きみのなまえをくちにする 3




 話しかける者がいないからといって、クラスメイトがに無関心だったわけではなく、その逆だった。跡部のこともあるし、関心がありすぎて、なにから話せばいいのかのきっかけを掴めないというような状態が続いていたのだ。
 だから偶然にも昼休みにが音楽教員室へ入っていくのを見た者はそれをすぐ話題にしたし、瞬く間にクラス中に拡がったし、やがて当然のように跡部の耳にも入った。
 昼休みを告げるチャイムが鳴り、挨拶をすませ机の上のものを片付けると、紙袋を手にしたが廊下へと出て行く。跡部は周囲の喧騒を余所に、ひとりその後を追った。
 本館と特別教室棟を繋ぐ渡り廊下を過ぎ、人影がなくなったところで、跡部は声を発した。
「おい、いい加減に気づいてんだろーが」
 は足を止めた。もちろん、跡部がついて来ていることなど最初から気づいていた。
「人に声をかけるなら、それなりの言い方があるんじゃないか?」
 振り返って静かに言ったに、跡部はチッと舌を鳴らし、顔を背ける。
「どこ、行くんだよ?」
 を見ないまま、跡部は言った。
「どこへ行こうとぼくの自由だと思うけど」
 売り言葉に買い言葉でそう答えて、は悔やんだ。去年ここを去ったことも、そう思ってしたことだと思われるのではないかと。知らずには辛そうに目を細めて俯いたのだが、視界に入れるのも厭だというような態度で斜めに構えていた跡部は気づかなかった。
「――目障りなんだよ」
 忌々しげに告げられた言葉に、は右手をギュッと握り締めた。
 いまさら――いまさら跡部にどう思われたって、変わりはしないのだ。
「きみの目の届かないところに行こうとしているのに…?」
「監督のところに通ってるそうじゃねーか」
「氷帝学園の一生徒として、音楽教師と親しくするのがいけないことなのか?」
 のその言葉に、跡部はようやくその向きを変え、正面からを睨みつけた。は怯むことなく、真っ直ぐに跡部を見返している。
 やがて、先に目を逸らせたのは跡部のほうだった。
「クソッ! なんで帰ってきやがったんだ――」
 はき捨てるように言って、跡部は背を向けて去った。残されたは、廊下を曲がる跡部が見えなくなるまで、ずっとその背中を眺めていた。足音も聞こえなくなってから、ようやく掌の力を抜く。そのまま、身体中から力が抜けていくようで、は壁に肩を預けた。
「ほんと――なんで、帰ってきたんだろうね……」
 呟いたの瞳から、涙があふれ、零れた。


 氷帝学園に転入してから一週間が過ぎていたが、はまだどこの部活にも所属していなかった。見学中ということになっていたが、実際にがどこかのクラブ活動を見に行ったことはなく、放課後はいつもすぐに帰宅していた。
 昇降口を目指し歩いていたの前を、ひとりの生徒が塞いだ。
先輩――もう帰るん?」
「忍足……」
 前方を塞がれては止まるしかなく、は驚かされたことで少しだけ不機嫌そうにその人物の名前を呼んだ。
「部活は? きょうは岳人は一緒じゃないのか?」
 忍足も岳人も、が転入した初日に揃ってその姿を見せた。おかげで岳人は、跡部に怒鳴られたいちばん最初のテニス部員になったのだが。
「先に行かせたわ。先輩、ちょお話したいことあるんやけど、ええ?」
「ここじゃできない話か?」
「まぁ、人目につかんほうがええなぁ」
「――どこがいいんだ?」
 そう答えることで承諾の意を示す。
「せやな……」
 歩き出した忍足に、も並んだ。掃除していたり、委員会が行われていたり、クラブ活動で使用されていたり――この時間に空き教室はなさそうだった。結局ふたりが向かったのは本館の屋上だった。新館の屋上のほうには女生徒が数人、運動部が活動を始めようとしているグランドを見るためか集まっていたが、ここには誰もいなかった。
 その新館の屋上にいる生徒からは死角になる場所を選んで、忍足は進んだ。
