触れる温度 前編
「リョーマ――!」
リョーマの瞳から血が溢れた瞬間、は息を飲んだ。 地区予選決勝、対不動峰戦――第一試合こそ棄権したものの、第二、第三試合と青学が勝ち、そして青学の優勝がかかった第四試合、リョーマの相手は二年生の伊武深司。 いきなりツイストサーブを決めて有利に試合を進めてきたリョーマが、なんでもないリターンでポイントを取られた。その動きが一瞬おかしかったことに、も気づいた――そのすぐ後のことだった。 リョーマの左手から放たれたラケットはネットのポールにぶつかって折れた。 その鋭く割れたグリップが、リョーマの顔面に跳ね返ってくるなんて。 「リョーマ……」 リョーマの左目から鮮血が溢れている。試合は一時中断となり、青学ベンチに戻ってリョーマは手当てを受けていた。は近づくこともできず、ギュッとフェンスを握り締めた。 やがて手当てをすませ、再びコートに戻ろうとするリョーマを大石が止めていた。も同じ気持ちだった。あんなに血が流れていたし、手当てをしたといってもガーゼで押さえただけのようで、しかもそのおかげで左目は完全に覆われて見えなくなっているのだ。それなのに、試合を続けるなんて。 けれどその大石との間に、手塚が割って入った。リョーマになにか言って、そしてラケットを渡してしまう。そのラケットを握り、リョーマはコートへと戻っていった。 試合続行だと沸き立つ周囲を余所に、いてもたってもいられず、は青学のベンチ裏へと近づいていった。 「手塚――!」 フェンス越しに名を呼んで、振り返った手塚を問いただす。 「リョーマは大丈夫なの? なにもあんなケガしてるのに試合させなくても――だってもう一試合、手塚の試合が残ってるんでしょう? いくらいまリョーマが有利で、優勝がかかってるからって――」 「」 制するように名前を呼んだのは手塚ではなく。 「不二――」 「それ以上苛めないであげてよ。手塚だって自分の手で優勝を決められたほうが嬉しいはずだよ。試合をやりたがったのは越前の意思。キミの前でカッコイイところでも見せたかったんじゃないのかな?」 「そんな……」 確かにきょうの第一試合、桃城と組んだダブルスの試合はお世辞にもカッコイイとは言えなかった。竜崎先生にも叱られて不機嫌なリョーマの隣で、一緒にファンタを飲みながら散々そのことをからかったりしたのは、この試合が始まる前のことだ。でも、だからって、そんな…… 「ごめん、ごめん。冗談だよ」 俯いてしまったに、不二が笑顔で言う。 「でも越前がやりたがったのは本当。ねぇ、……ここで越前を棄権させるのは簡単だよ。でも棄権したら――自分の力を満足に出せないままコートをおりたら、誰よりもそのことを後悔するのは越前だよ。だって、ぼくたちはそのために練習してきたんだから」 そう――だ。だって知ってる。リョーマが試合を楽しみにしていたことを。そのためにずっと練習していたことも。 「10分だ。10分で決着がつかなければ棄権させる――そう言ってある」 「手塚……」 手塚の言葉に、手塚がラケットを渡すときにリョーマになにか言っていたことを思い出す。 手塚が優勝を強く望んでいることは知っている。だからって部員に無茶をさせるような人間ではないことも、だって解っていたはずなのに。 「ご、めん……」 部外者なのに、なにも解っていないのに、一方的に責めるなんて――なんてひどいことをしたんだろう。ふたりに怒られても嫌われても仕方ない――は泣き出しそうになるのを堪えて、頭を下げた。 「謝ることはないよ、顔を上げて。は越前を心配しただけでしょ?」 不二がの肩に手を置いてそう言ってくれたので、少しだけほっとしながら顔を上げたときだった。 「本当に――は越前が好きなんだね」 「え――」 の目の前にあったのは、いつもに増して微笑んでいてその真意の掴めない不二の姿で――慌ててさ迷わせた視線の先にあったのは、いつもに増して眉間の皺を浮かべた手塚の姿だった。 「えっと、あの……」 「真っ赤になっちゃって。可愛いね、」 「ふ、不二……」 からかわれているのだろうけれど――どうしたらいいのか解らなくて再びは俯いてしまう。けれど。 「ほら、見てあげなよ。越前が――青学の優勝を決めるよ」 不二の言葉に誘われるように顔を上げる。の瞳に飛び込んできたのは、流れるように綺麗なフォームでスマッシュを決めるリョーマの姿だった。 「そんじゃ私らは車取ってくるから。越前とは道路のほうに出て待っててくれ」 試合終了後、リョーマを病院へ連れて行くという竜崎先生の車に、も同乗させてもらってついてきた。きれいに切れているから治りも早いだろうという診断に、も胸を撫で下ろす。病院裏の駐車場に車を取りに行った竜崎先生とその孫と別れて、とリョーマのふたりは病院の表通りへと歩き始めた。 「まったく……はらはらさせられた」 思わずはそう呟いていた。その声が少々非難めいたものになってしまったのは、仕方のないことだろう。 「刺激的だったでしょ?」 悪びれた色などまったくなく、楽しそうにリョーマは返す。 確かにその前に見た試合がすべて霞んでしまうほど、印象的な試合だった。でも――には刺激的すぎた。 「勝ったよ?」 なにも答えないに、再びリョーマが問いかける。 「うん」 はリョーマのほうは見ずに頷いた。 「祝ってくれないの?」 「おめでとうは、言ったよ」 「そうじゃなくて──」 リョーマの手がの袖を掴んだから、は立ち止まってリョーマを振り返った。 「祝福のキス、とかさ」 普段なら――冗談言わないの、なんて笑って軽く返せただろう。ここは病院の外で、人も行き来している往来なのだ。こんな場所で本気でキスされたいと、がしてくるとはリョーマも思っていないだろう。けれどリョーマの左目を覆う眼帯を見た途端、は笑うこともできずに目を逸らしてしまった。 「――そうだよね。たかが地区予選優勝くらいで、のキスはもらえないよね。全国大会優勝くらいでないと」 なにも言えないでいるをリョーマはそれ以上追求することなく、冗談めかしてその会話を終わらせてくれた。ププーとクラクションが鳴って顔を上げると、病院の前の道路に竜崎先生の車が停まっている。 「――また、見に行く」 早足で車へと向かいながら、に言えたのはそれだけだった。 |