第三話 サソイ




 軍服から着替えたロイとハボック、そしてそれを待っていたの三人が向かったのは、司令部からほど遠くない繁華街にある、ビアホールのような広い大衆食堂だった。
 つまみにもなるような軽い食事と、ビールを三人分頼む。すぐに運ばれてきたジョッキを軽く合わせて乾杯すると、ハボックは肉体労働で乾いた喉を潤した。
「ぷは――ッ! うまい!」
 一気に半分以上飲み干して、テーブルにジョッキを戻す。
「少尉はきょう一日ずっと現場だったんですか? 大変でしたよね、お疲れさまです」
 微笑むに優しくそう言われて、ハボックの顔は自然と緩んだ。こんな上司だったら、いくらでも残業を引き受けてしまいそうだ。
、わたしだって好きで書類と格闘していたわけではないんだがね」
「ロイさんも、お疲れさまです。でも、面倒なことはすぐに後回しになさろうとするから、そうなってしまうのではないですか? ホークアイ中尉にご迷惑をおかけしてばかりではいけませんよ」
 諭すようにに言われたロイが、憮然としてジョッキを傾ける。
「でも――無茶もいけませんよ。わたしも復帰しますし、お役に立てることがあれば、いつでも仰ってくださいね」
 言われたわけではないハボックですら、その横顔に見惚れてしまったくらいだ――当のロイは、の言葉にすっかり気をよくして、笑みを浮かべている。
「きみが東方に赴任してきてくれれば、わたしの仕事もだいぶ楽になるんだがな」
「配置に関しては、大総統のお決めになることですからね」
 微笑んでジョッキに口をつけるその仕草も、言葉も声音もその笑顔も――会ったばかりだというのに、の傍にいるだけでひどく穏やかな気分になれることに、ハボックは気づかされる。デートの前、たった一時間しかないというのに、無理矢理にでもと話そうとしたロイの気持ちも解るというものだ。
「さすがに国家資格を持つきみをわたしの部下にと頼むことはできないからな」
 ロイの言葉に、ハボックはが国家錬金術師であることを思い出す。いや、忘れていたわけではないのだが。
「あの……聞いてもいいっすか? 少佐の二つ名って、何なんです?」
「え? あ、あの……」
 ハボックの質問を聞いたは、戸惑うように頬を染めて俯いてしまった。
 聞いてはいけないことだったのかと慌てたハボックと俯くを見て、ロイが笑い出す。
「まだ恥ずかしがってるのか、。よくぞきみに相応しい名を与えたと、大総統に感心したものだがな」
「わたしには過ぎた銘です。そう思っていただけるのは、光栄ですが……」
 話の見えないハボックには、とロイを交互に見ることしかできない。その視線に気づき、は戸惑いの残る瞳で、ハボックへと向き直った。
「あの……わたしの錬金術は、空気中の窒素を結合させ液体化させることで冷気を生みだし、相手を凍結させるようなものなので、氷を使うのですが……その、二つ名を……氷解、と言います」
「……ひょう、かい?」
「は、はい――」
 聞きなれない響きにハボックが聞き返すと、は再び恥ずかしそうに目を伏せた。
「氷をほどくと書いて氷解だ、少尉。文字通り氷を自在に操る意味を含んでのことだろうが、一般的には疑問やわだかまりがきれいになくなることを指す――分かりやすく一語で言えば“クリアー”だな」
 その言葉の持つイメージは、確かにに相応しいとハボックも思った。自身にもそうだし、と一緒に過ごす自分たちの気持ちの面でも。
「へぇ……そりゃ確かに少佐にぴったりっすね」
 改めてを見つめながら、ハボックも感心してそう言った。
 そんなハボックと一瞬だけ目を合わせたは、さらにその頬を紅く染めた。
「あ、ありがとうございます…」
(か、可愛い――ッ!)
 伏せられた睫毛、はにかむように微笑んでいる口元。つい手を伸ばして抱きしめてしまいたくなるほどだ。
(いッ、いや――この人は男! 上官!)
