第八話 ココロ




 真っ白い天井を、もうどれくらい見続けているだろう。
 手を動かすことすら億劫で、はただベッドに横たわって、時を過ごしていた。それは、の担当看護師が軍の人間を連れて病室内に入ってきたときも、同じだった。
「失礼します、少佐――」
 ベッド脇に立った軍人が敬礼するも、は目を動かすことすらない。軍人が困ったように同行の看護師を振り返ると、彼女は頷いて「聞こえてはいらっしゃるはずです」と、そう答えた。
 軍人は気を取り直すように頷くと、持ってきた鞄をベッド脇へ乗せ、開いて見せた。
「えー、こちら、軍法会議所に残されていた、少佐のお荷物です。持ち主が解らなかったため不審物として検品させていただきましたので、ご了承ください。では、失礼します」
 一気に用件だけ告げると、軍人は足早に病室を立ち去った。
 残された看護師は、ベッドの上に広げられた鞄をとを交互に見る。けれどがその鞄に興味を見せることはなく。
「じゃあ、こちらの鞄は片付けておきますね」
 ベッドに近づき、鞄を閉めようとした看護師は、それに気がついて手を伸ばした。
「あら、可愛い。さんの、お気に入りですか?」
 看護師はの手を取ると、ゆっくりとそれを握らせる。一時期は包帯が何重にも巻かれ、固定されていたの手のひらも、大人しくなったことで、軽くガーゼが当てられているだけになっていた。
 指先は直にそれに触れていたはずだが、はなんの反応も示さなかった。けれど彼女はそのままに、鞄を片付けて病室を出て行った。
 残されたの手に握らされていたもの――それは、小さなキツネのぬいぐるみだった。
 エリシアのプレゼントとして用意していたそれは、渡される機会のないまま、検品されたことによって包装が解かれていたのだった。
(なに……?)
 の指先に触れる、柔らかい感触。
(……あった、かい……)
 伝わってくる、優しい温もり。意識のないまま、は探るように指を動かしていた。
(なにか……ずっと前にも、こんな――……)
 指先から、記憶を揺さぶられる。
 そっと目を向けると、自分の手の中にあるぬいぐるみと目が合った。
 覚えのない眼差し――だがひどく懐かしくもある。
(どこかで、これを……。違う、どこかで、これに似た、なにかを――)
 暖かく優しく、を満たしてくれたもの。このぬいぐるみの、この黒い瞳ではなく。
『この毛色、ジャンに似てる――』
 唐突に、は思い出した。このぬいぐるみを手に取ったときのことを。
 に、このぬいぐるみよりももっと、優しい温もりをくれた人のことを。
(ジャン――……)
 はあの夜のことを思いながら、辿るようにぬいぐるみを撫でた。けれどその感触は、あの夜のものと、似ているようで――違う。
『……辛かったな』
 の話を聞いて、そう言ってくれた優しい声。
 ここには、そのすべてがない。
「さむい……、寒い…、です」
 ぬいぐるみに向かってそう呟いたの声を聞いた者はおらず。
 その夜、は軍病院のベッドから姿を消した。
 

 セントラルから帰ってきたロイは、軍務を黙々とこなしていた。
 その上官の異様ともいえる光景に、口を挟めるものは誰ひとりとしていない。同僚同士の軽口もない重苦しい雰囲気のなかで、ただひとりハボックだけが、ロイに話しかける隙を窺っていた。
「あの――」
 勤務を終えたロイを追いかけ、司令部の敷地を出たあたりで、ハボックはようやく声を掛けた。
「なんだ?」
 振り返ったロイに表情はなく。それでもハボックは意を決して、ずっと尋ねたかったことを口にした、
「その……向こうで、――いや、少佐と、お会いになりました、か?」
「ああ、入院している」
「え――」
 思いもよらなかった言葉に、ハボックは頭が真っ白になった。
「ケガ自体は、大したことないんだがな」
 続けてロイがそう言ったことで、ようやくハボックは状況が見えてきた。
「それって――精神的なショックがひどいってことですか? 確か、お母さんが亡くなったばかりで……」
 そしてヒューズも、とは流石に口にできなかった。それに気づかないはずはないだろうが、ロイは淡々と「そうだな」と答えただけだった。
「それで、その……様子は、どうなんです? 回復の見込みというか――」
「どうだろうな、立ち直って欲しい、とは思うが。ああも脆いとは思わなかった。ヒューズが結婚しても、あそこまで依存したままだったとはな」
「え…?」
(ヒューズが結婚しても――あそこまで――)
 ハボックは頭の中でロイの言葉を繰り返す。
「それって、もしかして大佐は――、の気持ちに、気づいて……」
 依存≠ニいう表現は、に相応しくない気もしたが、言われてみれば確かにそれ以外の言葉はハボックにも思いつかない。
 が打ち明けたことのない思いを、ロイが正確に見抜いていたなんて。
「当たり前だろう。あれだけあからさまに好意を持ってるんだ。気づかないほうがおかしい。だが、あれを突き放すこともできんだろう」
 ふっと、ロイがどこか遠くを見るように目を細めた。
(突き放すことはできないって、それ――)
「まさか――ヒューズ中佐も、知ってた……?」
 確かにこの上官は愚鈍ではない。だがそれに勝るとも劣らなかったはずの彼の親友が、ロイの気づいたことに気づけないはずはないのだ。
(中佐は、知ってた――まさか、知ってて、結婚した……?)
