第七話 イタミ




 落ち着かなくてはという思いと、落ち着いていられるかという叫びに急き立てられるままに、は必死で血痕を追った。
(早く、一刻も早くマースを――!)
 きっと何事もなく、ヒューズは見つかるのだ。いつものように飄々と姿を現し、こんな騒ぎにしたを怒るかもしれない。
(怒られたっていい――いくらでも怒られます! だから、どうか無事で――!)
 焦るが見つけたのは、カウンターの前で立ち尽くす女性だった。通信の記録係だろう彼女はなぜか廊下に出ていて――そして、カウンターの上に置かれた救急箱に手をかけていた。
「あ、あの――ヒューズ中佐を! 見ませんでしたか!」
 不似合いな救急箱にもしやという期待をかけながら、は尋ねた。
「えっ――ええ、さっき見えて……」
 の剣幕に驚いた様子で、彼女は答える。
「どこです? 電話を掛けているんですか?」
 彼女の返答が待ちきれず、は電話が立ち並ぶブースを見回す。けれどヒューズの姿はなく。
「いえ――いったんは受話器を手にされたんですけど、なにか思い当たることがあったようで、受話器を戻して、すぐに出て行ってしまったんです。ひどく急いでいるみたいでした。肩を負傷していらしたから、手当てをしようと思ったのに……」
 結構ひどい出血だったので心配で、と呟く彼女には曖昧に頷いていた。
 ひどく――嫌な予感がする。
 ヒューズにそんな怪我を負わせるほどの、敵がこの建物のなかに進入したのだ。
(――まだ敵を追ってる?)
 違う――敵の人数はわからないが、少しでも大声で叫べば味方が集まってくるこの場所で、ヒューズが単独で追う必要はない。
 いまだ敵に追われているというのも、同じ理由で却下だ。
(敵はすでに逃亡したはず……)
 でなければ、怪我をしたヒューズが、誰にも知らせずに電話をかけに来るはずはない。けれど手当てもせずにこの場所まで来たということは、緊急を要する事態だということだ。
(マースは誰か――それも電話でしか話せない遠くの――特別な誰かに、急いでなにかを伝えようとしてる……?)
『――軍の回線は盗聴のおそれがあるから、気をつけろ』
 不意に、以前ヒューズに教えられたことを思い出す。
(もしかして――)
「……電話ボックスは?」
「は?」
 呟いたに、彼女が聞き返す。
「このあたりで、いちばん近い電話ボックスはどこです?」
「え……外のことまでは、ちょっと……」
 の剣幕に彼女が戸惑っていたが、もうどうでもよかった。
「すみません、失礼します!」
 は走り出した。
 ヒューズが抱えているものが、軍に知られたくないものなのだとしたら、が騒ぎ立てたのは、失敗だったかもしれない。
(まさか……マースを襲ったのは、軍の――……)
 そんなはずはない――そんなこと、あるはずがない。
 とにかく、誰よりも早くヒューズを見つければいい。騒ぎにしたことを謝って、そのあとのことは――きっとヒューズが考えてくれる。
 軍法会議所の建物を飛び出したは、周囲を見回す。街はすでに真っ暗で、所々に立つ街灯の小さな明かりを頼りに、電話ボックスがありそうな場所を探して走り始めた。
 建物の角を曲がって、すぐのことだった。
 ピィ――ッと、突然、闇の冷えた空気に、響き渡った笛の音。その音は、の心まで貫いた。
(これは……、この音は――……)
 憲兵が持つ、警笛の音。事件があったことを、周囲に知らせるための。
(マース――!)