「ここも、久しぶりだ。変わってないな――当たり前だろうけど」
 周囲を見回しながら、が静かに言う。けれど忍足には、その声は自嘲的に響いた。
「で――なんだ?」
 立ち止まって振り返った忍足に、フェンスに寄りかかっては言った。をじっと見つめていた忍足が答えるのに、少しの時間があった。
「先輩が戻ってきたて聞ぃたときから、おかしぃて思うとったん」
 忍足の声が低く、ゆっくりと告げる。
「なんで高一やないんやて。ココは海外留学も学歴に認められとる。それに――金積めば大概のことは許されるしなぁ」
 そう言って、忍足は一歩の前に近づいた。が顔を上げた、その瞬間――忍足が右手の拳を振り上げた。
「――その左目、ほとんど見えへんのと違う?」
 振り上げられた忍足の拳は、の左目の直前で止められていた。微動だにしなかったは、忍足の言葉に、二、三度ゆっくりまばたきを繰り返してから、言った。
「いや……ときどき、焦点が合うのに時間がかかるだけだよ」
 淡々と呟くように言いながら、は眼を閉じてしまう。
「この眼鏡も度入ってへんしなぁ……」
 拳を広げた忍足の親指が、そっと眼鏡の向こうのの目元に触れる。よく見ないと分からないほどしか残っていない傷跡を、忍足の指はゆっくりと撫でていった。
「いつ――?」
 低い声で、忍足が囁いた。
 初日に会いに来た忍足が、なにか言いたげに自分の顔を見ていたことには気づいてはいたのだけれど、確証はなかった。だから表情を隠すためにも眼鏡をかけてみたが、やはり解る人間には解ってしまうらしい。
「留学してすぐ――強盗にね、切りつけられて」
 の言葉に忍足の手は止まり、ゆっくりと離れていく。
「よく、無事やったな……」
「うん、ぼくもそう思う」
「まさか他にも――」
 はっとして問う忍足に、は瞳をゆっくりと開けて、微笑んでみせた。
「いまは普通の生活ができるんだから、他言無用だよ、忍足」
 それは忍足にも見覚えがある――一年前、なにかと不機嫌になる跡部を諭していたときの、あの笑顔だった。そんなふうに微笑まれて、これ以上聞ける人間がいたらお目にかかりたいと忍足はうな垂れる。
先輩、めっちゃ卑怯やわ……。性格、良くなったんと違う?」
「どうかな…? それより、もう同じ学年なんだから、先輩はいらないだろう?」
「じゃあ――サン? なんや慣れんで呼びにくいわ。せやな……サン、なんて新鮮やけど?」
「好きにしろ」
 笑いながらフェンスから身体を起したが、ふと背後を見る。
「忍足……」
「ん?」
 がフェンスの向こうを見ているのに気づき、忍足も横に立ってその視線の先を探る。
「げぇ!」
 忍足が妙な声を上げたのも当然だった。そこには特別教室棟の窓がずらりと並んでおり、その最上階にある窓のひとつから、この屋上を見上げていた榊太郎と目が合ったのだから。
「まさかずっと見られてたんか……」
 届くはずもない忍足の呟きが聞こえたかのようなタイミングで、榊の右手が上がる。二本の指先をスッと指し示して。
「い、行ってよし……やん」
 笑いを堪えるようにプルプルと震える忍足の横で、がきちんと頭を下げていた。驚いた忍足が再び榊を見ると、榊は満足したように頷いて、窓から離れていった。
「……お前のせいで、明日からは美味しいコーヒーがなしになったぞ」
 榊の態度も、の言葉の意味も忍足には解らなかったが、恨めしそうに言われたことだけは理解できた。
「ほんなら明日の昼メシのコーヒーは、俺ん奢りや、サン」
「明日だけか?」
 は笑って、歩き出した。
「ほら。早く部活行かないと、お前も怒鳴られるぞ」
 に続いて、忍足も歩き出す。
「きょうは大丈夫なんや――生徒会の集まりがあるん」
「さすが天才は抜け目ない」
「よぉゆうわ」
 ふたりは笑い出し、そしてどちらからともなく「また明日――」と言って別れたのだった。