第九話 メバエ




 セントラルに戻ったは、勝手に軍病院を抜け出したことを詫び、正式に退院の手続きを取った。
 そのまま、中央司令部に向かい、軍務に復帰する準備を整える。寮を斡旋してもらい、部屋を片付けていると、早速大総統府からの呼び出しがあった。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
 大総統の執務室に通されたは、机にいるキング・ブラッドレイに敬礼後、謝罪した。
「……髪を切ったのだね」
「は、はい」
 突然そう言われて、答えたの言葉はひどく頼りなげに揺れた。なぜだかひどく緊張していた。
「近くに来なさい、少佐」
 決して威圧的ではないが、揺るぎないその命令口調に、も気持ちを正しゆっくりと近付いていく。
 キング・ブラッドレイのほうも机から離れ、の正面に立った。
 ブラッドレイは手を伸ばすと、の両手を取る。そこにはまだ包帯が巻かれていた。
「ヒューズ中佐…、いや准将は、惜しいことをした」
「は、はい……」
 大総統の静かな言葉に、も胸を詰まらせる。
「これからは、ヒューズ…准将の代わりに、わたくしが、閣下のお役に、立てるよう――」
 ここに来る前に何度も練習した言葉なのに、上手く言葉にならない。国家錬金術師としてそれなりの修練も積んでいたはずなのに、いざとなったらヒューズの命を救うこともできなかったのだから。
 ヒューズの無念を晴らす――そう決意して戻ってきたはずなのに、不安になる。ヒューズが敵わなかった相手を、自分が捕まえることなどできるのか。
 自分にできることが、本当にあるのか。
少佐――」
 静かに名を呼んだブラッドレイの手が、の肩へと伸びた。
「大丈夫だ。無理をしなくていい。少し、肩の力を抜きなさい」
「は、はい……」
 肩の上に置かれたブラッドレイの手は、優しくの身体を引き寄せる。はその力強い手に逆らわず、ブラッドレイの胸に顔を寄せた。
(暖かい――)
 背中に回された腕の力強さと温もりに、張り詰めていた緊張や不安が薄れてゆく。
、わたしはきみの復帰をずっと待っていたんだよ。また、軍の――いや、わたしのために働いてくれる…な?」
 優しく労ってくれるその声は、が憧れてやまない父≠ニいう存在そのものだった。
 ヒューズ亡きいま、自分はこれから大総統ために働くのだという思いが、のなかでいっそう強くなった。
「はい――はい、閣下。もちろんです」
 顔を上げたに、ブラッドレイは微笑んだ。
「では、しばらくはわたしの護衛をしてもらおうか。だが、いいね? 無理をしてはいけないよ。きみの身体を大事に――きみ自身を大切にな」
 の頭へと伸ばされたブラッドレイの手が、短くなったの髪を梳き、そして再び引き寄せる。
 彼の胸に顔を埋めて目を閉じたは、大総統が浮かべたその冷笑に気づくことはなかった。


 護衛といっても、もちろん護衛兵は別にいるので、は大総統の傍で、秘書官のような仕事をこなしていた。
 仕事が終わると、密かに軍法会議所へ通った。もちろん現場はすべて片付けられており、惨劇のあとは微塵もない。いまにもその棚の陰から『よう、!』と笑顔のヒューズが現れ出る気さえする。
 けれどもう、そんなことはないのだ。
 は泣き出してしまいそうになる気持ちをぐっと抑えて、書庫を見回した。
 フォッカー大尉に頼み込んで聞かせてもらった話では、ヒューズは直前まで新聞を読んでいたとのことだった。東部だけではなく、北部も西部もこのところ穏やかではないという話をしていた直後、「昔の記録を調べてくる」と立ち上がったという。
(マースが最後に追っていたものは、一体――)
