きみのなまえをくちにする 4




「どこまで行くつもりだ、忍足?」
 次の日、四時間目の授業はあいにく特別教室棟の授業で、ほとんどの生徒がそのまま学食やサロンへ移動していくなか、はひとり教室へ戻った。それそれが昼食のために移動しているそのなかで、窓を背に廊下にたたずむ忍足は特別に見えた。
『コーヒー奢る約束や』
 の姿を見つけるなりそう言って笑った忍足に促されるまま付いてきたのはいいが、本館を抜けたいま、向かっている先はひとつだ。
「忍足、まさか……?」
「誰にも邪魔されん場所でゆっくり食いたいやん」
 忍足がポケットから取り出して揺らして見せたのは、鍵で――そして、たどり着いたのは、部室棟だった。
「なんでお前が鍵を――」
「いまここの鍵を持っとるんは、俺と監督なんや。生徒会長もやっとる多忙な部長さんは、毎回先に来て開けるなんて無理やろ? ま……やっとらんでも、いちばん最初に来るなんてありえへんしな」
 部室の前にたどり着いた忍足が、その鍵を使って扉を開ける。
「どうや、サン――驚くで」
 言われて足を踏み入れたそこは――が知っていた部室とはまるで違っていた。
「壁なんてなかったのに――」
「去年の十月に改装したん。まぁ要するに、跡部の指示と――資金でな。いまは正レギュラー専用や」
 左側のパソコンルームや奥のトレーニングルームの扉を開けてみせる忍足に、は少し真面目な顔で言った。
「……部外者が入ったのが知れたら、困るのはお前だぞ?」
 がなにを心配しているのか、分からない忍足ではない。
「ゆうたやん。ここの鍵持っとるの、あとは監督だけや。ま、俺も私用で使うんは初めてやけど」
「どうだかな」
 悪戯っぽく笑う忍足に、も笑って返した。けれど、ようやく聞き取れるほどの小さな声で、呟いた。
「でも……人目を気にしなくていいのは、ありがたいな」
 その言葉に、忍足がスッと扉の前に移動する。
「――これで完璧や」
 明るい声でそう言うと、忍足は内鍵を回した。そしてパソコンルームのほうへ移動する。
「ま、流石にお湯は出ぇへんけど、変わりにこんなんあるしな」
 言いながら忍足が取り出してきたのは電気ポットとミネラルウォーターのペットボトルで。
「インスタントやけど、コーヒー奢るで」
「さすが――」
 の言葉を、忍足が遮った。
「“抜け目ない天才”やろ?」
 ふたりで笑い出し――は、安心したように八個並ぶ椅子のひとつに腰を下ろした。
 やがてコーヒーをふたつ入れた忍足が、の前に座り、持参した重箱の弁当を広げる。対するは――相変わらず紙袋からサンドイッチを取り出した。
「そういえば、サン……来週の球技大会はどないするんや?」
 食事の途中で、思い出したように忍足が言った。
「出ないわけには、いかないだろうな」
「……大丈夫なん?」
 目のことは、教師でもごく一部にしか知らせていないことで、生徒で知っているのは間違いなく忍足だけだ。人目があれば、できない話だった。
「野球は――ボールが小さくて移動距離が長いから、難しいかもしれないな。残るはバスケとバレーか。ただ、バスケはドリブルできるかどうか……サッカーがあれば、まだよかったんだが」
「野球かサッカーかの一面しか、校庭は使えへんしなぁ……」
 そういった忍足が、ふっとその視線を下げた。の、手元へと。
「なぁ、サン。昼食――パンなんは、もしかして箸とか、左手使うんも難儀やったりするんか…?」
 違うと否定することが、できないわけではなかったけれど。
「……お前の勘のよさを忘れていたな」
 は持っていたサンドイッチを置いて、忍足の眼前に左手を広げて見せた。
「正真正銘ぼくの指だけれど、神経まではうまく繋がらなかったんだ。ワイヤーを入れて、固定してる」
「それって、つまり指が……」
「ああ。親指が、自由には動かせない」
