きみのなまえをくちにする 6
と別れ、闇雲に歩いていた跡部だったが、いつのまにか後ろを樺地が付いて来ているのに気づいた。
「どうかしたのか?」 足を止め、苛ただしく跡部は問いかけた。そんな跡部の様子にも怯むことなく樺地が差し出したのは跡部の携帯電話で、そこには『着信あり』の表示がでていた。 無言でその携帯を手に取り、ディスプレイを見る。そこに表示されていたのは『田之倉』という名字のみだったが、跡部は見た瞬間、すぐにリダイヤルをかけていた。 『ご依頼の報告書が完成いたしましたので』 電話が繋がると、無駄な挨拶はなく、低く用件のみが告げられる。 「20分で行く」 跡部もそれだけ言って通話を終了させた。 「樺地、俺の荷物を持ってこい、正門だ」 「ウス」 足早に去っていく樺地の後姿を見ながら、跡部は再度短縮の1番にコールした。 「正門に回せ、五分で出る」 五分後、跡部は車のなかにいた。そしてさらにその十五分後きっかりに、車は小さくて目立たないビルの前で停車した。 「待ってろ、すぐ戻る」 そういい残して跡部は古びたビルの中に入っていく。エレベーターで上がった四階、そのフロアには一室しかない。『田之倉探偵事務所』と小さく書かれたプレートの貼り付けてある扉を、跡部はノックもせずに押し開けた。 「どうぞ」 所長の田之倉は跡部の姿を見て、ソファへと促した。決して広くはない一室しか構えていない小さな事務所だったが、その情報収集の正確さと素早さから、父が懇意にしている場所だった。 「こちらです」 無駄なことは一切言わず、茶封筒を差し出してくる。開いて取り出した書面のいちばん上に書かれている文字は『に関する報告書』―――― 取り出して、跡部はパラパラと捲った。 そこには、先ほど跡部が知ったばかりの、の眼のことも記載されていた。留学して二週間後、乗ったタクシーの運転手に刃物を突きつけられ、金品を強奪されたこと。その際、抵抗したため、目、手、腹部を負傷したこと。つい最近までリハビリに専念していたこと。遅れた学業を取り戻すために日本へ帰ってきたこと。来年はまたロンドンへ戻ることと、事件が日本で報道されないようにの父親が手を回していたことまで、詳細に調べ上げられていた。 そこに添付されていた一枚の写真に、跡部の目は釘付けになる。その写真を剥がし、ポケットにしまうと、跡部は立ち上がった。 「金はいつものところに振り込んでおく」 そして手にしていた書面を、所長へと投げるように戻した。読んですでに覚えてしまったものを、携帯する必要はない。 「ありがとうございます」 受け取って頭を軽く下げた所長を残し、跡部は事務所を後にした。 「はー」 ワザとらしい盛大なため息をついて、は腰を下ろして屋上のフェンスに寄りかかった。 「疲れた、サン?」 笑いながら、忍足がその横に座る。 「誰のせいだ、誰の?」 は今朝からずっと忍足と一緒なのだ。正確には、朝、正門で出会ってから、休み時間という休み時間と、そして現在の昼休みまで。 正門の前で女の子達と立ち話をしている忍足を見たときから、なんだか厭な予感がしていたのだ。だから挨拶だけして通り過ぎようとしたのに、忍足は女の子達を置いて、についてきたのだった。 忍足と歩いていると、次々と女の子たちから「おはよう」の声が掛かる。忍足に掛けられているのだからと素通りしていたの耳に突然入ってきた言葉は。 「さん、おはようございマス! ――忍足くんも」 「なんや、俺はついでなん? ……ほらほら、サン」 忍足に肩を叩かれ、は訳が分からないまま、声を掛けてきた女生徒に「お、おはよう…」と言葉を返した。それがきっかけとなり、昇降口へ向かう間、次々と女生徒から、まで声をかけられた。そして当然のように、廊下でも。流石に教室に入ったらいつも通りだろうと思っていたのに、昨日の球技大会で一緒だったメンバーに挨拶をされた。 