きみのなまえをくちにする 2




 いくらテニス部のレギュラー入りできた人間は一般生徒からももてはやされるとはいえ、は結局“元”であるし、現役で、しかもその頂点に立つ跡部が同じクラスにいるとなれば、それは大して意味をもつ事柄ではなかった。
 もちろん挨拶はするし、話しかけられれば答えもする。連絡事項があれば教えるし、決してクラスメイトがのことを無視しているわけではない。けれど、ただひとり、の存在を全く無視する跡部の存在が大きかったのだ。がひとつ年上であること相まってか、と必要以上の会話をしようとするものは誰もいなかった。
 最初は興味津々で近づいていた女生徒たちも、跡部の機嫌を損ねれば、他のレギュラーメンバー見たさにテニスコートに近づくことができなくなる可能性もあると判断して、大人しくなった。
 跡部の態度によって、はクラスから完全に孤立していた。
 けれど当のは――特に困った様子を見せることもなく、淡々と授業を受けていた。
 カリキュラムによっては一時限ごとに教室を変わらなければいけない曜日などもあるのだが、二年間通っていた経験に間違いはなく、本館から特別教室棟への移動も最短距離で行っていた。
 昼食もどこかでとっているらしく、昼休みになるとすぐに教室を出て行くのだが、学食やサロン、屋上でも、その姿を見た者はいなかった。
 だが、に話しかけるものが、全くいなかったわけではない。
せんぱーいっ!」
 昼休み、いつものようにひとりどこかへ行こうと廊下を歩いていたを、明るい声で呼んだ者がいた。
 背後から抱きつくように腕を回され、甘えるようにの肩にその頬を乗せてくる。その柔らかい髪の毛がの首筋をくすぐった。
「慈郎――久しぶり、元気そうだな」
「うん。眠かったけど、せんぱい見つけたら、ばっちり目覚めたよ! また会えて嬉Cー!」
「そんなこと言ってくれるの、オマエだけだよ」
「えー、そんなことないよー! ……あれ、せんぱい、メガネ掛けたの?」
 顔を上げた慈郎が、の耳にかかる細いチタンフレームの眼鏡に気づいて言う。一年前にはなかったものだ。
「ん――ああ、いちばん後ろの席になったら、黒板が見えにくくてな。ほら、慈郎。重いぞ。いい加減離せ」
 慈郎が回していた腕を、はやんわりと引き剥がした。
「ふーん。ないほうが可愛いのにー」
 残念そうに呟く慈郎に、は優しく返す。
「男に向かって可愛いはないだろ?」
「そんなことないよ! せんぱい、可愛いーもん! まぁ、どっちかっていったら――キレイってほうかもしれないけど」
「慈郎……」
 から笑みがこぼれ、慈郎も笑い出した。
 と慈郎は、プレイスタイルは違うが、テニスに対する姿勢がよく似ていた。在籍中は跡部のフォローに回っていただったが、練習は慈郎と組んでやっていることが多かったし、組んでいるときはどんな練習でも、ふたりから笑顔が絶えることはなかった。
 一年前のそんな時間がふたりの間に戻ってきた――そのとき。
「ジロー!」
 廊下の奥で、その名を呼ぶ声が鋭く響いた。慈郎は背を向けていたが、その声が誰のものか気づかないはずはない。
「ジロー! ちょっと来い!」
 には慈郎の肩越しに見える――樺地を従えた跡部の姿が。
「あー」
 面倒くさそうに呟く慈郎の肩を、は軽く叩いた。
「早く行ったほうがいいよ。ますます機嫌悪くなるから」
「うん、そうするー。じゃあ、せんぱい、またね」
「ああ、またな」
 慈郎が振り返ったのと同時に、も向きを変え、歩き出した。これから跡部に怒鳴られる慈郎には悪いが、にできるのはその様子を見ないことだけなのだから。


