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「大丈夫?」
 すかさず伸びてきた高瀬の腕に肩を支えられて、は倒れずにすんだ。
「すみ…ません……」
 なぜだろう――支えられて俯いているせいなのかもしれないが、足下が揺れているようで、気持ちが悪い。
「……急に、気分が……」
「ああ、船酔いしたのかな? このくらい大きな船になると、ほとんど揺れは感じないんだけど。疲れてたり、あまり眠れなかったりすると、やっぱり酔うこともあるからね」
 確かに、ファーストクラスでの快適なフライトだったとはいえ、始終不安と緊張が続いたのだ。疲れているせいで、酔ったのかもしれなかった。
「大丈夫? 壁に寄りかかって――」
 高瀬の腕に促されて、は壁にもたれかかって目を閉じた。けれど頭の奥がぐるぐると回っているような感覚は、ひどくなるばかりで。
「よかったら、これを飲むといいよ」
 聞こえてきた高瀬の声に、は薄く目を開いた。差し出されていたのは、銀色のパッケージに包まれた錠剤だった。
「塩酸ジフェニドールだよ。めまいの薬だけど、酔い止めにも効くから。眠気もおきにくいしね」
 もちろんには聞き覚えのない薬だった。いくら気分が悪いとはいえ、いま会ったばかりの人間が差し出してきた、よくわからない薬を口にするのは躊躇われた。けれど高瀬は手際よくボーイを呼び止め、冷たい水を持ってこさせる。
「ぼくも乗り物酔いがひどくてね。念のためにと思って持ってきてたんだけど、役に立ってよかったよ」
 用意されたグラスと、すでにの手に押し出された錠剤。断ることはもうできず、は薬を口に入れると、冷たい水でそれを飲み込んだ。
 水の冷たさが胸の奥を冷やすようで、すこしだけ気分が楽になった。
「ありがとう、ございます……」
 顔を上げたが、高瀬に礼を口にしたときだった。
「――なにをしている?」
 聞き間違えるはずのないその声は、低く、不機嫌だった。
「けい――」
 その名を口にしようとして、高瀬の前だったことを思い出したは口をつぐんだ。
「やぁ、跡部くん。こんばんは、ぼくは高瀬といいます。彼が船酔いしたようなので、いま薬をね」
「そうですか、ご丁寧にどうも。あとは俺が引き受けますので」
 に変わって跡部に声を掛けた高瀬に、跡部が答える。その口調は丁寧ではあったが、有無を言わせない強引さがあった。
、歩けるか?」
 支えるように肩に腕を回してきた跡部に、は頷き返す。高瀬に向きなおって軽く頭を下げると、彼は「お大事に」と軽く手を振った。
 そのまま、は跡部に寄りかかるようにして歩きながら、客があふれるホールをあとにした。
 気力を振り絞って、なんとか跡部の歩く速度に合わせていただったが、廊下をしばらく進むうちに、足がおぼつかなくなってきた。
「……まっ、て――けい……」
 もう少しゆっくり歩いてくれと言う前に、の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちてしまう。
「おい――」
「ご、めん……」
 立ち上がらなければと思うのに、足に力が入らない。
 の頭上で、チッと跡部が舌打ちしたのが聞こえた。それはひどく冷たく、の胸に突き刺さった。
「掴まってろ」
 ぶっきらぼうな声と共に、は跡部によって抱き上げられていた。
 の身体を軽々と抱きかかえながら、跡部は急ぐように廊下を歩き続ける。
「……ご、めん。めいわく、かけて……」
 哀しかった。
 言われて、ついてきたものの、跡部の役に立つどころか、こうして迷惑を掛けることしかできないなんて。
 だからと言って「放っておいてくれ」とも「帰る」とも言えない。それを口にしたって、その後自分でできることはひとつもなく、跡部の手を余計に煩わせることにしかならないのだから。
「いや――」
 耳元で聞こえてきた跡部の返答は、跡部らしくなく――ひどくぼんやりしたものだった。
(やっぱり、景吾も後悔してるんだ……)
 きっと明日には、一人で日本へ戻ることになるのだろう。だが、そのほうがいい。なにもできない自分が、跡部のそばにいてはいけないのだ。
(ごめん……)
 そう思いながらも、再びその言葉を口にしたら、泣き出してしまいそうだった。そんなことになれば、もっと跡部に嫌われてしまうだろう。
 抱き上げられ、触れている身体から跡部の体温は伝わってきて、このまま自分の両腕を回してギュッとしがみつきたい衝動に駆られる。けれど手を動かすことができないのは、気分が悪いせいではなかった。
 やがて跡部の足が止まり、客室に戻ってきたことを知る。奥の寝室に運ばれ、ベッドへと降ろされた。
 跡部の腕に背中を支えられたまま、タイを外され襟元を弛められる。そのまま、の上着を脱がせてゆく跡部の手際の良さに、は引っかかるものを感じた。跡部のような人間が、他人の服を脱がせるのに慣れていることの意味は、ひとつしかない。しかも、ここはベッドの上なのだから。
 ゆっくりと肌触りのよいシーツの上に横たえられ、身体は楽になっているはずなのに、離れてしまった温もりが寂しく、怖かった。
「すこし横になってろ」
「うん――」
 跡部の顔を見ることができず、左腕で顔を覆いながら、は頷いた。
「……なんの薬飲まされたか、解るか?」
 パーティーの喧噪も、波音も聞こえない。静かな室内で、跡部の言葉だけが響く。
「めまいの、薬だとか言ってた……酔い止めにも、効くからって……」
「船酔いしたのかよ」
「ん。そう、みたいだ――」
 静かだからこそ、跡部のため息までしっかり聞こえてしまう。
「他人に渡されたものを、ほいほい口にするんじゃねーよ」
「ごめん――」
 それについては確かに、自分でも軽率だったと思う。いくら気分が悪かったとはいえ『アレルギーのある薬もありますので』などと断ることはいくらでもできたはずだ。
「で? どうなんだ、気分は?」
「ああ……だいぶ、落ち着いてきた」
 確かに、身体は楽になってきていた。けれど、心の不安は増すばかりで。
「そうか、じゃあこのまま寝てろ」
 言葉と共に、跡部が離れてゆく気配を感じ、は思わず手を伸ばしていた。
「待っ――」
 振り返った跡部の驚いた表情に、は自分の失態を知る。
「ご、ごめ――」
 慌てては跡部から視線を逸らし、寝返りを打った。
「もう大丈夫だから、静かに寝てることにするよ。手間取らせて悪かった」
 これ以上、跡部の負担にはなりたくない――は早口でそう言うと、目を閉じる。
 そしてただ、跡部の靴音が遠ざかるのを待っていた。