女生徒のときは、忍足と一緒にいるついでだろうと思っていたも、流石にこれは自分に向けられたものだと分かる。 「おはよう」 素直に挨拶を返した瞬間、声を掛けてきた相手やその背後にいた者が驚いたように目を見開いたので、はなにか自分が間違った言葉を言ってしまったのかと焦った。すると、背後でかみ殺したように忍足が笑っているのに気づく。 「忍足、なにかぼくは変なことを言ったか?」 「サン……いまジブン、どんな顔してたか、自覚ないん?」 「は…?」 「そんなめっちゃ可愛い笑顔で挨拶されたら、誰だって固まるわ」 「な――っ」 忍足に抗議する間もなく、クラスの女子が集まってきてふたりを取り囲んだ。 『昨日の球技大会、残念だったよね?』『さんって、やっぱりテニス部入るの?』など、次々に質問が浴びせられる。去年、テニス部の準レギュラーだったときでさえ、ここまで女生徒に囲まれた経験はなかったは、ただうろたえるばかりだ。背後で笑い続けている忍足を睨みつけると、忍足はようやく笑うのをやめた。 「はいはい、そないみんないっぺんに質問しなや。サン、困っとるわ。そうやな……サンへの質問は俺を通してやー」 「忍足……」 が呆れて名前を呼ぶと、ちょうど予鈴が鳴る。自分のクラスへ向かう忍足と、笑顔で席に戻っていくクラスメイトたちの間から、の目は自然と窓際のとある席へと向かっていた。 昨日自分がその前に立っていた机には、誰の姿もない。 は、自分がほっとしているのに気づいた。跡部を不機嫌にさせてしまうことよりも、跡部が自分に関心を持っていないと知ることのほうが怖いのだ。 (まったく……我ながらなんてワガママなんだ……) けれどいつか必ず、その日はくる。その日が来るときの覚悟をするために、戻ってきたのだから。 結局、朝のホームルームが始まっても跡部の席は空いたままで、その後も埋まることはなかった。そして、休み時間という休み時間には忍足が姿を見せたし、その度にクラスメイトや女生徒に囲まれることとなった。 そして昼休みとなった現在、学食に行こうという忍足を睨みつけ、屋上へ向かったに、忍足は当然のようについて来た。 五月の昼休みの屋上だというのに、忍足とのほかに生徒の姿を見かけないのは、早くも梅雨を予感させるような、どんよりとした曇り空だったせいだろう。屋上を通り抜ける風は肌に冷たかったが、人にのぼせるような状態でいたには返って心地よかった。 「……まぁ、きっかけは俺かもしれへんけど、それだけやったらみんながサンの周りに集まったりせえへんよ。それだけ――サンが魅力的なん」 度重なる忍足の言葉に、は呆れたように笑った。 「まったく……そういうことを平気で言えるからお前はもてるんだな。それとも、正レギュラーになると、人あしらいもうまくなるのか?」 「それがホンマやったら、宍戸かてもうちょっと社交的になっとるやろ」 先日、廊下ですれ違ってからに気づいたらしく、わざわざ戻ってきて頭を下げた宍戸との再会を思い出して、も笑った。頭を下げただけで、結局なにも言わずに宍戸は去ってしまったのだが、その不器用ともいえる真摯な姿からは、が戻ってきたことを歓迎してくれていると取れた。 「さて、と。俺は食べるものも買うてきてへんし、サンも飲み物持ってへんよな? すぐ買うてくるわ。なにがええ?」 流石にこれ以上忍足と連れ立って学食に行く気にはなれず、素直に頼んでしまおうとが考えたときだった。 「そうだな……」 ギィイと重い扉を開ける音が、の答えを遮った。こんな曇り空――物好き以外は誰も来ないと思っていたこの屋上に来る者がいるとはと、ふたりの視線がその扉へ流れる。そこから現れたのは、いちばんあり得ない人物だった。 「跡部……」 忍足が低く呟くのを、は信じられない思いで聞いていた。 |