午後十時。
決して遅すぎるという時間ではないが、『これから会いたい』と言われるには、それなりに遅い時間だと思う。 『ね〜、〜』 黙ってしまったオレを電話越しに促す声は、無駄に明るい。 「酔ってんのか、芦原?」 オレの問いかけに、今度は芦原が沈黙する。 『……酔ってない、と思う』 返ってきた声は、いつもより沈んでいる。 「――と思うって、なんだ? 芦原! そーゆーヤツに限って酔ってるんだよな〜」 気づかなかったフリをして、オレは続けた。 「で、どこで会う?」 [all or nothing 1] スクーターを階段裏の駐輪場に停め、脱いだメットとコンビニのビニール袋を片手に、オレはチャイムを鳴らした。 「は〜い」 オレだと分かっているからだろう――いつもの能天気にも聞こえる声がして、扉が開く。 「ー、いらっしゃ〜い!」 「ほら、差し入れ」 笑顔の芦原の眼前にコンビニの袋を差し出してやる。中身を見た芦原の笑顔は、さらにとろけそうなものに変わった。 「わ〜、ハーゲンダッツ! 抹茶にキャラメルに、クッキークリームに……あ、このメロンって限定?」 「そ。お前、限定好きだろ?」 「大好き! さっそく食べようよ〜。はい、上がって上がって〜」 礼儀というか癖というか「お邪魔します」と口にしながら、オレは芦原の部屋に上がる。 「はどれにする〜?」 「ん……抹茶かな。ああ、コーヒー淹れて」 メットを部屋の隅に置くと、オレはいつもの席に腰を下ろしながら言う。 「りょ〜か〜い。あ、。酒もあるよ。ビールも」 テーブルに出されているのは、飲みかけらしい缶ビールとチョコレート。またツマミは甘いものか。 「アルコールはいいや。オレ、バイクだし」 「え、。泊まってかないの?」 聞き返してきた芦原の声は意外そうで、少し残念そうだった。 確かに現在は11時近い。これから少し話したとして、日付が変わるのは確実だろう。でもバイクで来ているのだから何時でも帰れる。芦原が帰って欲しければ、の話。 「――泊まるよ。お前と飲むと朝までになるだろうが」 オレは茶化すように言った。泊まるのも帰るのも、どっちでもできるように、バイクにしたのだから。 「そっか……、明日は対局?」 「いや、指導碁。芦原は?」 「俺は研究会」 「お互い、アルコールの臭いぷんぷんさせてちゃマズイってことだな。酒はまた次。あ、ほら、早くコーヒー淹れるか、アイスしまえ」 「あ、そうだった。は抹茶で〜、俺はメロンね」 食べるカップを置いて、芦原は残りのアイスを冷凍庫へしまいに行く。ワンルームなので、その姿が隠れることはない。芦原が水を入れたヤカンを火にかける、その背中を視界にいれつつ、オレは室内を物色した。 空き缶や空き瓶が転がっている気配はなく、どうやら芦原が酔っている可能性は低そうだ。ヤケ酒もできないほどマジで落ち込んでて、どうしようもなくオレに電話してきたってことか。芦原は意外と考え込むからなぁ。 ぼんやりとそう思いながら、オレの手は自然とテーブルの上の飲みかけの缶ビールに伸びていた。手にしてみると、重い。ほとんど飲んでないんじゃないだろうか。口をつけたビールは、すでに温かった。 「あ、ごめん。スプーン出すの忘れてた――」 振り返った芦原が、ビールを飲んでいるオレを見て、笑っている。 「なんだ、。やっぱ飲みたかったんでしょ」 「いや、残飯整理」 オレも笑いながら返す。 「なんかツマミいる〜? なんにもないんだけど……」 「いいよ、コレもらう」 冷蔵庫を開けようとする芦原を制して、テーブルの上のチョコレートを一つ取る。 「お、ゴディバじゃん」 「緒方さんからのもらいもの〜」 「ってことは、バレンタインの横流し品? まだあるのか」 「もらったチョコは一つ残らず俺にくれたみたいだからね。昔はアキラと分けたりもしたんだけど、最近はアキラももらってるし。もしかするとアキラのほうが多いかもしれないみたいなんだよね〜」 「そりゃあチョコ獲得段位なら、気軽に渡せる分、塔矢アキラのほうが上だろうな〜」 緒方精二へのは、なんか重そうだ。口に入れる前に、マジマジとチョコレートを見てしまう。ま、どれほど怨念(?)がこもってようと、味に変わりはないはずだ。 チョコを口にして、温いビールを飲み干してしまうと、タイミングよく芦原がコーヒーを持ってきた。 「どーも」 「どーいたしまして。じゃ、いただきまーす」 スプーンを持ちながら両手を合わせて、芦原がアイスを食べ始める。おーお、幸せそうな顔しちゃって。少しは気分転換になってるかな? 「、ひとくち味見る?」 「ん」 芦原が差し出してきたスプーンにパクリと食らいつく。 「じゃ、お返し」 オレも自分のカップから、少し多めにすくって芦原の前に差し出す。 「わ〜い」 顔を寄せてきた芦原を、いつもならスプーンを引いてからかうところだけれど、今日はやめておくか。素直に芦原の口の中に入れてやる。 「んー、美味し」 いつもの笑顔で笑う芦原を見て、ちょっと面倒ではあったけれど、来てよかったなと思う。 「明日の研究会って、何時からなんだ? コレ食ったら寝るか?」 「は何時からなの?」 「オレは午後からだから」 何時でも構わないぞという意味を込めて言う。 「えっと……」 答えようとした芦原を遮ったのは、携帯電話の着信音。オレのじゃない、芦原のだ。 「あ、ちょっとごめんね」 そう言って電話に手を伸ばした芦原は、ディスプレイをみて、閉じてしまう。けれど電話は、鳴り続けたままだ。 「オレ、外出てようか?」 オレに聞かれたくない話なのかもと、立ち上がりかけたオレの腕を芦原が掴んで制す。 「ううん、違うから……はここにいて」 あっという間に、芦原の表情は沈んでいた。どう考えてもまだ鳴り続ける電話が原因だろう。 芦原は、少し躊躇うような仕草を見せたあと、開いたケータイをオレに差し出してきた。そのディスプレイに表示されていた名前は、『冴木光二』―――― 「冴木? 出ないのか?」 「出たく、ない」 やがて、コール音は途切れた。 部屋に重苦しい沈黙が流れる。あーあ、このままじゃ、アイス溶けちゃうよ。 しかし、冴木って、あの冴木だよなぁ。フルネームで出てたんだから疑いようもないか。あの冴木光二が、芦原を落ち込ませている原因とは。 「な、芦原。冴木と、なんかあった?」 冴木の電話に出たくないと言ってきたということは、聞いてもいいということだろうと判断して、オレは口にした。 「……あったっていうか、なんていうか……」 口ごもってしまった芦原を無理に促すことなく、オレはコーヒーを飲んだ。 やがて芦原が、ようやく意を決したように言った。 「なんか俺、冴木くんにキスされたみたい」 口のなかにコーヒーが残っていなくてよかったと、オレは心底思った。 |