タマゴの音色1




 父が家で古武術を教えているから、生活に道場があるのが日吉にとっては当たり前のことだった。
 部活が終わったあと、どんなに疲れていても夕食後は着替えて道場へ向かう。昼間は教室として何十人かの生徒が稽古をつけるここも、夜には誰もおらず、思う存分使うことができる。ひとりで形の稽古をすることもあれば、精神集中のために正座するだけの日もある。精神の鍛錬はテニスにも役立つからだ。
 道場はそれなりに声が漏れても迷惑にならないよう、家の裏手にあったし、隣接する隣の家は庭だった――数年前に、その庭に離れが建てられたのだが。
 正座をし目を閉じた日吉の耳に、微かにピアノの音が聞こえてきた。
(清香さんだな……)
 隣には、日吉の幼馴染みの姉弟が住んでいる。
 姉、清香は日吉より三つ年上の高校二年、弟のはひとつ上の中学三年になる。
 小学校に上がる前ぐらいのころだったか、一緒に遊んでいても稽古の時間だからと帰ってしまう日吉を見て、ふたりもなにか習い事がしたいと親にごねたらしい。そうしてふたりが始めたのはピアノだった。練習用にとわざわざ離れを建てたのは、の演奏があまりにも下手で、同じ家の下では聞くに堪えなかったからだと日吉は知っている。可愛くて大人しい姉に、確かに外見も性格もは似ていたが、器用なところだけは似ていなかった。
 その離れは、壁には音を吸収する素材を埋め込んで作ったそうなのだが、大きな窓もついていて、完全に防音されているとはいえず、ときどき、こうして漏れ聞こえてくる。だが、最近聞こえてくるのはとても上手な音だけだ。中学に入ってから、のほうはピアノをやめてしまったのだろう。なぜかは知らない。中学のことも――清香さんはいまは高等部へ進学してしまっているが氷帝学園に入学していたし、もそうすると思っていたのに――気がついたら青春学園へ入学していた。
 なぜ氷帝にしなかったのかとに問うと「あっちでやりたいことがあったから」と答えたのだが、それがなにかは教えてくれなかった。
 小さいころはいつも一緒に遊んでいたが、こうして学年が違ってしまえは生活も変わってくる。の『やりたいこと』は日吉には検討がつかなかった。清香さんとも、同じ学校とはいえ高等部では、会う機会もなく、のことを聞く機会はなかった。
のやりたいことってなんなんだろう……? 高等部も、氷帝に来る気はないんだろうか……?)
 ぼんやりと考えて、日吉はまったく集中できていなかった自分に気づく。これではなんの鍛錬にもならない。
 気を取り直して座りなおした日吉の耳に、もうピアノの音は聞こえてこなかった。どうやら清香さんは終わらせたらしい。清香さんの演奏が聴けないのは残念だが、精神を集中させるにはそのほうが都合がいいだろう。
 目を閉じた日吉の耳に、静寂が訪れる。雑念を払い、個を捨てる。
 無心になっていた日吉を突然引き戻したのは、甘い香りと楽しげな声だった。
「わーかーしー」
 能天気に人の名前を呼びながら、ドカドカと道場へ入ってくる音に、仕方なく目を開ける。開けなくても、それが誰なのかは解っていたけれど。
「ほら、差し入れだよー」
 日吉の前まで来ると、手にしていた紙袋を日吉の目の前でヒラヒラと揺らす――その人物の顔を日吉は睨み上げた。
「また邪魔しにきたのか――
「そんな言い方しないの。いらないの? 姉さんのマドレーヌ」
 紙袋のなかの甘い香りの正体は、今日はマドレーヌらしい――もちろん、清香さんの手作りの。
「いる」
 日吉が手を伸ばすと、は紙袋を持つ手を引いた。
「じゃあ、稽古つけてよ」
 そうなのだ――日吉が氷帝の中等部に進学したころからだったか、はこうしてときどき現れては、清香さんのお菓子をダシに、稽古をつけろとねだるようになった。
