光射す部屋 (前編)




 なにかしらの委員会に属さなければならないのなら楽そうなものを――と選んだ図書委員は、確かに楽だったが、退屈だった。
 放課後、テニス部の練習にも行けず、カウンターのなかでぼんやりと本を借りにか返しに来るかもしれない生徒を待っていたリョーマは、何度目かのアクビをする。不意にクスリと、静かな笑い声が越前のすぐ近くで聞こえた。その人物は――いまは越前の目の前に立っていたが、扉が開けられた音はしなかったから――図書室内から移動してきたらしい。
「その本、借りるの?」
 スラリとした細身の彼の右手にある本に視線をやって、リョーマは言った。
「うん。でももう少し目を通してからでいいから――カウンター当番代わるよ」
「え……?」
 驚いて見上げた先にあった微笑を浮かべる顔に、リョーマは見覚えがなくもなかった。
「アンタ確か……同じ、図書委員…?」
「うん。三年のだよ、越前くん」
「なんで、俺の名前…?」
「テニス部の一年生レギュラーは、たぶん君が思っているより有名なんだと思うよ。それに――同じ図書委員だしね」
 おどけるようにそう言いながら、彼はカウンターの中に入ってきた。
「練習、行きたいんでしょう。代わるよ。これでもぼくは三年間図書委員をやっていたりするので、ここで退屈に過ごさない方法はいくらでも知ってるんだ。それに……手塚には、頑張ってもらいたいしね」
「え…?」
 突然出された聞きなれた名前に、リョーマは驚いて聞き返す。
「同じクラスなんだ、手塚とは。いい一年が入ったし、今年こそ全国に行くんだからもっと練習に熱をいれるんだって言ってた。なのに生徒会長まで引き受けちゃって、本当にお人好しだよね、彼は。ん? どうしたの、越前くん?」
「あ…いえ、部長のこと、そんなふうに言うの、初めて聞いたんで」
 青学の母と言われる大石のことでなく、手塚を『お人好し』とは、驚くというより、信じられない。なのに彼――は、事もなげに「そう?」と笑っただけだった。
「いいんスか、ホントに?」
 カウンター用の席を譲りながら、リョーマはに言った。いまさらダメだといわれても、心はすでに部活に行く気満々だったのだが、一応先輩ということもあり気を遣ってみたのだ。
「うん、大丈夫だよ。もし手塚になにか言われたら――そうだね、伝言を頼まれたって言っておいて。『が頼まれていた本を帰りに届けるって言ってた』って」
「はぁ……」
「それと! さっきの――いい一年が入ったって言ってたのきみに教えちゃったこと、手塚には内緒ね。『部内では厳しく』っていうのが、彼のモットーみたいだから。ほんと、無理しちゃって」
 クスクスとは楽しそうに笑っていたが、今度こそ越前は相づちすら打てなかった。あの手塚国光のことを、こんなふうに評する人間がいたとは。
センパイ、か――。不思議なヒトもいるもんだよね)
 それが、リョーマがに抱いた第一印象だった。


 遅れて部活に参加したリョーマだったが、委員会の仕事があることはすでに堀尾から連絡済みだったことと、手塚もまた生徒会の用事でコートには現れていなかったこともあって、誰からもなにか言われることはなく、練習に合流した。そのせいもあって、に言われていた伝言のことをすっかり忘れていたと気づいたのは、部活終了後、当のが手塚を呼び止めているのを見たときだった。
「あ――」
 思わず立ち止まったリョーマの視線に気づくことなく、は持っていた本を手塚に差し出している。それは、先ほどリョーマの前に現れたときにが手にしていた本のようだった。
「はい、これ。頼まれていた古文のレポート用の資料本。使えそうなところに、付箋貼っておいたから」
 その言葉に少しだけ不満そうに手塚が眉を寄せたのだが、手塚に口を挟む隙を与えず、は微笑んで続けた。
「手塚なら自分で全部読んで決めるとは思ったんだけど、よかったら参考にして」
 手塚とての行為を迷惑だと思ったわけではなく、そこまで手間を掛けさせたことに悪いと思っただけなのだろうが、はそれすらも分かっているといったふうに手塚を制した。
「――すまないな。助かる」
 本を受け取った手塚が言ったのは、結局それだけだった。
「なにかあったら、遠慮なく言ってよ。ただでさえ多忙なんだから。ね?」
「ああ」
 じゃあ、と帰りかけたを、手塚は呼び止めた。
「悪いが――あと少しだけ待っていてくれ。一緒に帰ろう」
「え…? あ、うん。じゃあ、待ってるよ」
