第四話 コウサ




 ハボックがを案内したのは、ハボックの住んでいるアパートの近くの、カウンターしかない小さなバーだった。いつも仕事で疲れたとき、ひとりでふらっと来る店で、程よく暗く静かな店内が心地いい場所だった。
 他人を連れてきたのはが初めてだ。
 ほかにも、食事が美味しくカクテルの種類が多い、デートに誘うとき用の店も二軒ほど知ってはいたのだが、なんとなく――いまのに相応しいのは、静かな場所だと思った。
「どうぞ」
 扉を押し開け、を先に通そうと身体を引いた。ハボックを見上げたの瞳が、なにか言いたげに瞬いたが、すぐに目を伏せるように軽く会釈して店内へ入って行った。
(なんだ? やっぱこんな暗い店は気に入らなかったか……?)
 続いて店内へ入ったハボックは、カウンターに腰掛けたの横へと座る。まだ飲むには少し早い時間だったこともあって、他に客は一人しかいなかった。
 やはりのような人をこんな安いバーに案内するのは失礼だったのかもしれない。軽く一杯飲んで、早々に場所を変えたほうがいいかと、ハボックはに「なに飲みますか?」と尋ねた。
「あの……」
 言葉が続かず、は目を伏せる。けれどすぐに顔を上げると、真っ直ぐにハボックを見た。
「わたしが上官であることは、忘れていただけませんか……?」
 の意外な申し出に、ハボックは目を見開く。
「あ、あの――それって……」
「すみません、無茶を言っているのは解っています。でも、その……ここに連れてきてくださったのは、上官に誘われて逆らえなかった――というわけではない、ですよね? もしそうなら、無理はなさらずにお帰りいただいて――」
「んなわけないですよッ! どうしてそうなるんスか!」
 あまりのことに驚いて、ハボックはの言葉を遮って叫んでいた。
「あ、あの……扉を開けていただいたり、注文を聞いてくださったり、わたしが上官であることで、あなたになにかと気を遣わせてしまっているのではないかと――」
 今度はのほうがハボックの剣幕に驚いていたようだったが、たどたどしくもそう答えてきた。
 それを聞いて、ハボックは扉を開けたときのの視線に合点がいった。けれど――それは大きな間違いといえよう。ハボックは、が上官だからという理由でそうしていたわけではなかったのだから。
「違いますよ! そんなこと、全然――って、あー……ちょっとは気にしないとマズイのか」
 逆に焦りだしたハボックを見て、は安心したように微笑んだ。
「いえ、違うのならいいんです。わたしが気にしすぎでしたね、すみません」
 その笑顔に、ハボックの良心がチクリと痛む。に言ったことは嘘ではなく、上官だからと気を遣っていたわけではなかった。気を遣っていた自覚などまるでなかった。けれど扉を開けて先に通すというのは、確かに普通の――例えば同僚などとの間柄でする行為ではない。
(無意識のうちに“女性”扱いしてたなんて――)
 最初こそ女性だと間違えたが、男性だとちゃんと聞いて、それを忘れていたわけではなかったのに。
「っと――じゃ、今日は無礼講ってことにしますか」
 誤魔化すように、ハボックはそう提案する。
「そうしましょう。わたしのことは、と呼んでください」
「じゃあ俺のことはジャンで」
 ハボックのことを疑いもしないに対して罪悪感を抱かないわけではなかったが、わざわざ正直に話して気を悪くさせるよりはマシだろう。これから、そうこのあとの時間で、気をつければいいだけの話だ。
「……お前さんはいつものだろう?」
 カウンターの向こうから低い声がして、ハボックの前に琥珀色の液体が入ったグラスが置かれる。薄くなった髪の毛と、口ひげが印象的なこの店の店主だ。退役軍人だという噂を聞いたことがあるが、本当のところはハボックも知らないし、興味もない。ここは自分が静かに飲むための場所だから。
「お連れさんは、なんにする?」
「彼のはなんですか?」
「バーボン。ロックだ」
「では、わたしも同じものを」
 ハボックの目の前でそんなやりとりが交わされ、やがれの前にも同じグラスが置かれた。
 細く綺麗な指が、そのグラスに触れ、軽く掲げる。ハボックも自分のグラスを取ると、のグラスに軽く縁を合わせた。
 キィンと硬質な音が静かな店内に響く。
 それは、ふたりの間の空気を柔らかいものにした。


「美味しい……」
 の白い指がゆっくりとグラスを傾けるのを、ハボックは静かに見ていた。ひとくち含んで、思わずといった風に呟いたに、ハボックは自然と笑みを浮かべる。
 暗くて小さくて、ろくなつまみもない店だが、酒だけはいい物を揃えているのだ。しかも値段もそこそこ安い。気に入ってるからこそ他人に知られたくないハボックの隠れ家だった。
「ありがとうございます。いい店につれてきてくださって」
 嬉し気に微笑むの、伏せた長い睫に見惚れる。店内は薄暗いが、狭いゆえに肩が触れ合うほど近くに座ることになり、の顔もいままでになくハボックから近い。