 広げた左手の指を、は横に開いたり閉じたり、握ったり開いたりして見せた。その親指は、まるで動かなかった。
「そんな……」
「でも、そのおかげで……とっさに左手で庇ったおかげで、失明までは免れたんだ。相手のナイフもよく切れるものだったから、繋げやすかったみたいだし。ただ……」
 がゆっくりと下ろした左手の指先をギュッと握る――親指だけは、動かないままだったけれど。
「うまく繋げられなかったのは、時間が経ちすぎたせいだ。“Help”と、たった一言叫べればよかったのに、怖くて、なにも言えなかった。周りにいる人間が、すべて怖いものに見えた。あのまま、死んでいくんじゃないかって思ったとき――」
 は言葉を切って目を伏せた。
「いや……結局、路地裏で蹲っていたぼくを見つけて救急車を呼んでくれたのは通りすがりの人だったし、目も見える、指もある――なにも変わってない。そうだろ、忍足?」
 笑ってみせるに、忍足はなにができただろう。
「せやな。なにも変わってへん。いや――むしろ近くなって嬉しいやん。で、球技大会はどないするんやったっけ?」
 何事もなかったように、忍足が会話を戻した。だからも、食事を再開しながら会話を続けた。
「そうだな……やっぱり消去法でいくなら、バレーだろうな。この身長なら、アタッカーにされることもないだろうし。せいぜいレシーブに専念させてもらうよ」
「ほんなら俺もバレー選ぶわ」
「なんだ、忍足。ぼくと戦いたいのか?」
「あぁ! そぉゆうことになるんか――ならバスケにするわ。同じ体育館やし、種目違かったら、サンも俺んこと応援してくれるやろ?」
「そうだな。コーヒーを奢ってもらったしな」
「インスタントな応援はなしやで」
「なんだそれは」
 笑ったの視線が、ふと忍足の背後の資料棚に向けられる。
「試合のビデオ、ずいぶん増えたんだな……」
「ああ、コレか。そうやな、去年に比べたら大分増えとるな。いま樺地が管理してるからやろな。あいつ意外とマメなん。ホンマ、見かけにはよらんわ」
「樺地くんが……」
 呟いたの表情が曇るのを、忍足は見逃さなかった。
「あれ、サン、樺地は苦手やった?」
 からかうような調子で告げた忍足に、も軽く笑ってその表情を消した。
「いや……羨ましいだけだよ。彼はとても恵まれた体格をしているし、才能もあるしね」
「確かに、そやけどなぁ。恵まれてへんとこもあるやん。ヤツと差し向かいでメシ食いたいなんて、よう思われへん。悪いやっちゃないけど、なに考えてるかも分からんし。ま、跡部には似合いのパートナーちゃうん? パートナーちゅうよりは、下僕扱いやけど――」
「忍足、コーヒーをもう一杯もらってもいいか?」
「ん? ああ――せやな」
 の言葉に、忍足は自分のカップも手に取り立ち上がった。が故意に会話を中断させたことと、その理由がなんとなく分かってしまった自分が情けなかった。
「しょーもない天才やなぁ…」
 呟いた忍足の言葉を、が聞き返す。
「どうかしたか?」
 忍足はお湯を注いでかき混ぜたカップを静かにの前に置いた。
「俺はなにやらしても天才やなてゆうたんや」


 それから一週間後、開催された球技大会で、は希望通りバレーに参加していた。
 一回戦目の一年生のクラスには勝ったのだが、二回戦目の二年生のクラスには負けてしまった。相手チームにバスケ部のエースがいて、彼がアタックを決めまくったからで、が敗因の原因になったわけではなく、むしろよく拾っていたほうで、おかげでクラスメイトとの雰囲気もよくなっていった。
さん、俺たち校庭に野球見に行くけど、どうする?」
 早々に負けてしまって暇になった、同じバレーを選択していたクラスメイトから声が掛かる。誘ってもらえるなんて思ってもいなかったことで、嬉しくなったが同意しようとしたとき、背後から大きな声で名前を呼ばれた。
