きみのなまえをくちにする 5




 体育館の喧騒をあとにして、はひとり保健室へと歩いていた。廊下には人気はなく、校庭での盛り上がりも微かに聞こえるだけで、思いのほか静かだった。
「ほんとに、油断しすぎだ……」
 呟いて、額に手を当てる。ピリッと痛みが走り、指の先がベタついたが、その血はすでに固まりかけており、赤黒くなっていた。
 言い知れぬ不快感に眉を顰め、は近くの水道を探す。見つけたところで、眼鏡を外し脇に置くと、思い切り蛇口を捻り、噴出してきた水でバシャバシャと顔を洗った。
 左の額が沁みるように痛んだが、構うことなく続けた。
 やがて顔を上げて蛇口を閉めてから気づく――タオルを持っていなかったことに。でも、いまさらどうしようもない。首を左右に振って水滴を落としたあと、ジャージの袖口で拭いてしまおうと上げた右腕は、掴まれていた。水滴の残る睫でまばたきをし、その向こうに見えた姿は。
「あ――」
 とべ、と名前をすべて口にする前に、の目の前を白いものが覆う。反射的に目を閉じてしまったのだが、触れては離れていくその感触に、ようやくタオルで顔を拭かれているのだと気づいた。
 やがて、掴まれていた腕も放される感触があって、はゆっくりと眼を開けた。不機嫌そうな、怒っているような表情で、跡部が見下ろしていた。
「ありがとう」
 言って当然と思った言葉を、は口にした。けれどなぜかそれは相応しくない言葉であるかのように、ふたりの間に漂った。
「あ、血が……」
 ふと視線を下げたは、跡部の手にしているタオルに、ところどころ薄い血が滲んでいるのを見つけた。どう考えても、いまついてしまったものだ。
「ごめん、洗って返すよ」
 慌てて伸ばした、そのの手を避けるように、跡部はタオルを持つ手を引いた。
「なんで俺に言わなかった――」
 頭上で響いた跡部の悔しそうな声に、は顔を上げる。視線を逸らし眉を寄せた、不機嫌そうな跡部の瞳のなかに、隠しようもなく浮かんでいたのは――同情だった。
(こんな顔をさせたかったわけじゃないのに――)
 彼には、こんな表情は似合わないのだから。
 は眼を伏せて、ことさらゆっくりと口を開いた。
「――言う必要が、あったか?」
 跡部が息を飲んだのを、空気で感じる。
「忍足には言ったんだろうが」
 不安そうな、不満そうな――そんな声が聴きたかったんじゃない。
「アイツは勝手に気づいたんだ。ぼくが話したわけじゃない」
「俺が悪いって言うのか!」
 顔が上げられない。そんな顔を見たくない――伏せたままのの視界に、置かれたままだった眼鏡が入る。は右手を伸ばしてそれを取った。
「どうして? 悪いことなんかないだろう? 知る必要なんてない、ぼくのことなんか」
「クソッ!」
 カシャンッと硬質な砕けた音が、静かな廊下に響き渡った。
 掛けようとしていた眼鏡が、跡部の手で叩かれていた。
「おい――」
 抗議の声を上げたが、眼鏡を叩き落とした跡部の左手は、そのままの腕を掴んでいて振り向くこともできない。
「いくらでも買ってやる」
「そういう問題じゃない」
 は呆れてそう言って、跡部を見上げて睨みつけた。そのの目元に、跡部の指が伸ばされ、なぞっていった。
「いつ――こんな傷を?」
 跡部の口調は高飛車だったが、その指先は優しく、は耐え切れずに瞳を閉じた。
「……いつだっていいだろう」
「テニスを止めたのも、そのせいか?」
 跡部の声が、近い。
「……それは違う。ここを出るときにはもう止めると決めていた」
「なぜだ?」
「……好きじゃ、なくなったから」
「嘘だろ?」
 その声はからかうような調子ではなく、本気で驚いているようだった。だからこそ、言えない。本当のことは、決して。
「どう思おうと、お前の自由だけど?」
 ゆっくりとなぞっていた跡部の指先が止まり、その感触は消えてしまった。が目を開けると、真っ直ぐに見下ろしていた跡部と目が合う。無表情を装ってはいるけれど、困惑しているその瞳――そんな顔が、見たいんじゃないんだ。
「他に、隠してることは?」
「――山ほど」
 の腕を掴んでいた跡部の手は押さえつけるようにその力を増し、が痛みに顔を歪めたその一瞬で、離れていった。
「クッ――勝手にしろ!」
 それだけ言って、跡部は背を向け、足早にその場を去っていった。
 は屈みこんで、跡部が立っていたその場所に、ポツンと残されたタオルを拾い上げる。ところどころの血で滲んだ、そのタオルを。そしてもう一箇所、手を伸ばして、割れてしまっている眼鏡を拾い上げる。フレームと、プラスチックの欠片も。
 近くのゴミ箱にそれらを落とし、タオルだけを大事に抱えながら、も歩き出していた。


 行く当てもなく歩いていたがたどり着いたのは、教室だった。もちろんみな体育館や校庭に出払っており、昼間だというのに誰もいない教室というのは、とても寂しげな違和感があった。
 静かに、自分の足音でさえ世界が壊れてしまいそうな静けさのなか、はゆっくりと窓際に近づいていった。やがてひとつの机の前で立ち止まり、そっとその机に手を伸ばして、触れた。
 この机の持ち主に、こんなふうに触れることはできないだろう――――
 の瞳から溢れたものは、頬を伝い落ちていったが、胸に抱えられたタオルに吸い込まれて、音をたてることもなく消えていった。やがて堪えきれずにしゃくりあげそうになったとき、の両手はタオルを掴んで塞ぐように押し当てた。
 声はなかった。
 肩だけが、なんども小刻みに震えていた。
「声も上げずに――そんな寂しい泣き方せんといて……」
 静寂を破った静かな声に、は顔を上げる。
「……忍、足」
 近づいてくる忍足が、スローモーションのように見えた。
「なぁ、さん――そんなに、跡部のこと好きなん?」
 空気が、止まる。
 うまく息が、できない。
「ずっと見てたんや、気づくわ」
 なにも言えずにいるの、瞳に浮かぶ驚きを読み取って、忍足が言う。忍足はすでに、の目の前に立っていた。
「なぁ……俺にせえへん?」
 屈み、の耳元で、忍足は低く囁いた。
「俺にしとき。忘れさしたる」
 忍足の右手が頬を包み、そこから全身が搦めとられていくような気がした。