きみのなまえをくちにする




 朝のホームルームに重要性を見出せず、跡部はいつものように窓の外に視線をやりながらテニス部のことを考えていた。昨夜から降り続けている雨は止みそうになく、屋外コートの使用は無理そうだった。きょうの部活は中止して、レギュラーのみの自主練にしよう。
 実力重視、敗者切捨てという監督の方針のおかげで、頂点に立ったいま、部活全体が跡部の自由になる。特に準レギュラーと正レギュラーは跡部の命令で動くといっても過言ではない。
 一年次にはすでに準レギュラー入りし、二年次に正レギュラー入りを果たしていた跡部だったが、部活全体を掌握するまでには三年が引退するのを待たなければならなかった。実力重視だからこそ、部員同士には相手を蹴落とす気持ちが高く、学年が下の跡部にいい感情を持っていない準レギュラーは多かった。表立ってなにかされるということはなかったが、すんなり跡部の言うことを聞くということもなかった。
 そんななかでひとりだけ――ともすれば険悪になりがちな跡部と、レギュラーを含む三年生との間をとりもってくれていた三年の準レギュラーがいた。
 ――彼は技術だけなら正レギュラーとそう変わりないものを持っていたが、この氷帝には珍しく、テニスをすることだけを心から楽しんでいる人間で、勝利に対する執着を感じさせなかった。それが結果としてプレーに現れ、準レギュラーのままだったのだが、コートの中でも外でもいつも楽しそうに微笑むは、同学年はもちろん、下級生からも慕われていた。言っても聞いてもらえなかった跡部の言葉は、からやんわりと伝えられ、実行された。
 跡部はの技術も認めていたから、このまま準レギュラーでいるのは惜しいと思っていた。最終学年で卒業していくと、関東大会でも一緒に試合に出たいと思った。だから自身に『なにがなんでも勝つ』という意識を持たせたかった。
 自分でそう思えないのなら、俺が思わせてやる――昨年の都大会の決勝戦、跡部はシングルス2でコートに出て行くにすれ違いざま囁いた。
「勝ってくださいよ、先輩――俺のために」
 は足を止め「解った」とだけ小さく答えた。振り向かなかった彼の表情を跡部が見ることはできなかったが、コートに立った彼の顔は、いつになく真剣なものだった。
 は青学の部長を全く寄せ付けず、6−0で勝ち、氷帝の優勝を決めた。その結果として、は最も正レギュラーに近い準レギュラーとなり、関東大会で誰かが負ければ、正レギュラーになることは確実だった。そして、その負ける人間は自分じゃない。
 跡部は自分の思い通りに事が進んだことに満足していたし、これからもそうなると思っていた。けれど関東大会が始まったとき――氷帝テニス部にの姿はなかった。跡部も、他の部員たちもなにも聞いていなかった。知っていたのは監督である榊だけで、父親のロンドン赴任に伴い留学したと、のことを尋ねた部員に端的に答えたという。
 は跡部になにも言ってはいなかったし、手紙が届くということもなかった。調べれば向こうの住所くらいは解っただろうが、こちらから連絡を取る気などなかった。
 赴任や留学が一日やそこらで決められるはずもない。さよならの挨拶くらい言う時間はとれたはずだ。他の部員はともかく、自分にだけは、ひとことでも事情を話すべきだったはずだ。
 裏切られたと――跡部は思った。
 にとって自分はなにも言わずに捨て置ける相手だったと認める前に、跡部はのことを考えるのを止めた。止めたはずなのに――なぜいまになって思い出してるんだと忌々しい雨を見ながら舌打ちして、跡部は視線を教室へ戻した。
 そこにあったのは、信じられない光景だった。
「じゃあ、転校生。挨拶して」
「はい――です。よろしくお願いします」
 そう言って頭を下げ、ゆっくりと身体を起したその顔は、跡部の記憶にあるに間違いなかった。
先輩――!」
 跡部は思わず机に手をついて立ち上がっていた。そんな跡部の姿に驚いた担任とクラスメイトが跡部のほうを一斉に振り返る。だけが――まるで跡部がそう反応するのが解っていたとでもいうように、ゆっくりと跡部へ視線を合わせた。その目は、まるで面白いものでも見るかのようで――跡部は、そんなの表情を見たことがなかった。