「いや、その……気に入ってもらえて、良かった」
 ハボックは慌てて視線を自分のグラスへ戻して、口をつけた。
(今晩の酒は一段と美味い気がするな……)
 が女性でないことは承知しているが、綺麗なことには変わりない。美しい景色を見て心が和むのと同じように、美人がすぐ隣にいて、しかも自分に微笑みかけてくれるのだから、気分が悪いはずはないのだ。
 しかも女性を相手にしているのと違うのは、相手を楽しませようとか笑わせようとか、そういう気を回さなくていいということだ。もちろん楽しませようと思ってやったことで喜んでもらえるのは、それはそれで嬉しい。けれどこんなふうに、なにもしなくても――会話をするわけでもなく、ただ普段どおり飲んでいるだけなのに――自然と楽しめるというのは初めてかもしれない。沈黙が心地良いと感じるなんて。
 しばらく静かな時間が続いて、空になったふたりのグラスには、同じものが注がれた。
「……ジャン、あなたは不思議な人ですね」
 呟かれたの意外な言葉に、ハボックは笑う。
「そんなこと言われたの、初めてですよ」
 不思議だというのなら、のほうがよっぽど不思議だ。綺麗で優しくて可愛らしくて――外見だけでなく、中身までそうである人を、ハボックはほかに知らない。
「あなたとは今日、ついさっきお会いしたばかりなのに……変な表現かもしれませんが、とても安心できるんです。居心地がいいと言ったらいいのでしょうか」
 言葉を綴るその声も優しく嘘がなく、本心からそう思ってくれているのが伝わってくる。
「光栄です」
 端的に答えて、ハボックはグラスを傾ける。嬉しさに上気した頬は、この薄暗い照明で隠せるだろうが、自然とにやけてしまうのくらいは隠したい。
「今日は本当に、ありがとうございます。一人でいると、いろいろと――余計なことを考えてしまうときがあって……」
「ああ…、確かにそうっすね」
 の母親が亡くなったばかりだというのは、先ほどロイとの会話で聞いたばかりだ。が人恋しくて誰かと一緒にいたいのなら、自分が傍にいられることを嬉しく思う。
 そしてまたしばらく沈黙は続いた。時間が経つにつれて、狭い店内はほどよく客で埋まり始めていた。そこここで会話している客たちもいたが、みなボソボソと低い声で喋り、騒ぎ立てる者はいないため、相変わらず店の雰囲気は落ち着いていた。そんななかで、はグラスを揺らし、カランと氷の音を響かせた。
「本当に、考えるだけなら罪にはならないんでしょうか?」
 突然のの問いかけに、ハボックはを振り返る。は、ゆらゆらとグラスの中でうごめく液体を見つめながら、呟いた。
「誰よりも幸せになって欲しい人なのに、その人に幸せを与えている人たちがいなかったら…と思うときがあるんです」
「え……?」
 の口から出た思いもかけない言葉に、ハボックは思わず聞き返してしまった。
 それが引き金で正気を取り戻したとでもいうように、の顔色が見る見るうちに青ざめてゆく。
「ごめんなさい! わたしは、なにを――」
 蒼白になってしまったの瞳はハボックから逃げるように閉じられ、その睫が震えている。
(そういえば、あのとき――)
 ハボックはさきほどのビアホールでの出来事を思い出した。『考えるだけで、行動に移さなければ犯罪にはならないだろう?』というロイの言葉に、人形のような虚ろな表情を見せたの姿を。
「――忘れますよ。ってか、忘れましょう」
 気にしていないことを解ってもらえるように、わざと明るい声でハボックは言った。
さん――俺だって腹ん中じゃ二、三人殺してます。いや二、三人じゃすまないかな? 人生、なかなか思い通りにはいかないっすよ。だからこそこうやって、酒飲んで愚痴吐き出すんです。さんも、俺でよかったら発散してください。初めて会った相手だから事情知らなくて話しやすいってこともあるかもしれないし、明日にはちゃんと忘れときますから。まぁ、もともとあまり覚えがいいほうじゃないんすけどね」
 ゆっくりと瞳を開きハボックを見上げたに、ハボックは笑って見せた。あの気障な上司ならウィンクのひとつでも決めそうな場面だとは思ったが、さすがにハボックにはそんな真似はできなかった。
「ジャン……」
 ハボックの名を呼んだの目元が、安心したように緩む。けれどそれは、泣き出す寸前の顔のようにも見え。
さん――」
 思わず手を伸ばしかけたハボックに気付くことなく、は真っ直ぐにハボックを見上げると微笑んだ。
「……本当ですよ。わたしのことはと呼んでくださるように先ほど言ったばかりなのに、もうお忘れになったんですか?」
「え? あ……」
 に指摘され、「ホント覚え悪いなぁ、俺は」とハボックは笑い出し、伸ばしかけた手を誤魔化すように頭をかいた。
 もちろんこれがの冗談だということは承知していた。だから――ハボックにつられるように笑い出したの、その目じりが濡れているのに、気付かないフリをした。
 その夜は、ふたりにとってとても長いものになった。