きみのとなりでめをとじる(前編)
「サン――一緒に帰ろ」
その日の放課後、授業終了のチャイムから程なく、のクラスに顔を出したのは。 「忍足。部活はいいのか? 関東大会は明後日じゃないか」 「ちゃんと出ないとあかんやろなぁ。だから昇降口までな。いないんやろ――跡部?」 クラス内を見回すことなく忍足がそう言った理由はにも解る。先ほど、生徒会長を呼び出す校内放送が流れたせいだ。そしてには、なぜ忍足が昇降口までの短い距離だけでもと一緒に――跡部抜きで――いようとしているのかも、察しがついてしまった。 「忍足……昼間のことなら、確かに売り言葉に買い言葉のようになってしまったのは認めるよ」 鞄に教科書をしまうと立ち上がって、は忍足にそう言った。 「じゃあ、サン――応援に来てくれるん?」 は苦笑した。やはり忍足はその話をしたくて来たらしい。もしかすると岳人あたりにせっつかれたのかもしれないが。 今日の昼休み、食堂ではいつものメンバー――食事を取ることも忘れて寝続けていることもあるジローを抜かした正レギュラー+――で、いつものように、テーブルを囲んでいた。ただ違ったのは、関東大会を明後日に控え、話題が自然とそのことばかりになっていたということ。 試合のオーダー表も、基本的に部長である跡部がすべて決めている。関東大会以降は榊監督の承認を得てからの決定となるが、余程のことがない限り監督が変更を指示することはないらしい。だからレギュラーメンバーは自分が出る順番をすでに承知していた。 「宍戸、今度は負けんなよ」と岳人がからかうように言うと、「俺たちに負けたお前らこそ、D2で大丈夫なのかよ」と宍戸も負けずに返す。聞き役に回っていたは、宍戸のその余裕のある口調から、都大会で負けたことが彼の精神面での不安要素になることはなさそうだと、静かに微笑んだ。 「せんぱーい」 不意にジローが現れて、の名をのんびりと呼ぶ――これもいつものことだった。ジローはの後ろの椅子を引き寄せると、の背中に擦り寄るようにもたれかかった。 「誰でもいいけど負けてくれないと俺まで順番回ってこないんだよねー。俺出るの四番目だから、せんぱい、ゆっくり来てくれていいからねー」 「なに言ってんだよ、ジロー! さん、俺たち最初だから、試合開始から見に来るよな? 俺の華麗なるアクロバティックプレイをはりきって見せるぜ!」 はしゃぐ岳人の姿と、背中に感じるジローの体温に申し訳なく思いながら、は告げた。 「応援はしてる――でも、ごめん。ぼくは会場に行くつもりはないから」 その言葉にいちばん素早く反応したのは、それまで黙っていた跡部だった。 「アーン? なんだと、?」 跡部に視線を合わせたが口を開くより早く、背後にいたジローがに抱きついてその視線を逸らせた。 「えー、せんぱい来てくれないのー? 来て欲しいなぁ、俺のカッコいいとこ見せたいしー」 「慈郎……」 背後から腕を回されていて身体を動かすことはできなかったので、首だけを動かしては困ったように慈郎の名前を呼んだ。自分がジローに甘いのは自覚しているし、ジローもそれを知っているからこそに甘えてくる。これが別のことだったら、たぶん答えを変えてしまっていただろう。でも――ジローのふわふわの髪を視界に入れながらは答えた。 「ごめんな。でも、行けないんだ……」 それは、にもつらい選択だった。だって本当は見に行きたくないわけじゃない。むしろ、その逆だ。見に行きたい、みんなを――跡部を。 「サン、なにか予定でもあるん?」 「いや、そういうわけじゃないんだが――」 忍足の言葉に反射的にそう答えてしまってから、それが忍足の出してくれた助け舟だったことに気づいてももう遅い。 「じゃあ、来いよ」 睨みながらの跡部の言葉に、用事があるんだというもっともらしい言い訳は、もう使えない。 「ん、考えておく」 仕方なくその場を治めるために、はそう口にした。それなのに。 「来いよ、」 跡部は追及をやめない。この場で行くと約束させて、後に引けなくさせたいのだ。それが解っているからこそ、も答えられない。 「来い、――お前は、俺の傍にいればいーんだよ」 跡部の不機嫌そうな命令口調に、だけでなくテーブルにいたみなもその動きを止める。ジローですら、に回していた腕を外した。