きみのなみだにくちづける(前編)
関東大会初戦――試合開始時間ギリギリには行くつもりだった。
氷帝のテニス部員たちが応援するためにコートの周りをぐるりと取り囲むので、彼らがすべて位置についたあたりで、空いている場所を探すつもりだった。氷帝コールが始まればみなの視線はコートだけに向いていて、ベンチにいる人間になど見向きもしなくなるだろうから。 「見に行かない」と宣言してしまった手前、あまり堂々と姿をあらわすのは嫌だったし、それにもともと、こっそり見るつもりだったのだ。 私服ではなくあえて制服を着てきたのもそのためだ。氷帝の一般生徒もかなり応援にくるはずだから、私服でうろうろするよりも、違和感なく集団に溶け込める。 すべての予定通りのはずだったのに――電車の乗り継ぎもよく、さらにバスの増便が出ていたことは計算外だった。結局試合開始十五分前に会場に着いてしまったのだが、どこかで潰すにも微妙な時間だし、そろそろ選手たちも会場にいるだろうと判断して、そのまま向かうことにした。だからまさか、ゆっくりと歩いていたを、楽しそうな声を上げながら追い越していこうとしている集団が見覚えのある青と白のジャージを着ていたことには、少なからず驚いた。 (青学? なんでこんな時間にこんなところに――) 大石の件でギリギリの選手登録をすませ、コートへ向かっていたところなのだが、が知るわけもなく。 は顔を伏せて、ことさら歩みを遅くしながら彼らが通り過ぎてしまうのを待った。 「お、あいつ氷帝じゃん!」 小さくしようとしているのだろうが、隣を歩いている仲間に教えようとしている声が、の耳にも届く。氷帝の制服を着てきてしまったことが裏目に出てしまった。 だがいくらこれから戦う相手と同じ学校だからといっていまはテニス部ではないのだし、なにか文句をつけられる筋合いもないはずだ。彼らとて、ただ見たままを言っただけだろう。だって別に気にすることはないはずなのだが、やはり気まずさはあった。ただ早く行ってしまえばいいと思いながら、彼らのほうを見ずに足を動かしていた。 遠ざかっていく足音に、がほっとしかけたときだった。 「すみません、氷帝学園のさん――ではないでしょうか?」 「え……?」 気づかなかった――静かにの前に立っている長身の人物を、は信じられないものを見るような目で見返していた。 「手塚、くん?」 が思わず名前を口にすると、手塚がきっちりと身体を折って頭を下げた。 「はい、お久しぶりです。青学の手塚です」 手塚越しに、ほかの青学のメンバーが歩いていくのが見える。どうやらわざわざ手塚だけ戻ってきたらしい。 「手塚くんに覚えていてもらったなんて、光栄だな。去年の、うちの部長を倒した試合は見事だったよ。よく覚えてる」 昨年の都大会で青学と対戦した――シングルス3で出場した手塚は、当時の氷帝の部長を相手に、かなりの激戦になったとはいえ勝利した。跡部ですらなかなか勝つことができずにいた前部長に、同じ二年である手塚が勝ったことは、跡部が強く手塚をライバル視する要因でもあるだろう。 二組のダブルスと前部長で決着がつく予定だった試合に、シングルス2で登録されていたも出場することになり。そこでは、跡部に言われたのだ。 『勝ってくださいよ、先輩――俺のために』 は、いままでにない集中力で戦い、氷帝の勝利を決めた。 「いえ、さんこそ、昨年のうちの部長との試合は見事でした。全国大会には出場されていなかったので、どうされたのかと思っていたのですが」 「ああ……」 将来を有望視されている選手ならともかく、準レギュラーだったが転校しても、怪我をしても、それは噂として流す価値があるものではない。 「実は――事故でね。指と目をケガして、もうテニスはやってないんだ。おかげでまだ中等部だしね」 は右手でシャツを軽く引っ張って見せた。といっても、ジャケットを着ていないいま、高等部との差はエンブレムとネクタイの色くらいなので、他校の生徒にはあまり解りにくいのだが。 「それは――残念です」 手塚の低く静かな声に、は試合前にこんな話をしていることを申し訳なく思う。だからこそ、きちんと笑顔を作って、手塚を見上げた。 「悪いな、イヤな話をして。でも、こうなってみて解ったんだが――ぼくは試合をするより、子供達に教えるほうが楽しかった。負け惜しみだと思われるかもしれないが、ぼくは勝利を得るより、楽しむほうが性に合ってるみたいだ」 「――いえ」 手塚も、真っ直ぐにを見下ろしていた。こんなふうに人を正面から見ることのできる人間は、やましさなど持たない、強い人間だと思う。なぜならは、そういう相手をよく知っているのだから。 「でも、きみや――跡部は違う。試合中のギリギリの緊張感のなかで、さらに上を目指していけるはずだ。ぼくの立場から頑張れとは言えないし、聞きたくもないだろうが、悔いのない試合をして欲しいと思ってる。きみにも、跡部にもね」 勝つか負けるか――どんなに優れていても、最終的にはそのどちらかになってしまう。それは、決して変えることのできない現実だ。 「――ありがとうございます。では、お先に」 手塚は再び頭を下げると、遠くなってしまった仲間を追って走り出した。交わした言葉数は少なかったが、余計に彼の誠実さを実感できた。去っていくその背にも迷いはなく、やはりがよく知っている人物とその本質が似ている気がした。 コートへ降りていく青学の選手たちが見えなくなるまでその場に留まってから、もコートを目指して再び歩き出した。 氷帝コールが聞こえてくるなか、ゆっくりとコートへ近づく。 二面あるコートはぐるりとフェンスで囲まれており、その片面にすでに忍足と岳人がいた。青学のサーブで試合が始まり、氷帝コールが増すなか、はあえて氷帝側のベンチの中段あたりに空いている場所を見つけて腰を下ろした。いちばん上のほうにぽつんと離れて座ると、かえって目立つことになりかねない。 そしては、すべての試合を静かに見つめていた。 岳人の体力が落ちて負けてしまったダブルス2も。信頼関係の強さを見せつけて勝利を掴みとったダブルス1も。シングルス3では、限界に挑んだその覚悟に、気がついてみれば痺れていたほど強く手を握り締めていた。 シングルス2の慈朗は、結果こそ負けてしまったけれど心から楽しんでいると解るそのプレイに、も自然と笑みを浮かべていた。 そして迎えた、シングルス1。氷帝コールが一際大きくコート中に響き渡る。 初球から、お互いに一歩も譲らない攻防が続く。スコアが15-15になったところで、跡部が手塚になにか言っているのがにも見えた。のいる場所からではなにを言ったのか聞き取ることはできなかったが、青学のベンチのほうが一瞬騒がしくなったのは解った。 結局そのゲームは手塚がとり、ゲームカウントは2−3と、跡部が押される形にまでなっていった。周囲のベンチからは跡部の劣勢を嘆くような声が聞こえていたが、はただ跡部だけを見ていた。跡部の顔に浮かぶのは焦りなどではなく、揺るぎない勝利を確信するかのような笑みだ。 (なにを考えている――?) の疑問は、チェンジコートのあと、絶好のチャンスで跡部がスマッシュを打たなかったことで答えを得た。 (持久戦にするつもりか。手塚くんには、どこか故障が……?) 「景吾――、きみは、なんて……」 思わず口にしていたの言葉は、周囲の歓声に消されてどこにも届くことはなかった。 注:ホントは去年青学の部長に勝ったのは跡部で、結果も3-2です。 |