きみのまぶたにふれてみる(前編)
氷帝学園が都大会の準々決勝で負けたことは、次の日の朝、登校する生徒たちの間ですでに話題になっていた。も、登校途中で待っているようになった忍足から、それを聞かされた。
「宍戸が0−6で惨敗やて。校内試合とは違う――対外試合でそんな無様な結果さらしたんや、今後、宍戸のレギュラー復帰はないやろな」 「宍戸がそんな結果で負けるなんて……。相手は――ええっと不動峰っていったか、無名校だろう? どこからか全国クラスの選手でも引き抜いて来ていたのか?」 「どんな経緯かは知らんけど、まぁ、それに近いんと違う? 宍戸の相手は九州二強の橘やったらしいわ」 「あの獅子学中の…? なんでまた東京に――」 は訝しげに眉をしかめたが、すぐに悲しそうに目を伏せた。 「それより宍戸だ――可哀相に。いくら全国クラスが相手だからって、一ゲームも取れないほど弱いヤツじゃないのに。大方、知らずに対戦して、相手の強さにのまれたんだろう」 「せやけど、実力出し切れんかっても負けは負けやん。いまさら事実は変えられへん」 冷たいその言葉に、は忍足を睨みつける。 「ああー、もう! そんな可愛いカオで睨まんといて」 「茶化すな」 の不機嫌な声に、忍足の顔から笑みが消える。 「……茶化してへんよ。確かに宍戸は運が悪かったかもしれへん。俺かてそんな状況で跡部クラスの相手とプレイするのは正直キツイわ。せやけど、負けたかて運がなかったせいになんてでけへん。誰のせいでもない――俺のせいや」 いつになく淡々と語る忍足に、は正レギュラーでい続けることの重さを垣間見た気がした。自分は、最後まで立つことができなかった、その地位。 負けることの怖さを、だからこそ勝つことの大切さを、忍足がわかっていないはずはなかったのに。 「――ごめん」 俯いたに、忍足は笑みを戻す。 「うーん、心配してくれる人がいるっちゅーのはええもんやなー。なぁ、サン――宍戸も、このまま黙って負けを認めるようなら、それまでのヤツっちゅーことやで。ま、俺にはなにもできひんけどな」 「忍足……そうだな、宍戸が自分でなんとかするしかないんだよな……」 宍戸が負けたことで、上がれる人間もいる――そんななかで周囲すべて納得させ返り咲くには、宍戸本人の力でなければダメなのだ。 「ま、なんにせよ、来週のコンソレーションで勝てば関東には行けるんやし、よかったんと違う? これが初戦やったりしたら――宍戸、生きてないで」 冗談めかして忍足が言う。でも、その通りだろう。 「確かにな。でも、そのときは采配ミスってことで、責められるべきは跡部だろう?」 「手厳しいな、サンは」 「氷帝が勝ち続けていけば、宍戸にも挽回のチャンスはくるかもしれないし、頑張って欲しい」 呟いたに、「そうやな」とは忍足は言えなかった。忍足とて、楽観できる立場ではないのだから。 「きょうもいい天気やなー」 何事もなかったかのように、その一日は始まった。 四時間目の授業が終わるチャイムが鳴ると、の前方が人影で陰るようになったのは、あの屋上から逃げ出して以来のこと。 「――行くぞ」 「はいはい」 逃げ場を塞ぐように立つ跡部を前に、はことさらゆっくりとした動作で教科書やノートをしまう。やがて並んで歩き出すふたりを、クラスメイトは遠巻きに見ているだけで、誰も話しかけることはできなかった。急に仲良くなったふたりの真相を聞きだしたい気持ちでいっぱいなのはみな同じだったが、それを直接跡部に聞くほどの無謀さは誰も持っていなかったし、に聞こうとしたそれなりに勇気のある者も、忍足にうまくかわされてしまった。 学食に着いたふたりに手を振ったのは岳人で。 「さーん! 席とってあるよ〜!」 跡部とが連れ立って学食に来た初日、目ざとくその姿を見つけたテニス部レギュラー陣は、一緒に昼食をとるようになっていた。今日は早く来た岳人と忍足が席を取っていてくれたらしい。 