 ふらつく自分に言い聞かせて、ハボックは残りのビールを一気に飲み干した。
「そんなに喉が渇いていたんですか? でも、無茶な飲み方はダメですよ」
 そう言いながらもは店員を呼び止めてくれ、ハボックはもう一杯ビールを頼む。ニヤニヤと嫌味なほどの笑顔を向けてくるロイの視線から逃げるためには、ジョッキを傾けるしかなかったからだ。
「それにしても――列車の切符なら佐官クラスの優先枠があっただろう?」
 この後に控えているデートのために抑えているのか、に向かってそう言ったロイのジョッキは、まだ半分ほど残っていた。
「あ――発車直前でも満席でも、タダで乗れるってヤツっすよね」
 ハボックも聞いたことがあったので口を挟む。
 軍が大きな力を持つこの国では、軍人にはいろいろな特権があるのだ。もちろん階級に応じてのことで、ハボックのような少尉クラスでは、まだまだ特権といえるようなものはないのだけれど。
「それは緊急の軍務用ではないですか。それに満席なら他の方が降ろされてしまうんですよ。空いているときならともかく、個人的な理由で使うなんて、とんでもないです」
 真面目に答えるに、せっかくの特権なんだし、使えばよかったじゃないすかと言わなくてよかったとハボックは胸を撫で下ろす。
「そうか? ハクロ将軍など家族旅行にまで利用しているぞ」
 数週間前の列車のっとり事件でマヌケにも人質になってくれた一件はハボックの記憶にも新しい。先日もニューオプティン支部からわざわざグチを言いに来ていたっけ。あの嫌味なおっさんなら、平気でその特権を使うだろう――そうハボックが思ったときだった。
「――将軍は、家族思いですから」
 の言葉に、ハボックの思考が止まる。なんというか、その――そんな考え方がこの世に存在するのかくらいの、衝撃だった。
「まったく――きみには敵がいないはずだな」
 ロイが小さくそう呟いて、ジョッキを傾けたのだが、確かにハボックも同感だった。
 初めてを見たとき、その整った顔立ちから冷たそうな印象を受けたのだけれど、すぐにそれは柔らかい笑顔に払拭された。けれどそのころから一貫して抱いているのは、この人が軍人だと――戦うことを職業にしているというのが信じられないという思いだ。知れば知るほど――軍なんかに所属していていいのかと思ってしまう。
 国家錬金術師の資格を有しているということは確かに軍属にはなるけれど、エドワードのように、召還されるまではその莫大といわれる研究費を使って自由に過ごすことも可能なはずだ。なのに軍人として働いているということは、本人が望んでそうしているということに他ならない。
(なんか事情でもあんのかな……?)
 目の前にいるロイのように、軍の全権を握るなんてことも、が考えているとは到底思えないのだし。
 疑問は増すばかりだったが、さすがにそんな込み入ったことを聞くわけにもいかず、ハボックは大人しくビールとつまみを口にしていた。
「しかし、帰れなくて残念だったな。きょうは確か、ヤツの娘の誕生日だったろう?」
「…え? ええ、エリシアちゃん――きょうで3歳ですね。ロイさん、よく覚えてましたね」
「勤務中にわざわざ軍の回線を使って電話してきやがったからな、アイツは……まったく」
「祝い事はみんなで分け合ったほうが楽しいというのは、マースの持論ですから」
 ハボックの前で続けられていたふたりの会話に、再び出てきたマースという名前。その前に出てきたエリシアという名前にも、そういえば聞き覚えがある。さらにそんなことを軍の回線を使ってロイのところまで電話してくる“マース”ときたら、これはもうヒューズ中佐以外にはいないだろうと、ハボックは結論づけた。
さんは、中佐と知り合いなんだな……)
 しかも名前の呼び方からして、かなり親しそうだ。
「ヤツの娘がひとつ歳をとったくらいで、なぜわたしが喜ばねばならんのだ」
