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第五話 オモイ
「……わたしには、父がいないんです」
は氷の浮かぶ琥珀色の液体を揺らしながら、静かに話はじめた。 「どんな人なのか――生きているのか、死んでいるのかすら――母はとうとう教えてくれないまま、逝ってしまいました」 聞いた――というか聞かされた話では、の母は身重の姿でその街に住み着き、詮索してきた近所の人たちにも、決して答えることはなかったのだそうだ。 「嘘でも、世間体を考えて、亡くなったことにすればよかったのにといまでも思います。けれど母はそうしなかった。騙されたバカな女、捨てられた愛人、逃げてきた売春婦――影でいろいろ言われても、黙ったままでした。もちろん、子供のころの自分が、母について言われていることを理解していたわけではありません。でも、意味が解らなくても、悪口って解りますよね……?」 それは子供たちにも伝染し、は父親がいないことで他の子供たちにからかわれ、輪に入っていけなかったのだという。 正直――ハボックは信じられずに驚いていた。こんな綺麗で純粋で優しい人が、そんな辛い過去を過ごしていたなんて。そして、彼を仲間はずれにしたヤツらのことも。 グラスを口に運ぶのも忘れ、ハボックはの横顔を見つめていた。 「でも……そんなわたしにも、大切な友達ができたんです。ひとりでいたわたしに話しかけてくれて、勉強を見てくれた――友達というには、少し年上の人だったんですが」 の声が、少しだけ柔らかくなる。そのころのことを思い出しているのだろうか。 「彼が士官学校へ入ったので、わたしもあとを追いました。わたしが入学したときには、彼はもう卒業していましたが、それでも、少しでも彼の近くにいたかったんです」 友達というのだから“彼”でいいはずなのに、のいちばん大切な相手が男であるという事実に、ハボックはなぜだか、言いようのない衝撃を受けていた。 「そのころ、ロイさんに紹介していただいたんです。それでわたしも錬金術に興味を持って、一般的な知識として勉強するようになったのですが、まさか自分が国家錬金術師になるとは思ってませんでした。本格的に目指そうと思ったのは、あの――イシュヴァールの戦いが終わった後です……」 「イシュヴァール……」 ハボックは思わず呟いていた。 ハボック自身は、あの戦いには参加していない。それどころか、そのときはまだ軍人になろうとすら思っていなかった。 内乱終結後、大々的に行われた軍人の募集を見て、進路を決めかねていたハボックはこの職業を選んだのだが、つまりそれだけ、あの戦争で軍の人間が亡くなったのだと気づいたのは、入隊した後だった。 「ええ……わたしはあのとき、まだ士官学校に入ったばかりで、戦場へ送られはしませんでした。けれど帰ってきた彼がわたしの前で初めて、弱音を吐いたんです――味方が欲しい、と。この国を変えられるだけの力を持った味方が」 ハボックは息を飲んだ。 それは危険な思想だ。この国を変えるなんて、反逆の意志があるととられてもおかしくはない。 しかもそれを打ち明けられたということは、それは他ならぬ、共犯の誘い―――― ハボックがを見ると、その視線に気づいたのか、俯いていたが顔を上げた。見上げるように、の瞳はハボックを捕らえていた。 「わたしは、彼の役にたてる人間になろうと思いました」 強いまなざし――そこには、ハボックが女性と間違えたようなたおやかさはなかった。 ハボックの目の前にいるのは、その瞳に強い意志を秘めた怜悧な男性だった。 「特権、地位、力を得るために、わたしは錬金術の勉強をして、国家資格を取りました。これで彼と同じものを目指し、その傍にずっといられる――大総統から頂いた銀時計は、その証に見えました。あのときは本当に嬉しかった――」 ハボックを釘付けにしたの瞳が、徐々にその輝きを失ってゆく。やがてふたたび、その視線は力なく伏せられた。 「きっと……彼も喜んでくれると、そう思いながら彼の元へ報告に行きました。彼は『おめでとう! よくやったな!』とわたしを抱きしめてくれました。そして……彼はこう言ったんです」 ――もうひとつおめでたい話題があるんだ、。俺は結婚して家庭を持つ。俺を支えてくれるヤツを、見つけたんだ―― 「彼はわたしの昇進を喜んでくれました。けれど……彼の欲しかった味方は、わたしではなかったんです」 そう呟いたの瞳は――あのビアホールで一瞬見せたものと同じ――なにも映すことのない曇ったガラス玉のようで。 「解っては、いるんです。彼はわたしのことをちゃんと大事に思ってくれています。わたしを騙したわけでも、裏切ったわけでもありません。ただ……気づけなかっただけなんです。いつまでも子どものころと同じではいられないのだと――わたしだけが、それに気づくことができなかったんです」 両手で包むようにグラスを持つ、そのの指先は震えていた。 