「さん、今日のおすすめはA定! から揚げだよ〜」 「じゃあ、それにしようかな」 ありがとう、と岳人に微笑んで列に並びにいくに、跡部もついていった。いままでは当然のように樺地に持ってこさせていた跡部だったが、をひとりで並ばせるわけにもいかず、いまでは一緒に並ぶようになった。 『いくら指が動かなくてもそれくらいはできる』とに言われてしまっては、跡部にはなにも言えない。なにも言えないと解っていてはわざとそう言ったのだと跡部も気づいてはいるが、それでもだ。 ランチプレートを持つ跡部の姿を一目見ようと、学食が混みだしたのはまた別の話で。 定食を手にしたが戻ってきて、岳人の隣に腰を下ろす。跡部はその向かい、忍足の隣に座った。いつのまにか来ていた樺地が、跡部とのプレートにコーヒーのカップを置く。 「ありがとう、樺地。いつも悪いな」 「……ウス」 礼を言うに軽く頭を下げて、樺地も自分の食事を取りに、列へと並びに行った。ここ数日、パターン化してきた昼食風景はこんな感じだ。これに、追加される出来事も起こるのだが。 「あ〜、せんぱい、美味しそ〜。一口ちょーだい」 食事の途中で、不意に現れたジローは背後からを覗き込む。 「ほら」 笑いながら差し出されたから揚げに、ジローは飛びつく。 「おいCー!」 ジローは跡部が睨んでいるのもお構いなしで、口をもぐもぐ動かしながらにべったりと寄りかかる。 「慈郎はもう、食事はすんだのか?」 「うん、だから中庭でお昼寝しようと思って。せんぱいも、一緒にどう?」 もう同じ学年なんだからとが言っても、ジローは『せんぱいはせんぱいだもーん』と笑うので、も無理に変えるようには言わなかった。なんだかんだいって、仲の良かったジローには甘いのだ。もちろん、それを面白く思わない人物が目の前にいるわけで。 「ダメだ!」 「跡部には聞いてないしー」 「んだとぉ…?」 一触即発の空気のなか、がジローの頭をポンポンと撫でる。 「まだ食事中だから、また今度な」 「うん!」 にぱぁっと笑ったジローが、から離れ中庭へ向かおうとしたが、足を止めた。 「あーそうだ、跡部。監督からー、来週のコンソレーションに出るようにって電話きたけど……コンソレーションってなに?」 「ああん? お前、コンソレーションも知らねぇのか? 五位決定戦のことだよ」 「あー、五位決定戦ね。だって、カタカナだとわからないしー、そんな試合出たことないCー」 「宍戸のヤローが無様に負けたこと聞いてねぇのか? 正レギュラーのくせに一ゲームも取れずに負けるなんて、氷帝テニス部のツラ汚しだ。もう二度と正レギュラーになることはねぇから、あのダセェツラを見ることもねぇだろうがな」 「跡部!」 両手をついて立ち上がったのは、で。その瞳は怒りを湛えて真っ直ぐに跡部を見下ろしていた。 「……なんだよ、。テニス部のことに口出すなよ。お前は……部外者だろーが」 跡部はの視線を真っ向から受け止めて淡々と言った。そう――結局、は跡部の誘いを断り、テニス部には入らなかったのだ。 「そうだけど、でも――」 辛そうに、でも続けようとするを遮るように、忍足が立ち上がった。 「サン、これ――」 ポケットから鍵を取り出して、テーブルの上を滑らす。それは以前ふたりで食事をしたときに見た部室の鍵だということに、は気づいた。 「ここは人目も多いし、言いたいことも言えんのと違う?」 忍足の言葉にはっとしてが周囲を伺うと、学食中の視線を自分が集めてしまっていたことに気づく。ただでさえテニス部レギュラー陣が周囲の注目を集めてしまうことを忘れてしまうほど我を失っていたらしい。 は、忍足の差し出した鍵に手を伸ばし、ゆっくりと握り締めた。 「跡部、ふたりきりで話したい。いいか――?」 「ああ、いいぜ」 立ち上がった跡部が、樺地にプレートを片付けるように言う。 岳人がのプレートに手を伸ばし、一緒に片付けておくよと囁く。 「じゃあ、また」 残された者に微笑んだと、不機嫌そうな跡部が学食をあとにしても、学食内はしばらく楽しげな喧騒を取り戻すことはなかった。 |