 それがこの事件に直接関係があるのかどうかは解らない。けれど彼が最後に追っていたものを、も見たかった。もしそれが途中なら、の手でそれを完成させたいと思う。
 けれど書庫に残された昔の記録は膨大だった。
(イシュヴァール、リオール……この国で過去に起こった戦闘の記録を探っていたのまでは解っているのに)
 場所、時期、死者の数――焦りからよりいっそう記録に目を通し続けたはろくに睡眠も取らなくなった。
 勤務中に目眩をおこしたを支えたのは、大総統だ。
少佐、少し休養を取ってはどうだね?」
「いえ――」
 休むわけにはいかなかった。ヒューズの残したものを調べなくてはいけないのだから。
「大丈夫です、閣下。お傍にいさせてください」
 ヒューズのことは知りたい。だが同時に、自分が役に立ちたい、必要とされたいという思いも強い。ただ独りきり、部屋にいることなど耐えられない。
「では、少佐。南部戦線の視察に行く予定が入ったのだが、行けるか?」
 セントラルを離れることになる――その思いが一瞬過ぎったが、あくまで一時的な視察だ。もちろんですとは承諾した。
 南方へはアームストロング少佐も護衛として同行することになっていた。本当の護衛役は彼で、は建前のようなものだろう。だがもちろんも、アームストロング少佐とともに列車の個室や部屋の外に立って大総統の警備に当たっていた。
 しかし酷使してきた身体に移動による疲労は容赦なく蓄積されていく。さらに南方の気候はに優しくなく、とうとうは倒れて、一週間の安静を言い渡されてしまった。
「え…、ダブリスへ――?」
 軍病院の個室を与えられたのもとへ、大総統が現れたのは昼をすこし過ぎた時間だった。今朝方、南方司令部に鋼の錬金術師が顔を出したのだという。
「彼の師匠という人物に会ってみたくなってね」
 こんな身体では連れて行ってくれと言えるはずもなく。
「お役に立てなくて申し訳ありません。どうか、お気をつけて――」
「ああ。少佐、きみはしばらくここで休養するといい。そうだな、南方司令部に異動ということにしておこう」
 大総統にそう言われて、は息を飲む。けれど逆らいたい気持ちを言葉にすることはできず、はただその瞳で大総統へ縋った。
「そんな顔をするな。体調が良くなればすぐにセントラルへ呼び戻そう。これ以上大事な――国家錬金術師が減ってしまっては、困るのでね」
 の肩を優しく叩いて、大総統は病室を出て行った。


 ハボックには、可愛い彼女ができた。
 がセントラルに戻るのを見送ってすぐのことだ。
 あの晩、自分の腕のなかで静かに肩を震わせていたの存在が忘れられない――そうは思ったものの、それでどうなるわけでもなく。
 やはり自分は華奢なのに柔らかくて甘い香りのする女性が大好きなんだと言い聞かせて声を掛けたら、すぐに可愛い彼女ができてしまった。
 だが、ハボックに待っていたのはセントラルへの異動という容赦ない現実だった。
「あたしと仕事とどっちが大事なの?」
 言われた瞬間、ハボックは自分の心が急速に冷えるのを感じた。
 お前と答えるのは簡単だ。確かに軍人は褒められた職業ではないのかもしれないが、平和とはいえない世の中で、なにかしたいと思って選んだ職業なのだ。それを捨て、新たな稼ぎ口を捜す気にはなれない。
「悪い、仕事だ」
 答えた途端、別れの言葉と同時に頬を張られた。去っていく彼女の背中を、ハボックは追いかけなかった。
だったら絶対あんなこと言わねえだろうなぁ……)
 自然に考えてしまってから焦る。はハボックの彼女でもなんでもないのだから。
(あーあ、こんなんで俺、に会って平静でいられんのか……?)