 もちろん結婚することは悪いことではない。と結婚できるはずはないのだから。
 だが――なんともやりきれない思いがこみ上げてくるのは、なにに、誰に対してなのだろう。
 ロイはハボックの問いに答えることなく、項垂れているハボックを横目で見ながら、静かに告げた。
「お前……ヤツを受け止める気がないなら、半端に手を出すなよ」
「出すもなにも――」
 はここにはいないしと言おうとした自分に気づき、ハボックは口を噤んだ。
「いえ、失礼します」
 代わりにそう言って頭を下げ、ハボックはロイの前から辞した。
 ロイに背を向けて歩き出したハボックは、自然と早足になり、やがて走り出す。
(なにを――なにを、言おうとしたんだ、俺は?)
 のことは心配だ。つらい目に遭っているのだから、なにかできることがあるならしてやりたいと思うのも、おかしいことではないはずだ。
(友達、なんだし――)
 そう、友達なのだ。会ったばかりで、たった半日一緒に過ごしただけだけれど、時間で友達になるわけじゃない。
 足を止めて、ハボックは思う。
 ロイに『受け止める気がないなら手を出すな』と言われたとき、はここにはいない――ここにいたら、抱きしめてやれるのにと、を抱きしめることを想像してしまった。
は男なのに――……。いや、男でいいんだ。だから友達なんだ!)
 混乱する思考に、ハボックはぶんぶんと頭を振る。
「最近彼女いないからなぁ……欲求不満か、俺は」
 思わずため息と共に呟いてから、ハボックはここがまだ往来であったことに気づく。当然のように周囲から不審そうな視線を向けられていて――ハボックは足早に、その場を去ったのだった。
(あー、なんか、妙に疲れたなぁ…)
 ようやくアパートにたどり着き、ハボックは重い足取りで階段を上る。
「え――……」
 部屋の前に、座り込む人影。
 ハボックが上げた驚きの声に反応して、座り込んでいた人物が顔を上げる。
「あ……」
 吸いこまれそうな深く蒼い瞳に、揺れる茶色の髪――――
「あの、突然、すみません……あ、あの……」
 慌てて立ち上がったは、ハボックを見つめ、そして目を逸らす。
 考えるまでもなかった。
 足は、自然と駆けた。
 腕は、躊躇いなく伸ばされていた。
「来てくれて、よかった、――」
 ハボックはの細い身体を抱きしめていた。
「ジャン……」
 ハボックの腕のなかで、の肩が小さく震えた。


 いまだ涙の残る瞳を俯かせたまま、はハボックのベッドの上に座っていた。ハボックはその向かいに――この部屋に一つしかない椅子を移動させて――座っている。
 抱きしめたときも思ったが、はひどく痩せていて顔色も悪い。両方の手のひらに巻かれた包帯以外、外傷はなさそうだったが、痛々しいことに代わりはなかった。
「えっと…、なにか――茶でも」
 ハボックは言ったが、は小さく首を振った。
「包帯、血が滲んでるな。替えよう」
 ハボックは立ち上がって、薬箱を持ってくると、の前に膝をついた。
「出して、手」
 ハボックの声に応じるように、は静かに両手を差し出す。包帯の下から現れたのは、無数の切り傷。深そうなものは縫い合わされていたが、そこから血が滲んでいた。
「消毒するよ。痛かったら、言ってくれ」
 綿に消毒液を染みこませ、できる限り優しく、ハボックはその傷に触れた。
 これだけの傷だ――痛くないはずはないだろうに、はピクリとも動かなかった。
「はい、終わり。よく我慢したな」