 最初のうちは、久しぶりに会えるのも嬉しかったし、が古武術をやりたいと思ってくれることが嬉しかった。けれどいつまでもこの状態では、いい加減日吉も面白くない。
「そろそろちゃんと習えばいいじゃないか? 月謝のことを心配しているのか?」
 父さんが教えている練習日に来いと何度も誘ったのに、が姿を見せることは一度もなかった。
 真剣にやる気もなく、ただ身体を動かしたいだけなら、その辺を走ってでもくればいいのだ。
「そうじゃないけど……その、母さんが嫌がるんだよ」
「どうして? もうピアノも辞めたんだろう?」
 日吉のように習い事がしたいと始めたピアノだったけれど、学年が上がるにつれ、身体を動かすことにも興味がでてきたらしく――小学校四年か五年くらいのときに、古武術も習いたいとが両親に頼んだことを知っている。けれどそのときは、指を怪我したらピアノが弾けなくなるからどちらかにしなさいと言われ、結局はそのままピアノを選んだのだ。
 けれどもう辞めたのだから、反対される理由はないはずなのに。
「え? ああ、うん……」
「だったら――」
 いい加減習えばいいじゃないかと再び言おうとしたときだった。
「若さん? こちらにいらっしゃるの――」
 足音もさせずに近づいてくる女性の声。
「あら、さん、いらしてたのね」
 道場に姿を現したのは、和服姿の涼しげな目元をした女性――似ているとよく言われる、日吉の母親だ。
「こんばんは、おばさん。勝手にお邪魔していてすみません」
 は日吉の母にきちんと頭を下げて挨拶していた。
「ちょうど良かったわ。祥風堂の味噌松風いただいたの。持っていって」
「それって京都のヤツですよね? すごい! いただいちゃっていいんですか?」
「ええ。いま若に持っていかせようと思ってきたところだったのよ。でもせっかくいらしてるんだから、帰るまえにお茶を点てましょう。いらっしゃいな」
 母親はの返事を聞く前に身を翻して歩き出していた。日吉家で最強なのは古武術の師範である父ではなく、この母なのである。
「じゃあこれは明日のおやつにでも食べてよ」
 紙袋を押し付けるように手渡し、母の後を追っていってしまったを見送ると、日吉は軽くため息をついて、道場の片づけを始めた。


「なんかいーニオイがするー」
 そう言いながらジローが鼻をクンクンとさせたのは、次の日の朝練終了後、部室でのこと。
「これだ! 日吉の鞄から甘いニオイがする〜!」
 いきなり近寄ってきてそう言われたら、さすがに隠しておくことはできなかった。
「あ……どうぞ」
 日吉が鞄から取り出したのは、昨日が持ってきた、清香さんの作ったマドレーヌだ。袋を開けて、そのなかからひとつを取り出してジローに渡した。
「いいの〜? 手作りじゃん! 女の子にもらったものじゃないの?」
 きちんとひとつずつ包まれてはいるものの、お店の名前の入っていないお菓子は、明らかに手作りと分かるだろう。
「隣に住む幼馴染みですよ。お菓子作りが趣味の人なんで――」
「人って言い方したってことは――年上だ! 誰、誰? 氷帝? 三年にいるの?」
「いえ、氷帝ですけど、いまは高等部ですよ」
 ジローとの会話を続けていた日吉に、ふと視線を向けたのは忍足だった。
「日吉ん家の隣……? 日吉ん家は確か古武術の道場やったよなぁ?」
「そうですけど」
「じゃあ、その幼馴染みって、先輩か?」
「え――忍足先輩、知ってるんですか?」
 俺ももろてもええ? と忍足に言われ、驚いたまま日吉は袋のなかのひとつを手渡す。おおきにと、礼を言って受け取った忍足は、部室にいるみなに聞こえるように、日吉の疑問に答えた。