 は少しだけ驚いた表情を見せたあと、頷く。それを確認して、手塚は部室内に消えた。同じく着替えるために部室へ向かうリョーマは、の前を通るしかなく。
「やあ」
「ども」
 明るく声をかけてきたに、リョーマは帽子越しに軽く目線を下げて挨拶した。あまり感じのいい態度とは言えないだろう。自分でもどうしてこんな態度をとってしまうのか不思議だった。が自分になにかしたわけじゃないのに。それどころか。
「あの、今日は、どうも」
 思い出して、越前はもう一度に向き直り、言った。そういえばさっきは礼も言わずに出てきたのだ。
「どういたしまして――でも、ぼくから言い出したことなんだから、気にしないで」
 そんなことはまるで気にしていないというの態度に、なにか燻っていたものが晴れていくような気がした、そのときだった。
「あれ〜、おチビ、と知り合い〜?」
 リョーマの背後から、聞きなれた明るい声が掛かる。
「同じ図書委員なんだよ、英二」
「……ス」
 が答え、リョーマも一応頷いたが、考えていたのは別のことだった。
 は、菊丸のことを『英二』と呼んだ――手塚と同じクラスと言っていたのだらか、菊丸とはクラスは違うはずだけれど、仲がいいらしい。もちろん、同じクラスになった者だけが仲良くなるわけではないし、ふたりとも――いや、手塚も含む三年生同士には、リョーマには知ることのできない二年の時間が存在する。
「あれ、じゃない。珍しいね、こんなところまで」
 リョーマの考えに追い討ちをかけるように、再び会話に混ざってくる三年が現れた。
「うん、ちょっと手塚に用事があってね。あ、そうだ――不二が見たいって言ってた写真集、申請出しておいたよ。月末には入ると思うから、一番に持っていくね」
「ありがとう、。嬉しいな」
「あ〜、不二ばっかりずるいにゃー」
「英二もなにか読みたい本があるなら言ってよ」
「んー、んー、でも読みたい雑誌は買っちゃうしー」
「雑誌はダメだってば」
「じゃあー、のオススメ!」
「お薦めって……せめてジャンルくらい指定してくれないと、選べないなぁ」
「ええっとね、じゃあ……すごく楽しくて、でも最後にはちょっと泣けちゃうような話」
「英二、それジャンルって言わないよ」
「だね」
 笑いながら答えると、同じく相づちを打って微笑む不二と――立ち去ることもできずにその場にいたリョーマには、入り込むことのできない親しげな雰囲気。
(馬鹿らし――)
 さっさと着替えて帰ろうと、部室に向き直ると、ちょうどそのドアが開く。出てきたのはすでに学生服に着替えた手塚で。
「待たせたな」
 の隣まで来て、それだけ言う。
「ううん、全然。英二、不二、じゃあ、また……。あ、英二。さっきのでなにか探しておくよ」
 またね、越前くん…と、はリョーマにも軽く視線を合わせて、すでに歩き出していた手塚の後を追っていってしまった。
「なんだー、は手塚と帰るために待ってたのかー。手塚ってばずるいにゃー」
「英二、なんでそれ手塚の前で言わないの?」
「言えるわけないってば〜」
 部室へ向かう菊丸と不二の会話を聞きながら、リョーマは先ほどから感じていたもやもやしたものの正体が分かった気がした。
「このままでは終わらせないっスよ、部長」
 振り返った先の、すでに遠くなった並んで歩く手塚との姿に向かって、リョーマは呟いていた。
 
 
 次の日、委員会ではなかったが、実験器具の洗浄当番に当たってしまい、リョーマは少しだけコートへ向かうのが遅れた。ふと見上げた校舎の端、窓に立つ人影を見つけたのは偶然か。
「あれって……、センパイ?」
 らしき人影は、窓から外を眺めていた。テニスコートのほうを。少しだけ嫌な予感と共に、コートへと視線を走らせたリョーマの目に入ってきたのは――遠くからでも見間違えようがない――三年レギュラー陣の姿だった。もちろん、その中には手塚もいる。
 昨日と同じ、もやもやしたものが、リョーマの胸の奥から湧き上がってくる。
「あそこって、図書室――だよね」
 リョーマの足が、来た道を戻り始める。
 なんのために会いに行くのか、会ってどうしようというのか――リョーマにも分からなかった。ただ、昨日から抱えているもやもやした思いをなんとかしたかった。の視線に自分を入れるだけでも、なにかが変わる気がする。
 図書室にたどり着いたリョーマはざっと室内を見回したが、窓際にも閲覧席にも、の姿はなかった。もちろん、カウンターにも。そこにいたのは越前と同じ一年の図書委員だ。