サーン! 俺、これから試合やでー!」
 振り返るまでもなく、その声は忍足で。
「残念だけど、アイツの応援しないといけないみたいだ」
「そうみたいですね」
 笑うクラスメイトに、は思い切って言った。
「でも、こっちの試合が終わったら、そっちに行ってもいいかな…?」
 恐る恐る言ったに、その場にいたクラスメイトたちが、次々に「もちろん!」「待ってますよ!」「また後で!」などと声をかけてくれた。
 スポーツで生まれる連帯感というのは、また特別なものだ。
 一年前、は確かにそのなかにいた。けれどそれが耐え切れなくて、逃げ出してしまったのだけれど。それがどんなに恵まれていたのか気づいたのは、死ぬかもしれないと思ったとき。タクシー強盗にあい、異国の路地でひとり死んでいくのかと思ったとき、いちばん戻りたいと思った場所。いちばん会いたいと思った人、その名前――――
 ぼんやりとバスケットコートへ向かっていたは、周囲を見てはいなかった。
! 危ない!」
 その声に反応しただったが、の左目は咄嗟に危険を捉えることができなかった。
 左側から来たパスミスのバスケットボールが、の額に当たり、眼鏡を吹き飛ばし、そのままバランスを崩しても倒れた。
「先輩!」
 真っ先に駆け寄ってきた忍足が、を抱え起した。
「先輩! 先輩!」
 忍足の声に、がまばたきをする。
「大丈夫…だ、忍足。額よりも……打った後頭部のほうが痛いな」
 おどけるようにそう言って身体を起そうとするに忍足は手を添える。
「あの、眼鏡……」
 近くにいた生徒が、落ちた眼鏡を拾って差し出した。忍足が受けとって、に渡す。
「ああ、壊れてないみたいだな」
 手にとって確認して、は眼鏡をかけた。眼鏡を拾った生徒はどうやらにボールをぶつけた生徒だったらしい。
「大丈夫だから、試合、再開して。よそ見してたこっちが悪いんだから」
 心配そうに立っていた彼にそう声をかけて大丈夫だからと笑ってみせる。頭を下げた彼がコートに戻っていき、試合が再開された。
「ホンマ大丈夫なん?」
「ああ。少し、油断したな」
「額が擦り切れとる。保健室行ったほうがええ」
「このくらい――」
 手でそっと額に触れたの指先に血がまとわりつく。
「どっちにしろ、洗ってきたほうがよさそうだな」
「なら俺も付き合うで」
「なに言ってる、お前は試合が――」
「見えてたくせに避けられないとはな。随分と鈍くさいじゃねーか」
 背後から掛けられた声が、ふたりの会話を止める。
「跡部――」
 口にしたのは、忍足のほうで。は、振り返ることもできなかった。
「ま、そんな反射神経じゃあ、正レギュラーになれないのも道理だな」
 跡部の言葉で、空気が止まる。
「――跡部! 先輩は好きで目ぇ見えへんようになったわけやないんやで!」
「忍足!」
 殴りかかろうとした忍足の腕を、が掴んで止める。
「――言うなって、言っただろうが」
「あ……」
 ため息交じりに呟いたの声に、忍足も冷静さを取り戻す。
「なんだと……」
 そんなふたりのやりとりに驚いていたのは跡部で。
「……見えないのか? 本当に?」
 跡部の言葉に、忍足の腕を掴んだままだったが振り返り、静かに答えた。
「いいや、全く見えないわけじゃない。焦点が合うのに、少し時間がかかってしまうだけだ」
 そして跡部から視線を忍足に戻して、はその肩を叩く。
「ほら、試合だろう? 行って来い。ぼくは保健室に行って来るから――負けるなよ」
「え…? あ――ほな、試合してくるわ。後でまた、な」
「ああ」
 気が抜けたような忍足が、試合が始まるコートへ戻っていく。軽く手を降って見せてから、は歩き出した。そして、まだ立ち尽くしたままの跡部にすれ違いざま、囁いた。
「声を掛けてくれて、ありがとう」
 いちばん最初に危ないと警告してくれた声が誰のものだったのか、は気づいていた。