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 が顔を上げた先にいた人物は、確かに日本人に見えた。二十代前半くらいの、すこし長めの黒髪を後ろでひとつに結わえた彼は、眼鏡こそ掛けていなかったが、忍足に雰囲気が似ている気がした。人当たりの良さそうな笑みを浮かべているが、決してそれだけの人物だと思わせないところが。
 戸惑っていたの手から、彼は空のグラスをひょいっと取り上げると、通りかかったボーイに手渡し、新たにオレンジジュースが注がれているグラスをふたつ手に取った。
「どうぞ」
 差し出されたそのグラスを、受け取らないわけにもいかなかった。
「どうも」
 は彼の手からグラスを受け取ったが、口はつけずに手で持ったままにしていた。にグラスを渡したあと、彼は当然のようにの横に立ち、立ち去る気配はなかった。
「きみ――、あそこにいる跡部くんと一緒に来たよね?」
 急に砕けた言葉遣いになって、彼は訪ねてきた。ああ、やはりそれが目的かとは思う。知り合いなどいないこの場所で、誰かがに声を掛けてくるとしたら、それしか理由がないのは解りきっている。
「ええ」
 相手は知った上で尋ねてきているのだから、否定しても仕方がないだろう。次は跡部のことをあれこれ聞くのか、跡部に紹介してくれというのか――どちらにしろ、なにも答える気はないと身構えていたに、彼はまったく別のことを告げた。
「きみも氷帝学園? ぼくは、高瀬頼人。ぼくの弟もテニスやってて、関東大会も出てたっていうんだけど、知らないかな?」
「え――……」
 拍子抜けして、は顔を上げる。もそれなりに参加選手のことは調べていたが、高瀬という名字にすぐに思い当たる人物はいない。
「すみません、どちらの中学校ですか?」
「埼玉の緑山中。弟は聖人っていうんだけど――ごめん、全国大会には出られなかったみたいだから、知らないよね」
「緑山中? 季楽プロがコーチをなさっている――」
 関東大会で氷帝を破った青学が、二回戦目で戦った相手だ。
 そう! と彼は笑顔で頷いてジュースを飲んだ。
「そういえば……」
 氷帝が青学に勝っていたら対戦していたはずの相手だ。も多少のことなら調べていた。季楽プロの息子を筆頭に二年生が中心のチームだったはずだ。そのなかに、高瀬という名字の選手がいたような気がする。
「氷帝と直接対戦することはなかったので、はっきりと覚えてはいないのですが……」
「あ――いやいや。変なこと聞いて、ゴメン。うちの弟は特に強いってわけじゃないし。驚かせてしまったよね。久々に日本人がいるなーと思って、つい日本語で話がしたくなっちゃって」
 最初から跡部の名を出して話しかけてきたというのに、いまさらそんなことを言う彼に、やはり少し不信感を覚える。
「跡部――くんとは、お知り合いなんですか?」
 彼に跡部との関係を不必要に悟られないよう、彼と同じ呼び方をした。
「違う違う。でも、ここにいる人の九割は、跡部くんのことを知ってるよ。いや――十割かな。なんてったって、ギリシャが誇る海運王が、いま一番目をかけている曾孫だからね」
「え――」
 海運王? 曾孫……?
 彼が口にした聞き慣れない言葉を理解するのに、は少し時間がかかった。
『母方の親戚のじーさんの、誕生パーティーなんてもんに、でねぇといけなくなってな』
 飛行機に乗る前に跡部がそう答えたのを思い出す。
 こんな豪華客船を借り切ってパーティーをするくらいの相手だ。ただ者ではないと思っていたが、それは跡部の曾祖父だったとは。
「ほら、今夜の主役のお出ましだ――」
 高瀬が指さしたほうを見ると、杖をついた初老の紳士が、背後にSPのような大男を二人従えて入ってきたところだった。
 その瞬間――各々の談笑でざわついていた会場内が静かになり、スッと波が割れるように自然と中央に通路ができていた。
 この会場にいるすべて、五百人近い人々が、一斉に彼へと視線を向けているのが解る。なによりもが驚いたのは、ステージに立っているわけでもないその老人が、この広い会場を一瞬にして支配していると思わせる、その強大な存在感だった。
 特に仕切られているというわけでもないのに、一定の間隔をもって作られたその通路を、老人がゆっくりと進んでゆく。静かになっていた会場も、自然とわき上がった拍手に包まれていた。
 も、とりあえず近くにあったテーブルにグラスを置いて、拍手をしながらその光景を見ていた。
 彼が近くを通っても、客が彼に駆け寄るといったことはなく、一定の距離を保ったまま彼に声をかけているようだった。だがその老人は、ひとりの人物の前で足を止めた。なにか話をしているようだったが、の場所までその会話が聞こえてくるはずもなく。ただ、その話している人物が誰なのかは、にも解りすぎるくらいに解っていた。
(景吾――!)
 気のせいではなく、拍手の音がまばらになっていた。まるで景吾と老人の会話をみなが聞こうとしているかのように。の手も、いつの間にか止まっていた。
「やっぱり噂は本当だった、かな」
 呟かれた高瀬の言葉に、はなにかひどく不吉なものを感じた。けれどだからこそ、尋ねずにはいられなかった。
「噂って、なんのことですか?」
「ん――、そっか、きみは知らないのか。ってことは、跡部くんが教えなかったんだね。ぼくが教えていいものかどうか迷うけど……でもまぁ、ここにいるほとんどの人が知ってる話だから、ぼくが教えなくてもいずれは知ることになるだろうし、問題ないのかな」
 まるで知らないのはだけと言わんばかりの彼に、不審が募る。もし跡部がの耳には入れたくないと思っている話なら、聞かないほうがいいのではないかと思ったときだった。
「このパーティでね、彼が自分の後継者を指名するって噂があるんだ。その最有力候補が――跡部くんだよ」
「え――……」
 文字通り、は言葉に詰まった。
(後継者……? 景吾が? まだ、中学生なのに――)
「もちろん、彼には息子も、孫も、曾孫も――跡部くんの他にもたくさんいるよ。ぼくをここに招待してくれたのも彼の曾孫で、いま同じ研究室にいるんだけど――」
 高瀬の言葉は、もうの耳に入ってはこなかった。は、ただ跡部を見ていた。いくら広い会場とはいえ、その姿は見えているのだ。駆けていけば、触れられるはずだ。けれど――そこには見えない壁が存在していた。が、近づくことのできないなにかが。
(けい、ご……)
 の視界が、グラリとゆがんだ。