 昼休みにがいつも向かっていたのは、特別教室棟の屋上へ続く西階段だった。特別教室棟の屋上は開放されておらず、そこへ続く階段を登ろうとする者はまずいない。鍵の掛けられた扉を背に、ひとりで食事をとり、張り詰めた心を開放するのだ。
 一年前に自分がとった行動を思えば――いまの跡部の態度は予測の範囲内だった。それが解っていて、それでも帰ってくることを選んだのは自分なのに、想像していた以上の辛さに、投げ出したくなる。けれどまだ諦めるつもりはなく、少しでも感情を表に出さないように眼鏡まで掛けた。
(そうだまだ――これぐらいなんともない。なんとも、ない――)
 慈郎と会えたことで少しだけ緩んだ気持ちを正すように、は自身に言い聞かせながら階段を登っていった。扉へ続く最後の階段へ足をかけようとしたとき、背後から静かな声に名前を呼ばれた。

 振り返った先にいたのは、スーツをきっちりと着こなした、つま先から頭までまるで隙のない男だった。
「榊先生……お久しぶりです」
 姿勢を正して頭を下げながら、ここが音響室の近くで、音楽教師専用の職員控室があったことを思い出していた。
「昼はまだか? 一緒にどうだ?」
 片手にパンの入った袋を持っていては、否定できる言葉はなかった。
「ありがとうございます」
 は答えて、当然ついてくるものと思って扉を開けている榊へ近づいていった。
 一緒にと言ったのだから榊も当然なにか食べるのだとは思っていたのだが、榊はに応接セットのようなソファへ座ることを促すと、棚からコーヒー豆を取り出し、挽き始めた。すぐにコーヒーの香ばしい香りがし、コーヒーメーカーにセットされると、室内はさらに強い香りで満たされる。
 やがて真白なロイヤルコペンハーゲンのカップに注がれて、の前に置かれた。
「いただきます」
 軽く頭を下げて、は一口飲んだ。砂糖もミルクも入っていないものだったが、苦味も酸味も少なく、とても飲みやすかった。
 榊も自分の分のカップを持って、の向かいに腰を下ろした。榊がなにか食べようとする様子はなかったので、はひとり、持ってきたサンドイッチを食べ始めた。榊の淹れてくれた一杯のコーヒーで、いつもの食事が豪華に感じられるのは、気のせいではないだろう。食事時に誰かと一緒にいるのも、久しぶりのことだった。
 榊は時折カップを口に運ぶだけでなにも言わなかったが、は気にならなかった。榊は『必要なこと以外は言葉にしない』人間の見本だとは思っていたし、その榊が「出て行け」と言わないのだから、はここにいてもいいのだ。
 やがてが食べ終わり、カップのなかのコーヒーも飲み干したのを見計らってか、榊は静かに口を開いた。
「以前から思っていたが、お前は選手としては向いていないな。あのままいても、正レギュラーは無理だっただろう」
「ぼくも――そう思います」
 決して卑屈な気持ちからでなく、は答えた。正レギュラーは、なりたい人間がなるべきなのだ。
 榊も全く顔色を変えることなく、淡々と続けた。
「お前は、指導者としてのほうが向いているな。どうだ――?」
 これには流石にも驚き、動揺を隠せずに返した。
「どうって……それは、なんの冗談ですか?」
「お前くらい洞察力、技術力があれば、ラケットは握れなくても充分やっていけると思うが」
 榊の言葉に、は一瞬息を飲んだ。
 フッと息を吐いたの肩から力が抜ける。
「――ご存知だったんですか」
「教師だからな」
「そうですね、失礼しました」
 答えながらは、気づかずに張り巡らせていた最後の気が緩むのを感じた。心のどこかで不安に思っていたらしい。テニスができなくなったと知れたら、榊の態度が変わるのではないかと。
「もう、テニスに関わる気はないのか?」
「それは――」
 が詰まるように言葉を切って、目を伏せる。その口元には、自嘲的な笑みが浮かんでいた。
 そんなを前にしても、榊の態度は変わらなかった。
「跡部が許さない――か? あいつも意固地になっているだけだろう」
「先生は――…、ほんとうになんでもご存知なんですね」
 呆れた顔が笑みに変わり、クスクスと笑いながらはテーブルの上のカップに手を伸ばした。
「でも――ぼくのほうが意固地なんですよ」
 そう言って、榊の飲み干したカップにも手を伸ばす。
「美味しかったです、ごちそうさまでした。洗いますね」
 立ち上がって簡易キッチンへ運ぼうとするに、相変わらずの口調で榊が言った。
「明日はお前が淹れてくれ」
 は笑って見せることで、承諾の意を示した。