 両方の手に包帯を巻き直して、ハボックは立ち上がるとの肩を叩いた。ハボックが薬箱を戻してから再びの向かいに座ったのだが、は手当をしていたときと同じ姿勢で――差し出したままの両手をじっと見つめているようだった。
「痛むのか?」
 ハボックは静かに尋ねた。
 はゆるゆると首を振る。
「……痛みが、どういうものか……よく解らなくなりました」
――……」
「ですが、この手を見ると、思い出します。わたしが、なにもできなかったこと――ねぇ、ジャン。錬金術は、なんのためにあるんでしょうか?」
 の指先が、小刻みに震えていた。見れば肩も――そして再び、の瞳から涙が溢れ始める。
「好きだったのに、守れなかった。彼のために、なにもできなかった。好きだったのに――彼のために、なにもできない。この身と引き換えに彼を生き返らせることも、できないなんて――」
 淡々と呟きながら、は両方の手をギュッと握りしめた。
「――わたしが死ねばよかったのに」
 その言葉を聞いた途端、ハボックはの頬を叩いていた。
 両手での頬を包み、顔を上げさせる。涙に濡れた瞳が、ハボックを見返していた。
「すまない――けど、そんなこと言うな。が死んだら、俺が悲しい。を犠牲にしてまで生き返りたいなんて、ヒューズ中佐が思うものか」
 溢れそうになってしまう激情を必死で押さえて、ハボックはに言い聞かせるようにそう言った。
 ヒューズの名を聞いた途端、の瞳から再び涙が滲み始める。
「ジャン……ごめんなさい……」
 震える声で、が謝罪の言葉を口にする。伏せた睫から、涙が零れた。
 ハボックは――その瞳に唇を寄せていた。
 もう泣かないでほしかった。
 痛みを感じていないわけじゃない。ずっとずっと、は痛みのなかにいるのだ。
 ヒューズを失った痛みも苦しみも、きっと一生のなかからなくなることはないだろう。でも、それでも――そのつらさを、少しの間だけでも、軽くしてやりたかった。
 ハボックはの傍らに膝をつくと、の身体を引き寄せるように抱きしめた。
――……」
 何度も何度も、腕のなかのの髪を撫でる。やがてハボックは、背中に柔らかい重みを感じる。の腕が、ハボックの背中に回されたのだ。
――」
 再び名前を呼ぶと、が顔を上げた。その睫は濡れたままだったが、瞳から涙が溢れてくることはなく。
「ジャン……」
 囁かれた声に引き寄せられるように、ハボックはの唇に、その唇を重ねていた。
 軽く優しく触れて、唇は離れた。
「あ…、た……かい」
 の唇が動いて、なにかの言葉を呟いたが、ハボックには聞き取れなかった。だが、聞き返すほどのことでもないだろうと、ハボックは再びを抱きしめた。
 その晩、を抱きしめたまま、ハボックは横になった。微かな寝息をたてるをずっと抱きしめて、その髪を撫で続けた。
 

 明け方近くになってようやく眠りについたハボックが目覚めたとき、腕のなかにはいなかった。
(まさか、夢――?)
 飛び起きたハボックの目に入ったのは、窓から斜めに差し込む朝日に照らされる細い背中――だがその後ろ姿は、ハボックが見慣れていたの姿とは違っていて。
「おはようございます、ジャン――すみません、勝手にハサミを借りてしまいました」
 振り返ったの、その茶色い髪は、首のあたりでバッサリと切られていた。
「い、いや……」
 ハボックがそれ以上何も言えず、ただ呆然とを見つめるていたのは、寝起きだったからではなく――が微笑んでいたからだった。
「ありがとうございました。ロイさんに伝えてください。なにかわたしで役に立てることがあったら、いつでも声をかけてください、と」
 初めて出会ったときと同じ――優しい笑顔を残して、はセントラルへ戻っていった。