声が聞きたい 前編
都大会地区予選が行われた日から、八日が過ぎていた。
リョーマの左目の眼帯もすでに外され、その瞼の傷跡はうっすらとしか残っていない。 デートしようよ――そう言って誘ってきたのはリョーマのほうだ。もちろんにも異存はなく、映画を見てお茶をするというごく普通のデートをすることになっていたのに。 予定を午後からに変更したいという電話がリョーマから掛かってきたのは、前日の夜のこと。構わないけどなにかあったのとが聞いてみると、受話器越しのリョーマの声は笑った。 『試合することになったんだ、部長と』 どうして…とは驚きを隠さずに尋ねていた。リョーマからの返事は『さぁ?』で、どうやらその理由はリョーマにも解っていないようだった。 ただ青学テニス部レギュラーとは関係なく、手塚との個人の試合だということ。場所も学校ではなく、高架下のテニスコートでやるとのことだった。 『ぼくも、見にいってもいい?』 が問うとリョーマは『もちろん!』と答えた。 そしてその日――リョーマとはコートで待ち合わせて、は手塚とリョーマの試合を見た。 一方的だったわけでは、決してない。けれど試合が続くにつれて、リョーマの様子は明らかに変わっていった。 手塚の力を目の当たりにして、圧倒され、どう動いたらいいのか解らないといったふうに見えた。 やがて試合は終了した。リョーマが負けるという形で。 大石と連れだって帰っていく手塚とすれ違う。手塚はチラリとを見たがなにも言わなかったし、も手塚を見たが、なにを言ったらよいのか解らず、なにも言えないままふたりはすれ違った。 リョーマだけが残されたコートに、は静かに近付いていった。リョーマはコートに座り込んだまま俯いていて、なにやら考えているような様子だった。 「リョーマ……あの、お疲れ、さま――」 結局、そんな言葉しかは掛けることができなかった。座ったままだったリョーマは顔だけを上げてを見た。 「ああ、……」 まるでがいたのに初めて気づいたというような声が帰ってくる。 「……ゴメン」 力なく呟かれた言葉と、伏せられた瞳。といるときのリョーマは、いつもまっすぐにを見ていたのに。 はリョーマの傍らに膝をつくと、その腕に触れた。 「リョーマ……手塚は三年だし、部長だし、負けて当たり前だよ」 悪意なんてなかった。 そんなに落ち込む必要はないと、そう伝えたかった。 ただそれだけの気持ち、だったのに。 「、悪いけど」 スッとリョーマが立ち上がる。当然のように、の手から離れて。 「今日の予定はキャンセルしていいかな」 を見下ろすリョーマの目は、とても冷たいものだった。 解ったとか、いいよとか、なにか返事をしたのかどうかすら覚えていない。気づいたらは高架下のコートを離れ、どこへ向かうともなく歩いていた。 時間が経つにつれて、は自分がどれだけひどいことを言ったのかに気づいた。 誰だって負けるために試合をしたりはしない。勝つために頑張っていたリョーマに――負けたことを悔しがっていたリョーマに――『負けて当たり前』などと言ってしまうとは。 けれどどんなに後悔しても、一度口にしてしまったことを、なかったことにはできない。 「リョーマ……ゴメン」 呟いたの言葉がリョーマに届くはずもなく、その日の夜、の携帯電話が鳴ることもなかった。 次の日から、リョーマがの教室に来ることはなくなった。それまでは、毎日は無理でもなんとか時間を見つけては教室まで来てを誘って、一緒に昼休みを過ごすこともあったのに。 どうやら昼休みもずっと練習をしているのだということは、も図書室の窓から見て知ることができた。けれどリョーマが校舎を振り返ることはなかった。 一年と三年の校舎は違う。が図書室の窓からコートを見るのでなければ、リョーマの姿を見かけることもなくなってしまった。 ベッドの傍らに置かれた携帯電話。 一向に着信を知らせる気配はない。 眠る前に掛けてきて『おやすみ。夢のなかでもオレのでいてよね』なんて甘えた言葉を囁いてきたこともあったのに。 自分のほうから掛けてみようかと思わなかったわけではない。 でも以前、のほうから電話をしたとき、疲れて眠っていたリョーマを起こしてしまったことがあった。それを思うと、自分から番号を押す気にはなかなかなれずにいた。 いまは大会前の大事な時期で、手塚に負けたリョーマが練習の時間を増やしているのだということはにだって解っているのだ。 