押されなくても、軍人――しかも上官と知った時点で、ハボックはあのときの自分の会話を反芻していた。幸いにも本人に邪魔をされたおかげで『お嬢さん』と口にすることはなかったのだから、女性と間違えていたことは本人にはバレていないだろう。 「あ――はい、気をつけますよ」 じゃあ、とハボックが退室しようとしたときだった。 「失礼します。大佐」 ノックの後に開かれた扉から、リザが姿を現した。 「なんだね、中尉? きょうの仕事はこれでもう終わったはずだが」 「ええ、仕事ではありません、大佐。少佐がご挨拶にとお見えになりました」 言うなりリザは脇へ身を寄せる。リザに続いて室内に入ってきた人影は、スッと右手を掲げて敬礼した。 「ご無沙汰しました、マスタング大佐」 「! セントラルへ戻ったんじゃなかったのか?」 ロイの驚いた声に、入ってきたのは先ほどハボックが見た女性――いや青年で。彼はロイの声に逆に驚かされたように立ち止まった。 「え――」 見開かれたその視界が、同じ室内にいたハボックの上で止まり、蒼い瞳は納得したような微笑を浮かべた。 「あなたは――」 掲げていた右手を下ろしながら、彼はハボックのもとへと近づいてきた。 「先ほどはお邪魔してすみませんでした」 ハボックの前まで来ると彼は敬礼ではなく、軽く頭を下げた。ベージュのロングコートは脱いでいて、その左手に抱えられている。コートのなか着ていたのは黒いスーツに白いシャツ、サラサラと揺れていた髪はいまは後ろでひとつにまとめられていて、全体的にシャープな印象へ変わっている。当然だが胸や尻が出ているわけではなく、ちゃんとスレンダーな男性に見えた。 「い…いえ、俺のほうこそ――。俺、あ、いや――自分は、ジャン・ハボック少尉であります」 粗相をするなよ――というロイの言葉を思い出し、ハボックは慌てて敬礼すると名乗った。 「・、地位は少佐です。こちらこそ名乗りもせずに失礼しました」 スッと指先を伸ばして、が返礼する。その指の先まで綺麗だとハボックは思った。 (男……なのは解ったが、やっぱ綺麗なのには変わりないよな。なんでこんな綺麗な男がいるかね) つい見とれてしまっていたハボックの横で、コホンとワザとらしい咳が聞こえる。 「あ――少佐、きみはわたしに挨拶しに来たのではなかったかね?」 「――失礼しました、マスタング大佐」 は机越しのロイに向き直ったが、もう一度敬礼することはなく目礼ですませていた。 「お久しぶりです。今日中にセントラルへ戻る予定だったのですが、あいにく列車が満席で。軍の宿泊施設で一泊させていただこうと思ってこちらに来たんですが、大佐がまだいらっしゃると伺ったのでご挨拶をと思いまして」 「そうか――」 ロイは座ろうといったん椅子の背に手をかけたが、椅子を引くことなくその手を離した。横長の机を回り込むとの隣に立つ。 「すこし痩せたようだな」 「……そうですか?」 もロイの正面に向き直ったので、ハボックからはその後姿しか見えなくなった。ハボックから見ればロイの身長もそう高いほうではないが、はロイよりもすこし低いくらいだった。 「髪も伸びた」 ロイの言葉に、確認するかのようにが頭を揺らした。 「ええ……切る暇がなかったので、見苦しくないようにまとめてきたんですが――すみません」 「いや――それで、母上は?」 「はい、一週間ほど前に……」 「そうか――辛かったな」 「ええ……でも最後まで傍にいられましたから、すこしは――」 その会話は世間話の続きのようにハボックの目の前で行われていたから、一瞬ハボックはなにを話しているのか解らなかった。 「葬儀のあと、家や土地の処分をすませるのにすこし時間がかかってしまいました。けれど半年ぶりに軍に復帰させていただきます。個人的な理由でこんなに長い休暇をいただいてしまって、大総統には感謝しています」 けれど流石に“葬儀”という単語を聞いてしまっては、その会話の流れを思い出して、大体の事情が把握できた。 (母親が亡くなったのか……) 病気なのか怪我なのかまでは解らないが、母親の死期を覚って休暇を取っていたらしい。半年――もしくはそれ以上になるかもしれない休暇を取ることは、実際問題としてできることではないはずだが、そこはそれ、軍に在籍している国家錬金術師である以上、その存在は簡単に手放されるはずはなく、大総統から特別の許可でも下りていたのだろう。 「まぁその分これから働いて返すことだな」 「はい」 ロイがの肩を励ますように叩くと、頷きながらは答えて、纏められた髪の先が揺れた。 「ところで、きょうの宿はもう決まったのか?」 