 は、音のしたほうへ走り出した。
 たどり着くまで、数分とかからなかったはずだ。
 けれどすでに、その場所には数人の憲兵が集まっていた。
 電話ボックスの前に立つ彼らの足元から覗くのは、投げ出されている、男性の足――――
少佐!」
 憲兵のひとりが、近づくに気づいて、場所を空ける――そこに倒れていたのは、間違いなく。
 最悪の現実だった。
 大量の血液が、彼の身体を伝って周囲に溢れている。
 声も、出なかった。
 はその場に跪いて、血に濡れ、投げ出されたままのヒューズの手を取った。その手は――まだほんのりと温かい。
「……た、すけ――て……たすけ、て――はやくっ!」
 ヒューズの手を握り締めて、が叫ぶ。
 けれど周囲の憲兵は誰一人動くことなく。ひとりが、躊躇うように――けれどはっきりと――に告げた。
「少佐――ヒューズ中佐は、もう、お亡くなりです」
 信じたくなかった。
 けれどその言葉が真実だということは、も薄っすらと理解していた。強く握りしめているはずのヒューズの手は、ピクリとも動かないし――脈打ってもいないのだから。
(嘘――こんなのは、嘘だ――)
 ヒューズに会えさえすれば、すべてが良くなるはずだった。ヒューズが、すべてを考えてくれるはずだった。
 なのに、どんなに強く握っても、ヒューズの手はの手を握り返してはくれない。
「う……、ぁあ――」
 言葉にならない声が、の口から漏れる。
(なぜ――なぜこんなことに――)
 うな垂れたの視界は、電話ボックスの床に転がる、血にまみれた短刀を捉えた。ここへ来る前に書庫で見かけたのと同じ物。
 ヒューズはここでも誰かと戦って――そして、殺されたのだ。
(殺、された……?)
 目の前に存在するすべての事実を、消してしまいたかった。
 は短刀を取り上げると、両手で握り締めた。
少佐! なにを――!」
 憲兵が叫んだのも当然だったろう。握り締めた短刀はの柔らかな手に食い込み、彼の両手からは鮮血が流れ出したのだから。
 けれどその叫び声も、には聞こえていなかった。
「いや……いや――……」
 力なく首を振り呟きながら、はそのまま意識を手放した。


 次の日――出勤したハボックは、ファルマンからヒューズの死を知らされた。ロイとリザがすでにセントラルへ向かったことも。
「そんな――」
 ハボックにとってヒューズは数えられるほどしか会ったことのない上官だが――それでも好感は持っていた相手だ。それに――いまのハボックには、もうひとつの意味が存在してしまう。
 ヒューズは、の想い人だということ――――
「まさか、スカー!?」
 ヒューズが錬金術師でないことはもちろん知っているし、スカーは死んだものとされたことも知っている。けれど結局スカーの死体は見つからなかったことは現場を捜したハボックが誰よりもよく知っているし、それにがセントラルに戻ったばかりだということもハボックは知っているのだ。スカーに襲われたをヒューズが庇ったのかと、ハボックは咄嗟に考えた。
「いいえ――現場の状況からいって、中佐が殺されたのは間違いないようですが、詳しいことはまだなにも――。ただ、スカーによって殺されたのとは、状況は違うようですが」
「そうか……」
 ヒューズの死を悼む気持ちはもちろんあるが、それとは別に――のことを想い、ハボックの胸は痛んだ。はこの事実を、どうやって受け止めたのだろうか。
(受け止め、きれんのか……)
 あんなに、ヒューズを慕っていた彼が、この事実を。
(そうだよ、母親亡くしたばかりで、身内いなくて、そんでヒューズ中佐だけが、心の支えで――)
「ファルマン、俺もセントラルに――」
「ハボック少尉! なにを言ってるんです――」
 ファルマンに止められ、ハボックは我に返る。軍に所属している自分が、突然勝手な行動を取るわけにはいかないし――の居場所を、ハボックは知らなかった。軍に出向いたとしても、上官であり所属も違うの居場所を教えてもらうことはできないだろうし、軍施設内で会うことならできるかもしれないが、それには正式な面会の手続きが必要だろう。そのためには自分の休暇も申請して許可をもらわなくてはならない。一体何日かかってしまうことか。
 それに最も重要なことは――が、ハボックに会いたがるかということだ。