「っていうか三年はみな知っとるやろ? 俺ら一年のときの生徒会副会長やん」
「あ! ああ、あの“キレイなお姉さん”!」
 忍足の言葉に、いちばんに反応を示したのは岳人だった。
「へ〜、あの人が作ったお菓子なら俺も食ってみたい。日吉、くれよ〜」
 袋の中身は残り三つ。けれど目の前に差し出されている先輩の手に下克上するわけにもゆかず、日吉は再び袋のなかのひとつを岳人に渡した。
「やったぁー! サンキューな、日吉!」
 岳人は飛び上がって喜んだ――と思ったら、次の瞬間にはもうマドレーヌを口に入れていた。
「うわ、これウマー!」
 岳人の言葉に、部室にいる正レギュラーの視線が次々と日吉に向けられる。
「なぁ、日吉。俺にも――」
 いちばん近くにいた同じ二年である鳳が掛けてきた声を無視するように、日吉はいつもなら丁寧にたたむユニフォームを慌しくバッグに詰め込んで、部室を後にした。
「ちぇ、日吉のヤツ……」
 残念そうに呟いた鳳の背中を、宍戸が叩く。
「なんだよ長太郎、お前だって、差し入れくらいもらうだろうが」
「そうですけど、手作りはちょっと。なにが入ってるか分かりませんから、食べませんよ」
 受け取りませんよ、ではなく、食べませんよという言葉に少々腹黒いものを感じるのは宍戸の気のせいだろうか。
「まぁそのほうがええよな。味よりも衛生的な問題があるやろ? 試合前に腹壊したりしたら最悪やん――」
 なぜかこの話題にノリノリな忍足とは対称的に、聞こえていないかのように無反応な人物がひとりだけいた。もちろんみなもそれに気づいてはいたのだけれど、下らないと判断してのことだろうと思っていたのに。
「――なぁ、跡部?」
 忍足がその名前を呼んだのに、跡部は先ほどの日吉と同じように、忍足の声を無視して樺地に声を掛け、部室を出て行った。静まり返った部室内で、残された部員たちの視線は自然と忍足に集まることとなる。
「なぁ、侑士。お前なにか知ってんの?」
 沈黙を破って忍足に尋ねたのはやはり岳人で。
「まぁ、それなりに」
「ズルイ! 教えろよ〜!」
 もちろん忍足もそう言われると解っていてふった話題だ。少しもったいつけた調子でニヤニヤと笑った後、簡潔に言うとやな……と忍足は話し始めた。
先輩の手作りケーキを前にして、跡部がそれを理由に断ったんや」
 それは二年前の文化祭の後、生徒会執行部と文化祭実行委員の打ち上げの席でのこと。跡部は生徒会の書記で、忍足は実行委員だった。
「たぶん『食べてくれないの?』とか先輩に涙目で言われるの期待してたんと違う? で、でもお前のやったらとか、カッコつけて食べる気ィやったんと思うわ。けどなぁ――」
 忍足の言葉が途切れたのは、思い出し笑いを始めたせいだ。
「ああ、もう侑士! 早く続き教えろよ!」
 岳人が忍足の腕を何度も叩いて、先を急かす。
「それがなぁ――先輩、笑ったんや。『じゃあ跡部くんの分もわたしが食べよー』てな」
「それって……」
 残っているレギュラーメンバーから笑いが零れる。宍戸ですら「ダセェ」と呟いて笑っている。
「ま、あんときのケーキも美味かったし、コレも期待大やなぁ」
 忍足はもらったばかりのマドレーヌを大事そうに鞄にしまう。
「なんか食べるのもったいない気がしてきたー」
 もらえたジローも嬉しそうに言う。
 もらえたけどすぐに食べてしまった岳人はもっと味わって食べればよかったと後悔していたし、もらえなかったメンバー――特に鳳は――次こそチャンスを逃さずにもらうぞと決意していた。
 すでに教室へ向かっていた日吉はそんなことを知る由もなかったが、先輩たちに取られないためにもう二度と学校には持ってこないと歩きながら強く誓っていたのだった。