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「三日間だけ、俺のために予定を空けてくれないか?」
 夏休みも終わりに近づいていたある日の午後、突然のマンションに現れた跡部はそう言った。
 なぜ――と問うよりも、跡部の口から出たのが命令ではなく頼みだったことに驚く。そのいつになく必死そうなその表情にも。
「解った。で、いつから――」
 なにをしたらいいんだと尋ねようとしたを余所に、跡部はズカズカと部屋のなかへ上がりこむ。
「おい、景吾――」
 慌てて追うと、すでにの部屋を知っている跡部は寝室へ入り――クローゼットの扉を開けていた。
「着ろ」
 跡部が投げて寄越したのは、薄い麻のジャケットで。
「もしかして――」
「いますぐ出る」
 昼食を済ませていたのは幸いだ――どうやら、かなりの強行軍になりそうだなと呆れながら、は大人しくジャケットに袖を通した。
 けれど次の瞬間、は詳しく聞かずに承諾したことを完全に後悔した。
「おい、――パスポートは、どこだ?」

     *     *     *

 当然のように、連れて行かれたのは成田空港で、跡部はの分とふたり分のパスポートを待機していた人間に渡すと、すぐに手続きを済ませる。出国ゲートを抜け、VIP用のラウンジへ行ってようやく一息ついた。
「景吾――どこへ向かうのか、聞いてもいいか?」
 黙ったままの跡部に、は静かに尋ねた。
 初めは――こんな強引に連れてこられたことに腹立ちも覚えたが、跡部の様子がいつもと違っていることで、そんな感情も消えてしまった。
 一見、いつもの跡部景吾だった。尊大で、余裕たっぷりの自信家――けれどその余裕が、きょうは感じられない。ピリピリと張り詰めているような、苛立ちさえ感じられる。
「アテネ――ギリシャだ。母方の親戚のじーさんの、誕生パーティーなんてもんに、でねぇといけなくなってな」
「誕生パーティー……それに、ぼくなんかが行っていいのか?」
「ああ。服も用意させてある。心配すんな、ひとりくらい増えたって変わんねぇよ」
 心配しているのは相手先の事情ではなく、跡部のことなんだがなとは思ったが、口にすることはなかった。

     *     *     *

 約十時間のフライトのあと、アテネのエレフテリオス・ヴェニデロス空港に到着した。
 待っていたリムジンに乗り込んでからは、もうもどこへ向かうのか尋ねなかった。跡部の周囲にある張り詰めた空気はなくなることなく、増していたから。
 三日間――跡部ははっきりとそう言ったのだから、なにも聞かずに跡部に従おうとは決意した。
 だが「着いたぞ」と言われてリムジンから降り、目の前に広がっているものを見たとき、さすがにも驚きを隠せなかった。
「ちょっ、景吾! こ、これは――」
 城のような豪邸に連れて行かれても驚かないと思っていたの前にあったのは、巨大な客船だったからだ。
「ここが会場だ。行くぞ」
 入り口には警備員がいて、簡単なボディチェックを行っているようだったが、跡部と、跡部のあとについていったはノーチェックで、部屋へと案内された。
 部屋は窓から海が見える広々としたツインルームだった。
「悪いが、先にシャワーを使わせてもらう。クローゼットに服が用意してあるから、サイズをチェックしておけ。靴も――ああ、そこにあるな」
 シャワールームへと消えた跡部を見送ってから、軽くため息をついてはクローゼットに近づいた。そこに用意されていたのは、予想通りサイズの違う黒いタキシードだった。
 もちろん、こんな豪華な客船で行われるというパーティーに、平服で参加できるはずもないのだから、このくらい用意してもらわないと困るのだが。
「遠くまで、来たな……」
 小さいほうのタキシードに手を伸ばしたは、窓の外、水平線に広がる雲が紅く染め上げられている空を見ながら、呟いていた。

     *     *     *

 跡部のあとにシャワーを使わせてもらい、タキシードに着替えたふたりは、バンケットルームへと向かった。絢爛な会場には、すでに五百は越えるほどの人数が集まっていて、グラスを片手に談笑していた。
「ぼくは、どうしていればいい?」
 さすがにその雰囲気に圧倒されて、は跡部に尋ねた。
「なにも――ただ俺の傍にいろ。挨拶なんかは俺ひとりで行く。適当に食事してろ」
 解ったと頷いて、は近づいてきたボーイからオレンジジュースのグラスを受け取った。跡部が手に取ったのは赤ワインだったが――ここでは未成年を注意するような人間はいないだろう。
 どこか壁のほうへ移動しようとしたとき、跡部の肩を壮年の男性が叩く。英語で話しはじめた男性は跡部の父親の知り合いらしく、は跡部に目配せして、ひとり壁のほうへ移動した。
 とりあえずの居場所が決まったことにほっとして、はグラスに口をつけた。酸味の少ないオレンジジュースは甘すぎず、疲れた身体にぴったりだった。
(疲れてる――よな。景吾だって、疲れているはずなのに……)
 ファーストクラスは快適だったが、不安と緊張と、隣で眠る跡部のことが心配で、はろくに眠ることができなかった。もっと狭いシートなら、客室乗務員の目を気にせずに、跡部へ手を伸ばすこともできたのに。
 隣で目を瞑っていた跡部は眠っているように見えたが、ただ目を閉じて休んでいるだけだとには解った。眠っているような無防備さは、まったく感じられなかったから。
 が不安だったのは、この先になにがあるか解らないからではなかった。跡部を――あの跡部をこんなふうに緊張させているものがこの先にあることが――怖かった。
 けれど跡部は、そんなことは微塵も感じさせないまま、他人と話をしていた。すでに話す相手は老婦人へと移っている。
 これだけ華やかな装いをした人間が集まっているなかでも、跡部は一際目立っていて見つけやすいのは、の欲目ではないだろう。
(あ――……)
 老婦人から解放されたと思った跡部に話しかけたのは、胸元のあいたカクテルドレスを着た女性で。
 やがて次から次へと綺麗な女性が集まってきて、跡部は囲まれていた。
 そうなって当然の光景だ――それこそ、解っていたはずなのに。はやりきれない思いを抱えながら、手にしていたジュースを飲み干した。
 不意に、の脇に人影が立った。
「こちらのオレンジジュースは美味しいですよね。もう一杯いかがですか?」
 男の言葉が日本語だったことに、は驚いていた。