まさかそのために手塚がリョーマと試合をしたのではとないかとさえ思ってしまう。と遊んだりする浮ついた時間をなくして、テニスに集中させるために。 さすがにそれは考え過ぎだと思うし、手塚に尋ねる気にはなれなかったが。 だって、リョーマには頑張って欲しい。 自分のほうが年上なのだし、遊ぼうとしたリョーマを「試合前なんだから頑張って練習して」と諌めるくらいできないといけないのかもしれない。 (リョーマだって、頑張っているんだから――) 少しくらい会えないくらい我慢するべきだと自分に言い聞かせる。 本当に不思議だった。越前リョーマという存在は今年の四月に知ったばかりなのだ。しかも親しく会話するようになったのは、ここ一ヶ月のこと。 なのにこんなに、その不在が淋しいなんて。 がようやくリョーマと顔を合わせることができたのは、図書委員会の定例会でだった。 ふたり一組になって始まった蔵書整理で、は三年の特権をフルに活用して、リョーマと組んだ。 「、ゴメン。全然会いにいけなくて」 ふたりきりになった途端、申し訳なそうにと見つめながらリョーマがそう言ってきた。 は少しだけほっとする。もしかしたらリョーマはもうのことを嫌いになってしまったかもしれないという不安を、まったく抱かなかったといえば嘘になる。 「いいよ。いまは大事なときなんだから、頑張って」 悔しそうにうずくまっているリョーマなんてもう見たくない。リョーマにはいつも前を向いて、挑み続けて欲しい。 自分にできることは応援だけだけれど、だからこそ応援だけはちゃんとしたい。 微笑んだに、リョーマはすこし驚いたような表情で軽く頷いた。なにかもっと違うことを言われると思っていたような、そんな様子だった。 「じゃあ、さっさと片付けようよ、」 本棚に向き直ったリョーマを、は呼び止める。 「待って、リョーマ。はい、これ」 が差し出したのは、新版が入ったり、古くなって買い換えたりして、廃棄が決定している本や地図。 「このくらいの棚、ぼくひとりで出来るし。リョーマはこの本を焼却炉に持って行って燃やしてきて。そうしたら仕事終了ってことで」 「ちょっ、――いいの?」 「いいの、いいの。仕事はちゃんとしてるんだから」 言いながら、はリョーマの両手に本を次々と乗せていく。 「終わったら、練習に行っていいからね」 ひらひらと手を振って、は笑顔でリョーマを送り出す。 「うん。ありがと、」 リョーマも笑いながら頷くと、たくさんの本を抱えて歩き出す。 自分で送り出しておきながら、その小さな背中が遠ざかっていくのを、は淋しく思った。 (そういえば、リョーマって焼却炉の場所、知ってたっけ…?) しばらくして、はそのことを思い立った。図書室の窓から、そっと校舎裏を伺う。 (あ、解ってるみたいだな) 本を抱えてスタスタと歩いている小さなリョーマの姿を見つけ、はつい微笑んでいた。 作業に戻ろうとしたの耳に、確かにその黄色い声は聞こえてきた。 「あーっ! リョーマさまぁ!」 そこにいたのは、ふたりの女生徒。 (あれは、確か……) テニスウェアを着たひとりは、たぶん竜崎先生の孫だと解る。もうひとりは名前は知らないが、リョーマを応援している一年女子なのはも知っていた。 ふたりに呼び止められたリョーマは、本を置いて彼女たちとテニスを始めてしまった。 (なんで――) それ以上見ていることができず、は窓から離れた。 彼女たちと話しくらいするのは当たり前だと思いこもうとしても、自分だってもっと一緒にいたかったのにという気持ちが治まらない。 情けない気持ちを必死で振り払って、は本の整理に集中した。 すべての作業が終わったのは、五時を過ぎたあたりだった。図書室を施錠したあと、は昇降口へ向かう。 まだ運動部の練習が終わるには少し早い時間だ。コート脇で見学して、練習が終わったリョーマと一緒に帰れたら――そう思っては、男テニのコートへ向かった。 コートでは練習試合が行われているようだった。リョーマの相手は菊丸だった。ふたりとも楽しそうにコートを駆け回っている。 (やっぱりリョーマは、テニスをしてるときがいちばん楽しそうだ……) フェンスの向こう、リョーマの立っている場所は、からはとても遠い。まるで別の世界の出来事のように。 はリョーマを見ていることができず、コートに背を向けて、ひとり歩き出した。 |