「もしかしたら、彼は解っていたのかもしれません。彼がいると、わたしは彼を頼ってしまう。いつも、どんなときも、彼がいないと、なにもできない人間になってしまう。彼が欲しいのは彼の隣に立てる――時には、彼の前に立てる人間なんです。彼の背中を見ることしかできないわたしでは、ダメなんです……」 苦しそうに瞳をゆがめたの、その目じりが濡れている。 「ダメだと、解っているのに……、でも……感情が、ついていかなくて――」 ハボックは衝動に駆られる。震えるの手に自分の手を重ねて、その震えを止めたい。濡れている目じりを拭ってやりたい。いやいっそ、その細い肩ごと自分の腕のなかに抱き寄せてしまいたい。 けれど――そんなことはできない。それはハボックの欲望であって、の望んでいることではないのだから。 誰も悪くない――なんて哀しい話だろう、誰も何も、悪いことはしていない。ただ、少し強く相手を思いすぎただけだ。 ハボックはやり場のない思いに、己の手を強く握り締めた。そしてその手を開くと、俯いているの肩に軽く触れる。 「……辛かったな」 ビクッとの身体が揺れた。たったこれだけの接触でも、驚かせてしまったらしい。 「辛かったんだな、ずっと……」 そんな言葉しかかけてやれない自分がもどかしい。けれど時を戻すことのできないハボックが、にしてやれることはなく。 ゆっくりと、は顔を上げた。零れてはいない――けれど濡れた瞳で、はハボックを見つめる。 「ひとりで――誰にも言えなくて――せめて誰かに、聞いて欲しかった。でも、こんなことを話したら……彼にも、話した相手にも、迷惑をかけてしまうから……」 ハボックは何も言わず、を見返したまま、首を左右に振った。迷惑などではない。何もできないが、聞くだけでよいというのなら、いくらでもできる――いや、してやりたいのだから。 「ありがとう……ジャン」 睫を伏せて微笑んだ――その哀しみ溢れる瞳に、ハボックは吸い込まれてしまいそうだった。 「飲もう――」 「ええ」 そのあとふたりは、言葉もなくただ静かに、杯を重ねあった。 「ん……」 自分の腕に触れた柔らかい違和感に、ハボックは目を覚ました。目の前には、朝の光を受けて光り輝く長く綺麗な髪。 (え……? えっ? ええ――っ!) ガバッと身体を起こすと、周囲は見慣れた自分の部屋だった。思わず自分の姿を確認すると、よれよれになってはいたが、シャツもベルトもしっかりと身につけたままだった。 自分の狭いシングルベッドに横たわっている――その細い身体が身じろいだ。 まぶたが開き、ゆっくりと周囲を確認したが、起き上がっているハボックの姿を見つけ、恥ずかしそうに微笑んだ。 「……おはよう、ございます」 同じように身体を起こしたが、光を受け金髪にも見える髪を掻き揚げながら言う。 「あ――……」 ベッドの上、ハボックの傍らにいるの、その胸元のボタンはふたつほど外されていて、滑らかな白い肌が見えていた。まだろくに働いていないハボックの脳は、つい本能導かれるようにそこを覗き込んでいた。 「いや、あの――!」 気づいたハボックは慌てての胸元から視線を外し、昨晩から現在までの状況を思い出そうとした。 「昨晩は少し飲みすぎましたね。お互い歩くのがやっとで、近くだったジャンの部屋に来たんですが……覚えてます?」 今度はが、慌てているハボックを心配そうに覗き込んで、そう教えてくれた。 「そういえば……」 閉店したいんだがと店を追い出されて――からの記憶がほとんどない。どこでもいいから眠りたくて、でもをひとりにできなくて、半ば無理矢理自分の部屋へ連れてきたような――そんな気もするのだが。 「あの、えっと……スイマセン、こんな狭いところで――」 記憶のない自分は、なにか失礼なことをしなかったか――思い出そうとしても思い出せない。せめてベッドはに譲って、自分は床で寝るくらいのことはしておけよと記憶のない自分を呪う。 「いいえ、快適でしたよ。わたし――軍に入っていちばん最初に身につけた能力は、どんなひどい場所でも眠れるようになったことなんです」 誇らしげにそう語ったの頬に朱が走る。 「あ――っ、あの! でも、このお部屋がひどい場所だなんていう意味じゃないですよ!」 顔を真っ赤に染めて慌てふためくの可愛らしさに、ハボックは笑い出してしまう。 そんなハボックにつられるように、も笑い出す。 朝の光のなか、狭い部屋の小さいベッドの上で、ふたりは確かに幸福だった。 泊まる予定だったホテルへの荷物を取りに行き、一緒に朝食を食べた。 セントラルへ向かうを駅まで見送って、ハボックも司令部へと出勤した。 『ジャンがセントラルへ来るときは、連絡してくださいね。今度はわたしのおすすめのお店にお連れします』 そう再会を約束したふたりだったが、それは叶うことなく。 このあとに起こる悲劇を、誰も予測などできはしなかった。 イーストシティ編はこれで終わりです。セントラル編へ続きます。 |