静かになったテーブルで、以外の全員が、その視線だけで次ぎのの動きを待っていた。 「行かないって言ってる」 が真っ直ぐに跡部と向き合いながら、淡々と答えた。 「! 何度も言わせるな」 跡部の口調が不機嫌さを増す。 「ぼくが見てなきゃ勝てないとでも言いたいのか?」 「そんなわけあるかよ」 「じゃあ、行かなくてもいいだろう?」 の言葉に、跡部はそれ以上なにも言い返しはせずに、舌打ちだけして立ち上がった。そして樺地にプレートを片付けるように言い残して、去ってしまう。残された場の空気は、重く沈んだままだった。 「ごめん、みんな――ぼくのワガママだ。見に行きたくないわけじゃないんだが――」 「気にすることないて。関東大会なんてええやん。全国大会に来てくれればええっちゅー話やし。それにサンにカッコええとこ見せたいんなら、これから俺と試合するか、ジロー? ああ、俺とやったら、カッコ悪いとこしか見せられへんか」 笑った忍足に、ジローが反論する間もなく、「ズルイ! 俺も試合したい!」と岳人が立ち上がる。結局、そのあと岳人とジローが試合することになり、もコート脇でそれを見ていた。お互い一歩も譲らず、昼休み終了のチャイムで引き分けということで決着をつけた。 それが、今日の昼休みのこと。 教室に帰ってからも不機嫌なままの跡部と特に会話することもなく授業は進み、そして、終了と同時に呼び出しがかかって、跡部は教室を出て行った。そこへ、忍足が姿を見せたというわけだった。 「じゃあ、サン――応援に来てくれるん?」 昼間の発言はやはりを庇ってくれたもので、忍足も本音では応援に来て欲しいと思っているのだろう。だからこそ、忍足には本当のことを言ったほうがいいのかもしれない。が迷っていると、忍足が続けた。 「無理はせんといて。会場には、去年のサンを覚えてるヤツも来てるやろうし」 「そんな……ぼくのことを覚えてる人なんていないよ」 そうは答えたものの、それもを思いとどまらせてる一因ではあった。 はほとんど誰にも言わずに部を去ったし、そして、誰にも連絡せずに戻ってきた。そんな去り方をして連絡が取りづらかったというのもあるし、卒業したら――また、ロンドンに戻ることになっているのだ。友達がいなかったわけでも、友達付き合いが嫌いなわけでもない。けれど一年にも満たない期間だけ戻ってきたことをわざわざ知らせたいと思えるほどの相手は、いない。 (ほんとに、跡部のことしか考えてないんだな、ぼくは――) 跡部には決して告げることのないだろう自分の本音に、は静かに苦笑しながら、足を止めて忍足に向き直った。 「忍足、誰にも言うなよ。ぼくが見に行けないのは――お前たちに嫉妬するから、だよ。この目も指もダメになっていなくても、ぼくが――跡部と同じコートに立つことはできなくなっただろうってことは、解っているんだがな」 「サン――」 は明るい口調で言ったのだけれど、やはり忍足は複雑そうな表情を浮かべていた。 「悪い。そんな顔しないでくれ。言ったろう? ぼくのワガママだって。きっと全国大会には、そんなどうしようもない未練はなくしておくよ。実は、関東大会もこっそり見に行くつもりではいたんだ――というか、いまでもそのつもりだ」 言われなくても、行くつもりだった。ただ、誰にも会わないように、スタンドの後ろのほうからこっそり見ようと思っていたのだ。とて青学対氷帝などという決勝戦のような好カードを、見逃したくはない。けれど「行く」とはっきり言ってしまったら、会場でみなに声をかけられてしまうだろう。そのとき、いつもと同じような笑顔を見せられる自信が、にはなかった。それだけのことだった。 「ほんとにワガママだろう? 呆れたか?」 が笑って見せると、ようやく忍足も笑い返した。 「せやな。そないにあんなヤツがええのんかと思うと、呆れるわ」 そうして笑いながら歩き出したふたりだったが、すぐに忍足の足が止まった。 忍足が足を止めたことに気づいて、もそちらへ視線をやる。そして――の動きも止まった。 「――ほんとに帰ってたんだな」 どうしてここにという疑問すら、は口にできなかった。 「部長……」 隣で忍足が驚いたようにそう呟いた。 ふたりの視線の先にいたのは、跡部ではない。それは跡部の前の――去年の氷帝テニス部の頂点にいた男だった。 |