 にとってハボックは、たった一晩一緒に飲んだだけの相手であり――あの夜話したことは忘れるというのが前提だったはずだ。
――……)
 それに会ったからといって、ハボックにできることはなにもない。
「そうだよな、大佐が行ってるんだから、大丈夫だよな」
 自分に言い聞かせるように、ハボックは呟いた。
 ロイならばきっと、セントラルでにも会うだろう。帰って来たロイからその様子を聞いて、ハボックにできることがありそうならば、セントラルへ向かうのがいいだろう。ロイならば、の居場所を知っているか――知らないにしても、聞きだせる立場にあるのだから。
、どうか――)
 独りで泣き崩れるの姿を思い浮かべて、伸ばすことのできない自分の手を、ハボックはただギュッと握り締めるしかなかった。


 が意識を取り戻したのは、軍病院の一室でだった。
 しかしそれは意識を取り戻したといえるのかどうか――目を開けてはいるものの、はぼんやりとした反応しか示さなかった。食事を取ろうともせず、自分から動こうとはしない。
 はそのまま入院することになり、ヒューズの葬式には参列できなかった。できたとしても――しなかったかもしれないが。
 葬式を終えて、幾人かの関係者に現場の話を聞いたロイは、最後に、の入院している病院へ向かった。
 リザを伴ってロイが病室に入ったとき、はベッドの上で上半身を起こし、俯いたままぼんやりとしていた。
 最初に目に付いたのは、の手だ。ベッドの上に投げ出されたままの両手には包帯が巻かれているのだが、グルグル巻きにされて、ボールのように膨れ上がっている。
「彼は、手をどうかしたのか?」
 案内してくれた看護士に、ロイは尋ねた。
「ナイフによって切れた傷があるんですが、ときおり強く握り締めるような行為を繰り返すので、血が止まらないんです」
 可哀想ですが、動かせないようにああするしか――と申し訳なさそうに、看護士は答えて去っていった。
 リザとふたり、病室内に残ったロイは、ベッドの脇の椅子に腰を下ろし、の名を呼んだ。
「……ロイ、さん……?」
 しばらく待つと、ようやくが言葉を返した。けれど顔が上げられることはなく、どこか遠くを見ているかのような様子は変わらない。
――異変に気づいたときの状況を――ヒューズを見つけたときの状況を話してくれ」
 いまのにその問いは酷だと解っていたが、ロイは聞かずにはいられなかった。
 は、頷くでも首を振るでもなく、ただぼんやりとしているばかりだったが――やがて、淡々と語り始めた。
 軍法会議所に寄ったこと、資料室から戻ってくるのを待っていたが、遅かったので見に行くと、争った跡と血痕を発見したこと。捜索の要請を出し、自分は血の跡を追って電話のブースへ行ったこと。そこでヒューズの様子を聞いて、外の電話ボックスへ探しに行ったこと。そして――笛の音を聞いて、が電話ボックスにたどりついたとき。
「周囲は血の海でした。そのなかにマースの短刀が落ちていました。彼は、あの場所でも戦っていたんです。近くにいたはずなのに、わたしはマースを守ることができませんでした……」
 あくまで静かに淡々と、は語った。泣くことも、叫ぶこともなく。
 けれどロイには解かった。の思考の大半が、別のものに囚われているのだということを。
「ありがとう、。ヒューズの仇は、わたしが必ず取る」
 そう言って、ロイは立ち上がった。聞こえていたはずだが、からの答えはなかった。
 だからこそ、ロイはにとって最も酷なことを口にした。
――互いに人体練成は無理だ」
 いままでほとんど動くことのなかったの身体が、ピクリと揺れた。
 ロイには解った。はヒューズの死を受け入れられないわけではなく、その逆――受け入れたからこそ、頭のなかで必死に人体錬成の理論を組み立てているのだと。その集中力が、周囲を寄せ付けないだけなのだ。
 同じことを考えたロイだからこそ解る。けれどだからこそ、それが行われてはいけない禁忌だということも。
 ロイとリザが病室の扉を閉めると、室内から悲鳴のような叫び声が聞こえた。
 けれど再びその扉を開けることはなく、ロイは病院をあとにした。





ロイは冷たいわけではなくて、主人公がひとりで決着をつけなきゃいけない問題だと、それほど弱くないって信じてるんだと思います(と、ロイをフォローしてみる)