タマゴの音色2




 の朝は早い。
 といっても、彼がするのは自室の窓から外を眺めることだけだ。早朝稽古のために道場へ向かう日吉の姿を、レースのカーテン越しに眺めるだけ。
 日吉の通う氷帝学園はここから徒歩圏内にある。そしての通う青春学園は、電車に乗って駅ふたつほどの距離だ。それぞれ学校による特色はあれど、学力のレベルは等しく高い。学費に関しては確かに氷帝学園のほうが高いが、姉もも幼稚舎からずっと氷帝だった。外部入試よりははるかに簡単な推薦入学で中等部に上がれるのに、青春学園中等部の入学試験を受けてみたいと両親に話したのは、にとっても大きな賭けだった。
『氷帝ではダメなの?』
 案の定両親、特に母はいい顔をせず、そう尋ねてきた。もちろんも氷帝学園に不満があったわけではなかったから、両親に反対されたら諦めようと思っていたのだ。が青学を選んだ理由は、とても両親を納得させられるようなものではなかったから――いや、それ以前に、口に出せるものですらなかった。
(――若の姿を見ていたくないから、なんて)
 ちょっと言ってみただけ、と両親との話し合いを終わらせたはずのの間に入ってきたのは、姉の清香だ。
がやってみたいって言ってることだし、やらせてみたら? 青学の受験に失敗したら、このまま氷帝に通えばいいのよ。もし合格できて、行ってみた青学がの考えと違ったら、高等部はまた氷帝に戻ってくればいいわ。外部入試になるからその分難しくはなるけど、でも、いろんな経験をしておくのは悪くないでしょ?』
 微笑んだ姉に、両親も考えを動かされたようだった。合格したら好きにしなさいと、最終的にはの青学行きを認めてくれた。それから一生懸命受験勉強に取り組んだは、無事、青学の生徒になった。
 そして一年後――『青学はどうなんだ? 氷帝よりいいのか?』とに尋ねてくることもなく、日吉はそのまま氷帝の中等部へ進学した。青学のテニス部だって氷帝に劣らないくらい強豪だというのに、日吉には他の選択はありえないのだ。
(当たり前か……若は、姉さんしか見てないんだしな)
 弟の自分がいうのもなんだけれど、姉は美人と言われてもおかしくない容姿だと思う。勉強もできるし、手先も器用ですぐになんでもこなしてしまう。ピアノも、お菓子作りも。その上明るくて、とても優しい。不器用なが失敗するたびに、姉はいつも優しくフォローしてくれる。
 弟の目からみても完璧な姉に、憧れないでくれというほうが無理な話なのだ。
(若、おはよう……)
 道着姿の日吉が母屋の廊下から道場へ向かう姿を眺めながら、は声に出せない言葉を心のなかで呟く。向こうからは気づかれないように、窓から少し離れて、レースのカーテンを閉めたままで。
 日吉の姿が完全に道場へと消えてから、はゆっくりと身体を伸ばした。
「さて、きょうも一日、頑張りますか」


「昨日マドレーヌを作った確立、78%」
 昇降口で屈んで靴を取ろうとしていたの頭上から、聞きなれた声が響く。
「おはよう、乾。そんなに逆光ですごまなくても、ちゃんと乾の分も持ってきたよ」
 乾が上履きに履き替えるのを待って、ふたりは同じ教室へと向かって歩き始めた。乾とは三年になってから初めて同じクラスになったのだが、一年のころから互い見知った存在となり、仲良くなっていた。
「そうそう、。きょうの昼休み、またいいかな?」
 乾はそう言って手にしていた紙袋を掲げて見せる。
「いいよ。じゃあ後で鍵借りてきておく。で、きょうはなにを試すの?」
「体力回復と美容を兼ねた新作。トマト、にんじん、赤ピーマン、リンゴ、バナナ、きなこ、タバスコ、赤唐辛子――」
「ちょ、ちょっと待って乾! それ、どう考えても味が……」
「いいんだよ、ちょっとした罰ゲームも兼ねてるからね」
「なら、いいけど……」
 身体に悪いものではないとはいえ、それらが一度に混ざった味は想像しがたく、そんなものを飲まされるテニス部員たちが哀れに思えてくる。だからといっては彼らとはほとんど面識がないので、積極的に乾を止める気も起きなかった。
 もちろんいろんな意味で有名な現テニス部のレギュラーの名前と顔くらいはも知っているけれど、一学年で11クラスもあるマンモス校なおかげで、乾以外のテニス部のメンバーとは同じクラスになったことすらないのだ。
「あ、生のニンジンはビタミンC分解酵素があるから、一度茹でて使ったほうがいいかも」
「ありがとう。のアドバイスはいつも的確だから助かるよ」
 ある意味、もテニス部のレギュラーの不幸に一役かっているのかもしれない。
「で、。きょうの料理同好会はなにを作る予定なんだい?」
 並んで歩きながら、乾はの手にしている紙袋を覗き込むようにして尋ねた。
「きょうは新入生に包丁の使い方に慣れてもらいたいから、ポテトサラダ。ほんとは肉じゃがにしたいんだけど、予算がね〜」
「同好会も大変だな」
「でも新入生が三人も入ってくれたからね、嬉しいよ」
 話しながら歩いていたふたりが、そろそろ11組の教室へ着こうというときだった。