 だが、そのハボックの心配は杞憂に終わった。
 はすでに南方司令部へと異動になったという。
 安堵しつつも残念に思ってしまったハボックは、よりいっそう彼女捜しに力をいれた。アームストロング少佐の妹にまで会った。
 その甲斐もなくフラれ続けたハボックは、仕方なしに部屋を片付けていた合間に、ソラリスという女性と知り合った。ハボック好みの胸をした美女だ。
(そう、俺は胸が好きだ――)
 には柔らかい胸などないのだから、これでいいのだ。
 自分にそう言い聞かせながら、ハボックはその日もソラリスとの待ち合わせ場所へ向かった。


 充分な睡眠と栄養のある食事は、徐々にの身体を回復させていった。
 看護師しか来ない個室の病室で独り過ごす時間が、最初はどうしようもなく長く辛かったが、落ち着いて自分を見つめ直すいいきっかけになった。
 焦りすぎていたと思う。
 自分は生きているのだから、止まってはいけないと思っていた。なにかしなければいけないと、そればかり考えていた。
 だが自分は未熟で、できることには限界がある。それを認めなければいけない。
(だから、何年かかってもいい――)
 何年かかっても、どんなことをしても、自分が死ぬ瞬間まで、ヒューズの残したものを追う――そう決めた。
 そのためには、一度ロイと話したかった。入れ違いになってしまったが、ロイは中央司令部へ異動になっているはずだ。
 セントラルへ来たロイなら、ヒューズの事件を調べていることだろう。いまはまだ何も掴めていないに等しいが、自分がこれまで調べてきたことをロイに報告し、協力を仰ぎたい。ロイのほうがなにかを掴んでいるのなら、協力させて欲しい。
 退院したは、休暇の手続きを取って、セントラルへ戻った。
 一月前、この駅に立ったのは東方からの帰りだった。あのときはまさかこんな未来が待っているとは思っても見なかった。
(まだ、マースに会いにも行ってなかったんでしたね……)
 入院している間にヒューズの葬儀は終わっていたとはいえ、はまだ一度もヒューズの墓に行っていなかった。どこかでまだヒューズの死を受け入れられずにいたのだと思う。
 中央司令部に向かっていた足を止め、は先にヒューズのところに寄っていくことにした。
 大通りの商店街へ向かうと、花屋はすぐに見つけられた。通り沿いにたくさんの籠が並び、色とりどりの花が売られている。
 突然、は見知った背中を見つけた。
(ジャン――!)
 どうしてここにと思うより、出会えた嬉しさでは花屋にいるハボックへと近付いていった。
「おばちゃん、この花包んでくれ。リボンつけて」
「あらま、デートかい、この色男。一本オマケしといてやるよ!」
 嬉しそうに笑うハボックの横顔を見た途端、の足は止まってしまった。
 ハボックは金を払って赤いバラの花束を受け取ると、軽い足取りで去っていった。に背中を向けて。
(どうして――……)
 それからしばらく、はその場に立ち尽くしてしまった。
 邪魔だよとぶつかられて、ようやくは花屋に近付いていって、白い花束を買った。
(どうして、声が掛けられなかったんだろう……)
 ハボックは急いでいるようだったから、そのせいだと思う。ではなぜ、自分の心はこんなにも沈んでいるのか。
 ぼんやりと歩くうちに、は墓地へたどり着いていた。
 ヒューズの墓を探し当て、その前に持参した花束を置く。
 そろそろと手を伸ばして、は墓石に触れた。
(冷たい――)
 こんな冷たい石の下に、ヒューズの身体は眠っているのか。
「マース……」
 あの夜、何度読んでも届かなかったその名前を呟くと、の瞳から自然に涙が溢れた。
 浮かんでくるのは、幼い頃から一緒だったヒューズとの思い出の数々。父がいない自分をかばってくれ、面倒を見てくれた。やがて彼を追って軍に入り、彼の役に立つために、国家錬金術師の資格を取った。それを報告したとき、喜んでくれたあの笑顔。けれどそれは――――
『もうひとつおめでたい話題があるんだ、。俺は結婚して家庭を持つ。俺を支えてくれるヤツを、見つけたんだ――』
 力が抜け、はその場に膝をついた。そのとき不意に、さっき見たばかりのハボックの嬉しそうな横顔が頭を過ぎる。
(ああ、そうか――)
 ようやく、は自分が気落ちした理由に気づいた。
 の話を聞いて、受け止めてくれた優しいハボック。だが、彼を笑顔にするのは、ではないのだ。ヒューズがそうであったように。
「……マ…、ス……」
 答えてくれない冷たい墓石を見つめながら、はただ泣き続けた。