は、跡部と知り合いだったか?」
 間の抜けた担任の声が教室内に響き、取り澄ました顔に戻ったが答える。
「ええ、去年ぼくはテニス部に在籍していたんです」
 マジマジと見つめる担任の視線を感じたのだろう、は続けた。
「それ以来テニスはやってませんが」
 担任がを見た理由は、跡部にもよく解った。の肌の色は白く、とても陽にあたって運動をしているようには見えない。それに、テニスをするにはそれなりの筋力が必要であり、細くてもスラリとした印象になるはずなのが、は細すぎて、華奢という言葉のほうが相応しく見えた。この一年、運動らしい運動をしていなかったのは明白だろう。
 ふと跡部の耳に、教室内の女子達の囁き声が聞こえてくる。
「あの人見たことある〜」
「去年準レギュだったよね?」
「そうだよ、先輩だよ〜」
 氷帝のテニス部にはファンクラブがあり、正レギュラーはもちろん、準レギュラー入りすれば、それなりのアイドル扱いになる。のことを覚えている女子がいても不思議ではなかった。けれどそのはしゃぐような楽しそうな声音に、跡部はなぜだか腹が立った。そして、立ち上がってしまった自分の狼狽ぶりにも。
 ガタッと、わざと乱暴に音を立てて座り、室内の女子を黙らせた。
 再び教室は静けさを取り戻し、担任は本題を思い出したように続けた。
「跡部と知り合いなら、は跡部の隣の席のほうがいいか?」
「お断りです!」
 跡部の声が即座に教室内に響く。跡部は不機嫌なのを隠そうともせず、目を閉じたままだったから、がどんな表情をしたのかは解らない。知りたくもなかった。
「そうか……じゃあ、予定通り、の席は廊下側のいちばん後ろってことで。あそこだ、
「はい」
 教室内のざわめきが大きくなって、が席へ向かっているのだと知れる。やがて、椅子を引く音もした。
「あ〜、は去年までここにいたから、建物に関しては特に分からないこともないだろうが、それでも一年ぶりだ。なにか解らないことがあったらほかの生徒に聞けばいい。みんなも教えるんだぞ」
『はーい』とお決まりのように担任の言葉に答えた声の大半は女子のものだった。やがて予鈴が鳴って、担任が足早に出て行く。ガタガタと席から立つ音がして、ヒソヒソと話す女子の声が集まっていく。「あなたが」「ひとりじゃ」「みんなで」などと断片的な言葉が聞こえ、やがてはっきりとしたひとりの女子の声になった。
「あのー、先輩って――去年、男テニの準レギュだった方ですよね?」
「うん。でもいまは同じ学年だから、先輩、なんてつけないでね」
「えー、じゃあ、――さん、でいいですか? さんて、去年急に転校しちゃったんですよね?」
「父の仕事の都合で――ロンドンに」
「じゃあ、留学してたってこと?」
「うん。だから、また日本で三年をやり直す必要があって」
「そうなんだー。で、テニス部、また入るんですか?」
 ひとりの声をきっかけに次々と女子がに言葉を掛けていったが、その質問は跡部の耳にもしっかりと届いた。跡部はスッと立ち上がると、机の上を思い切り叩いた。
「煩せーんだよ!」
 不機嫌な声を上げての席のほうを睨みつける。席を取り囲んでいた女子が振り返ったまま硬直していた。そんななかで悠然としていたのは、ただひとりだった。
「あ、このチャイム、本鈴だよね? もう席に着いたほうがいいんじゃないかな」
 の言葉に、静止していた女子たちが一斉に動き始める。慌しく動く人影の間で、と跡部の視線が合った。は、静かに微笑んでいた。それは跡部が一年前によく見た――跡部の言葉をうまくレギュラー陣に伝えたあとと、同じ微笑だった。
 跡部は眉を顰めて目を逸らした。たまらなく不快だった。
 跡部の機嫌が悪いのを知って、クラスの女子たちはその後の時間も、表立ってに話しかけることはしなかった。跡部もまるでなにも変わりなかったかのようにの存在を無視した。女子たちはのことをよく覚えていたわけではなかったから、結局誰も気づかなかった。左利きだったが、右手でノートを取っていることに。



注:ホントは去年青学の部長に勝ったのは跡部で、結果も3-2です。