くん! お願いがあるの!」
 を見つけるなり駆け寄ってきた女生徒は、挨拶もなく突然用件を告げる。
「きょうの合同練習、伴奏頼めない? ね、お願い!」
「え…?」
 手を合わせて頭を下げる彼女のことは、もよく知っている。クラスは違うけれど同じ三年の、合唱部の副部長だ。
「わたしはもともと予定が入ってたから行けないってことになってたんだけど、代わりにやってくれるって言ってた向こうの伴奏の人が、コンクールのレッスンが入ったから出れなくなったって急に連絡があって……」
 必死の言葉と、最終兵器“涙ながらの上目使い”に勝てるはずもなく。
「――分かった。ぼくで、役に立てるなら」
「ホント! ありがと〜! じゃあ、すぐ楽譜取って来るね!」
 嬉しそうに彼女は駆け出してゆく。
 その背中を目で追っていたの隣で、クスリと笑い声が聞こえる。
「まったく……押しに弱いな、は」
「言うなよ。どうやったらアレに逆らえるんだ?」
「そうだな、今の場合、俺でも断れる確立は63%だな」
「なにその微妙な数字。でも……乾なら断るんだ?」
「そりゃあ、いまは自分の練習が大事だからね。と違って合唱部の手伝いをしてきたわけでもないし」
「でもほら、合唱部の子たちは歌いたくて入部するわけだし、練習のとき、たまにでいいから代わってくれって言われたら、やっぱり断れないよ。ぼくは同好会だから、そんなに忙しくもないし……」
「いいんじゃないか。俺もの好意に甘えて、調理器具を使わせてもらっている身だしね」
 一年のときから料理同好会に所属してきたと乾が知り合ったのは、乾が調理器具を借りにきたのがきっかけだった。クラスは違ったけれど研究熱心な乾と、勉強熱心なは話も合って、仲良くなったのだ。
 教室に入り席についてから、は鞄を開けて小さな紙袋を取り出す。
「はい、これ乾の分。この間試食してもらったときのアドバイスを参考にして、さらに甘さ控えめにしてみたんだ」
「そんなに気を遣わなくても、の作るものはなんでも美味いと思うけどね」
 ありがとうと礼を言って受け取った乾は、意味あり気に笑みを浮かべる。
「ところで、?」
「ん、なに?」
 呼ばれたが顔を上げると、乾は少し屈んでの耳元に低く囁いた。
「幼馴染みは喜んでくれたかい?」
 思い切り含みのある乾の言葉に、は気の抜けた笑みを返した。
「……さぁ」
「まだ言ってないのか?」
 乾の目が少し鋭くなったのを、見えなかったけれどその口調からは感じ取った。
「……言えないよ。あいつは男がお菓子作ってるなんて気持ち悪いって言ってたし、それに――姉さんからだって言われたほうが、嬉しいと思うし……」
「嘘はいつかバレるぞ。というか、隣に住んでいてバレないのが不思議なくらいだ。お姉さん、彼氏がいるんだろう?」
 それはそうなんだけど……は呟く。
「でも、姉さんのことは憧れだって言ってたから、告白する気はないんだと思うよ。だから――いつか自然と忘れるだろうし、それならわざわざ知らせなくたって――」
 小さいころから、姉はよく手作りのお菓子を作ってくれた。一緒に遊びながら、日吉はとても美味しいと嬉しそうにそれらを食べていた。姉は日吉が甘いものがあまり好きではないのを知っていたから、特別に甘さ控えめのものを作っていたのだ。
 日吉の喜ぶ顔が見たくて、も姉から教わってクッキーを焼いてみたけれど――初めて作ったそれは、形も味も、食べられないことはないけれど、くらいの出来で、とても家族以外の人間が食べてくれるとは思えないシロモノだった。
 でも、だからこそ何度も頑張ったのだ。きちんと分量を量り、時間と温度を確かめ、ようやく姉の作ったのと同じと思える出来栄えのものができたとき、はいちばんに日吉のところへ持っていった。
『わかしー、コレ食べて』
 日吉はの作ったクッキーをとても嬉しそうに食べてくれた。けれどその表情は『それ、ぼくが作ったんだよ』と告げた途端、消えてしまった。笑えない冗談だなと、冷たく睨まれた。
 だからは、笑って『バレたか』と冗談にするしかなかった。
がそれでいいんだったら、俺にも言えることはないけどね。けどなにかあったら――」
 乾の優しい言葉に、は軽く握った拳で乾の胸をトンと叩いて答えた。
「うん、相談する。頼りにしてるよ」
くーん!」
 楽譜が挟まっているらしいファイルを手に、さきほどの女生徒が戻ってきた。
「じゃあ、コレとコレ。くんにお願いしたこともある二曲だけだから、大丈夫だよね?」
「うん、分かった」
「じゃあ、ホントありがとう。今度お礼する!」
 現れたときと同じく慌しく去っていこうとした彼女を、はあることに気づいて慌てて呼び止めた。
「ちょっと待った! その合同練習ってどこと? 場所は?」
「あれ、その肝心なことをまだ言ってなかったっけ?」
 ゴメンゴメンと自分の失敗を笑いながら、彼女はあっさりと告げた。
「氷帝とだよ。場所は向こうの音楽室だから、よろしくね!」