「ねぇ。センパイ、見なかった?」
 カウンター内でカードの整理をしていた少年に声をかけると、驚いたようで「え? あ?」と繰り返す。
「図書委員の、三年のセンパイ」
 リョーマが付け足すと、彼は理解できたようだ。
「たぶん、特別閲覧室に行った人がそうじゃないかな」
「特別閲覧室?」
 初めて聞く名前に、リョーマは聞き返す。
「ほら、あそこの奥の。持ち出し禁止の貴重本とか卒業アルバムとか置いてあるところだよ」
「へぇ…」
 見れば奥にそんな部屋があり、扉が少しだけ開いている。
「ああ! 入るなら、ここに名前書いて」
 向かおうとしたリョーマは呼び止められ、しぶしぶと名前を記入した。そういえば、カウンターの当番に入るときにそんな説明を受けたかもしれないと思いながら。リョーマの上に書かれていた名前は、確かに『』だった。しかも、それ以外の名前はない。
(ふうん、悪くないシチュエーションだよね)
 リョーマは少しだけ開けられたままだった扉を、静かに押して室内に滑り込んだ。
 あまり広くない室内は、外とは違い棚と棚の間隔も狭く、ぎっしりと高く積まれた本が窓からの光もかなり遮っており、薄暗かった。
 棚と棚の間をひとつづつ覗き込みながら、の姿を捜す。三つ目の棚を覗き込んだとき、そこにいたの姿に、リョーマの時間は止まった。
 は左手で一冊の本を閉じたまま持ち、棚を背に寄りかかっていた。
 棚と本の隙間から射す陽の光が、の顔を照らしている――その頬は濡れていた。
 が瞼を閉じると、さらに瞳から零れ落ちるものが、その頬を伝ってゆく。
 それは――とても静かな光景だった。
 はっと息を飲んだリョーマの気配に、が気づいた。
「あ――」
 の手から、本が滑り落ちて、静かだった空間に不似合いな音をたてた。
 自分が邪魔をしたんじゃないかと気が咎めたのは一瞬で、リョーマは、手で必死に涙を拭うのもとへ近づいていった。 
「なにか、あったんスか――?」
 聞かずには、いられなかった。
「なにも――」
「なにもないなんて言わないで下さいよ。なにもなくてそんなになるワケないじゃん。言いたくないなら、聞かないけど……」
 聞いておいて、聞かないと言う――自分でも矛盾だと分かっていたから、リョーマは決まり悪げに顔を伏せた。
「ありがとう――ちょっと昔のことを思い出しちゃっただけなんだ。もう、二年も前のことなんだけど……」
 リョーマの気持ちを察したのだろう――答えるの声は、明るかった。もちろん、明るく振舞おうとしているのだとリョーマにも分かる。
 の言ったことがこの場を取り繕う言い訳なのかもしれないとは思わないでもなかったが、なぜだかリョーマには、はそんなことは言わないという確信があった。それは、嘘でもなんでもの言葉なら信じるんだというリョーマの強い思いだったのかもしれない。
(いいよ――いまはなにも聞けなくてもさ)
 リョーマはこれ以上なにも聞かないつもりで、なにも言わずに、が落とした本を拾おう屈みこんだ。その頭上で、まだ明るく振舞い続けるの言葉が聞こえる。
「ホント、ダメだよね。手塚にも、早く忘れたほうがいいって、言われてるのにな」
 本に伸ばした手が、一瞬止まった。
「ありがとう、越前くん。それにしても、どうしてここに? 部活は――」
 リョーマが拾った本を受け取った――そのの腕を、リョーマは掴んで壁に押し付けた。
「え――」
「いいよ、そんなの」
 驚きに声を上げたを、リョーマは遮った。
「ね、それより。早く忘れたほうがいいことって、なに?」
 聞くつもりはなかった。聞けなくてもいいと思った。いつか聞きたいとは思ったけれど、それはいまのはずじゃなかったのに。
 の口から出た名前を聞いた瞬間から、そんな決意は吹き飛んでいた。
「それは――」
 明るく振舞おうとしていたの顔が瞬時に曇り、見上げるリョーマの視線から、は瞳を逸らせた。その目に再び涙が滲んでくるのを、リョーマはひどく遠くから見ているような気がした。
(こんなことがしたいんじゃないのに――)
 リョーマは俯いて、を掴んでいた手を離した。
「部長には言えても、俺には言えないよね」
「そんな……」
 悲しそうな声を上げたの顔は、もう見れなかった。
「――部活、行きます」
 それだけ言って、リョーマは部屋を後にした。
「こんなことがしたかったわけじゃないのに……」
 閉めた扉の向こうで呟いたリョーマの声は、誰にも届かなかった。