「ええ、先ほど受付で予約を入れていただきました」 「そうか、では久しぶりだしな、食事にでも行こうか。中尉、きょうはもう帰っても大丈夫だったな」 ロイは扉の前に立っていたリザを見ると、嬉しそうに尋ねた。ハボックの報告を聞くのが最後の仕事だったとは珍しい。本当にそうなのかと、ついハボックもリザのほうを見つめた。 室内にいた全員の視線を集めるなか、リザはいつものように淡々と表情には出さずに言い放った。 「ええ、大佐。きょうの仕事は早々に片付けられていらっしゃいましたから――デートのご予定がおありだとかで」 「あ――」 ロイが口を開けたまま固まる。 「では、わたしはまだ仕事がありますので、失礼します」 リザは一礼すると平然と室内を出ていった。残されたのは、細い肩と髪を揺らしてクスクスと笑うと、憮然としているロイ――そして、そのふたりを遠巻きに眺めているハボックだった。 「まぁ、いい。ジョセフィーヌとの約束は七時だ――あと一時間ある。慌しいが食事くらいはできるだろう」 ロイは掛けてあった黒いコートに手を伸ばす。 「いいですよ、そんなご無理なさらなくて。お約束を優先してください」 「だがな、きみに会うのも久しぶりなんだし――」 「ロイさん」 それまで階級で呼んでいたが突然名前を口にしたので、ハボックは吸い寄せられるようにその横顔を見つめる。蒼い瞳を悪戯っぽく輝かせて、は微笑んでいた。 「ご心配なさらなくても、マースに報告なんてしませんよ」 その言葉にロイはますます苦虫を噛み潰した表情になる。 マース――聞き覚えのある名前に、ハボックは最近の記憶を探った。思い浮かんだのは眼鏡とヒゲの飄々とした人物だ。 (そうか、ヒューズ中佐のファーストネームが確かマースだったな……) だがそう珍しくもない名前だ。同一人物のことを話しているのだとは断言できなかった。 「まったく……そんなことは心配してない。わたしだってたまにはきみと話しくらいしたいんだ」 「ええ、じゃあお約束の時間までで構いませんので」 ロイがなにを言っても、のほうに分があるのは変わらないようだった。クスクスと笑い声こそたててはいなかったものの、の瞳には楽しげな色がありありと浮かんでいる。 不機嫌な顔でロイはコートに袖を通す。振り返ってを見つめたその眉間には皺が寄っていて―――― 「そういえばきみは――わたしのことが心配で無事を確かめに来たそうじゃないか。きみに心配されるほど弱くはないつもりだがね」 ロイの言葉に、が振り返ってハボックを見つめた。 ハボックもそのを見つめ返す。 『言ったんですか――?』 『言ってないっスよ――』 視線だけで、ふたりの間にそんな会話が交わされた。 「なんだ、どうかしたのか?」 ロイの問いかけに、慌ててふたりで首を振る。 「い、いえなんでも――」 「なんでもないっス――」 重なった声に、再びお互いを見つめあい、とハボックはとうとう笑い出してしまった。 「なんなんだ、きみたちは――」 面白くないのはロイである。ふたりを交互に睨みつけた後、思い出したように口を開いた。 「ああ……そうだ、ハボック。お前も一緒に行くか? ずいぶんとのことが気に入ってたみたいだったな」 思わせぶりに笑うロイの頭上には『バラしてやる』という文字が見えるような気がした。 「いや、俺は――」 「そうですね、少尉。この後のご予定がないのでしたら、ぜひ」 断るつもりだった。 普通に考えても、上司+上官の男三人で勤務時間外にメシを食うなど、歓迎しかねる事態だ。 が確かに男にしては綺麗という部類なのは認める。けれど男だとわかってしまえばもう下心など湧き上がってくるはずもなく。行けばロイのからかいのネタにされる危険性もある。だが―――― 「えっと……邪魔じゃないんなら」 ハボックはそう答えていた。 男――だからかもしれない。だからこそ、逆になんの下心もなく、この人と話をしてみたいと思う。その喋り方も、身に纏う雰囲気も――ハボックの周囲ではお目にかかったことすらない相手だ。 「じゃあ行きましょう。ロイさんの奢りですよ、きっと」 「だれが――」 「早く行きましょう、ロイさん。時間、なくなってしまいますよ」 青筋を立てたロイを、あざやかに制す――けれどそこに嫌味を感じさせるものはなにひとつなかった。ロイも降参とでもいったふうに、軽く息を漏らすと「そうだな」と笑う。 「では行くぞ」 ロイが促すようにの肩を軽く叩いて歩き出す。 「行きましょう、少尉」 「ええ」 頷いて、ハボックともロイの後に続いて歩き出す。 (久しぶりに、楽しい夜になりそうだな) 女性といるのとは違う高揚をそのときハボックは感じていた。 |