「そんなこと言わないで下さい。エリシアちゃん、可愛いですよ。きっとグレイシアさんそっくりの美人になるでしょうね」
「いくら美人でも子どもには興味ないな」
 ロイの言葉に、がロイを軽く睨みつける。
「あったら犯罪者ですよ」
 咎めるような口調だったけれど、本気で怒っているのではなく、はロイの冗談を楽しんでいるように見えた。けれど、次の瞬間――――
「頭のなかで考えるだけでも?」
 ロイの言葉に、は手にしていたジョッキをテーブルに戻した。
「――え?」
「考えるだけで、行動に移さなければ犯罪にはならないだろう?」
 そう言って笑ったあと、ロイはビールを口にしたから、そのとき一瞬が見せた表情に気づいたのは、ハボックだけのはずだ。
「それは、そうですけど……」
 そう呟いたの瞳は、なにも映していないかのように虚ろだった。整った顔立ちだけに、その表情はまるで人形のようだった。
「そりゃ詭弁でしょ、大佐。大佐は考えたらすぐ行動に移すじゃないですか。俺の彼女とったのはどこのどなたでしたっけ?」
 空気を変えたほうがいいと直感して、ハボックは明るい声を出してロイに告げた。
「なんだまだ根に持ってるのか、ハボック。あれは向こうから声をかけてきたんだぞ。断るのは失礼というものじゃないか」
 ニヤニヤと返してきたロイを見ながら、ハボックが確認していたのは視界の端にいるの姿だ。ハボックとロイとの間で交わされている会話に、は目線を動かしているようだった。
「だからって人の彼女にまで手出すのは、反則でしょう? そう思いませんか、少佐?」
 わざと名前を呼んでを見ると――戸惑ってはいるようだったけれど、先ほどの生気の失われた顔は消え、ちゃんとハボックを見返していた。
「おいおいハボック、彼女はお前が狙ってたってだけで、お前の彼女だったわけじゃないだろう? 第一わたしはそんなこと知らなかったのだし」
 が答える前に、ロイが抗議してくる。
「そりゃそうですけど、でも知った時点で、こうちょっと……配慮ってものがですねぇ――」
「彼女にとってお前よりわたしのほうが魅力的に映っているのを、どう配慮しろと?」
「ク――ッ!」
 わざと盛大に顔をゆがめて見せたのだが、が微笑みを取り戻しているのを、ハボックはちゃんと見て取った。
「ロイさん、いっそ私生活もホークアイ中尉に管理していただいたらどうですか?」
 今度はロイが顔を顰める番だった。
「まったく――きみはサラリと恐ろしいことを言うな。おっと、そろそろ時間だ。女性を待たせるわけにはいかない。、短い時間だったが、楽しかったよ。そのうちセントラルへ行く機会もあるだろう、次はヤツと三人でゆっくり飲もう」
 形勢が悪いと判断した――わけでもないだろうが、ロイが空になったグラスを置いて立ち上がる。
「ええ、楽しみにしてます。お気をつけて」
 立ち上がったロイを見上げて微笑んでいるには、先ほどの表情を感じさせるものはない。
 ハボックも、他の上官にしたら間違いなく減俸ものだろうが、ヒラヒラと手を振ってロイを見送った。人込みに消えていくロイの背を見送りながら、ハボックは残っていたジョッキに手を掛けていた。
 の一瞬の表情に捉われている――それがなにを意味するのか自分でも分からなかった。けれど、ひどく気にかかる。それは焦りにも似て。
 そんな不確かな感情も消してしまいたくて、ハボックは残っていたビールを飲み干した。
「そんな飲み方をして大丈夫ですか、少尉?」
「あー…全然平気っすよ。もっと飲みたいくらいです」
 覗き込むように尋ねてきたに、平静を装ってハボックは答えた。
「でしたら――その……」
 は言いかけて言葉を切った。言いにくそうに少し俯いたけれど、再び顔を上げて続きを口にした。
「少尉――よろしかったら、場所を変えて飲みませんか? わたしももう少し飲みたい気分なんです。その――少しだけでもいいんです、お付き合いいただけませんか…?」