タマゴの音色3




 幼稚舎まで通っていた自分がいうのもなんだが。
「広すぎる……」
 その日の放課後、氷帝学園中等部に足を踏み入れたは、ついそう呟いていた。
 最初からここだと知っていたら、できる限りの言い訳を並べて断っていただろう。けれど一度引き受けてしまった以上、それは無理なことだった。
 だからは最後の手段として、料理同好会に顔を出したいから、十五分だけ時間をくれないかと頼み込んだ。それと青学から氷帝に移動する時間を含めれば、日吉はすでにテニスコートに移動して練習中だろうし、女子合唱部の集団に男ひとりという、なんとも居場所のない状況でぞろぞろと歩くのを回避することもできる。
 でもやはりいちばんの理由は、日吉に知られたくないということだった。
 がいまもピアノを続けていることも、隠す必要はないのかもしれない。でも日吉にピアノを辞めて古武術を習うんだろうと言われ――もいつかそうしたかったから、だからそのうち辞めることになるだろうと思っていたのだ。けれどそんな状態のまま、結局三年も続けてしまっている。
 生徒会の仕事が忙しくなったと姉がピアノを辞めたことを、日吉に言わなかったのもまずかったのかもしれないが、どうせ自分も辞めるだろうと日吉の誤解を解かなかった自分の行動がいちばん悪かったように思う。
 続けてきたら最初はヘタだったピアノも自然と弾けるようになってきて、いまでは面白くなっている。辞めるのにも未練がでてきたのだけれど、いまさら日吉に弾いているのは自分だとは言い出しづらかった。
 相手の名前と性別は伏せて、ただ幼馴染みとだけ言って乾に相談したのだけれど、続けたいなら真実を話したほうがいいというのが、乾の答えだった。
(その通りなんだけど、タイミングがなぁ……)
 音楽室は正門から入って右奥の建物だと聞いていたので、はレンガの敷かれた歩道を路なりに歩いてきたのだが、建物と建物の間が広く、背の高い樹木が並んでいて、その下には白いベンチがあってと、公園のような場所を歩いているうちに、本当に目的地に向かっているのか不安になってきた。
「迷って、はいないはずなんだけど……」
 ただでさえ時間を遅らせてもらっているのだから、これ以上遅刻するわけにはいかない。ヘタに歩き回るよりは聞いたほうが早いだろうと、ちょうど通りかかったユニフォーム姿の長身の男子生徒を、は呼び止めた。
「すみません、青学の合唱部の者です。合同練習に来たんですけど、ちょっと迷っちゃって。音楽室はどこですか?」
「音楽室? ああ、音響室のことですね。特別教室棟の四階になります。よかったら案内しますよ、こっちです」
 人の良さそうな笑みを見せた男子生徒が歩き出したのは、いままでが向かっていた方向で合っていたから、どうやらの取り越し苦労だったようだ。けれど、やはり広すぎて建物の入り口もすぐには解らなそうだから、案内してもらったほうが安心だろう。
「部活中なんですよね? すみません」
「いいえ、俺も先輩を捜してる途中なんで、一通り校内を見てこなくちゃいけないんですよ」
 隣を歩く彼のユニフォームを見ながらが言うと、彼は本当に気にしていないというようなさわやかな笑顔で答える。
 先輩を捜しているということは、彼は三年生ではないらしい。より背が高いから同じかと思ったのだが。さすがに一年ということはないだろうから、二年生だろう。
「この広い校内で人捜しなんて、大変ですね。どこにいるか解らないなんて、忙しい人なんですか?」
 の問いに、彼が苦笑を漏らした。
「いえ、そうじゃなくて――あ、いた!」
 彼は進行方向のすこし先、木陰のベンチで横になっている人影を指した。
「あんなふうに、どこででも寝ちゃうんです」
 再び笑って、ちょっと起こしてきますと彼は走り出した。
「ジロー先輩、起きてくださいよ。跡部部長が捜してますよ」
「えー、あー、なんだ鳳か〜。ん〜、あとでね」
「それじゃ困りますって。ジロー先輩をつれて戻らないと、俺も練習させてもらえないんですから」
 そんなふたりのやりとりを聞きながら、も近づいていく。鳳と呼ばれた彼にこのまま案内してもらうのでは、も彼の練習時間を減らしてしまう一因となってしまうのだから。
「えーっと、この先の右の建物でいいんだよね? じゃあぼくも行くよ。ここまで案内してくれてありがとう」
 が鳳に声を掛けると、その背後からジローと呼ばれていた彼が、その髪をふわりと揺らしながら顔を出した。
「あー、いーにおいする〜」
 まったく初対面の相手に、にっこりと嬉しそうに微笑まれて、は驚いた。けれどすぐに、その彼の言葉の理由に思い当たる。
「よかったら、どうぞ。甘さ控えめにしてあるから、物足りないかもしれないけど」
 は鞄からマドレーヌの入った袋を取り出して、ジローに手渡した。同好会のおやつにしようと思って持ってきていたのに、作業手順だけ指示してこっちに来てしまったから、鞄に入れたまま忘れていたのだ。
「嬉しい! ありがとね〜」
 飛びつくようにから袋を受け取り、ジローはすぐに取り出して食べ始めた。
「美味しー!」
 満足そうな笑みを見せながら柔らかそうな髪をふわふわと揺らすその姿は、まるで大型犬を見ているような微笑ましい気分にさせられる。それにやはり、自分の作ったものを美味しいと笑顔で食べてもらえるのは嬉しいことだった。
 そんなの視線の先で、ジローが不意に食べるのをやめ、考えるような表情を見せた。
「あ……これ、今朝日吉にもらったのと同じ味……?」
「えっ? 若の知り合い?」
 ジローの口から出たその名前に、は思わず尋ね返してしまう。
「ええ、俺たち、日吉と同じテニス部ですから」
 答えたのはの横に立っていた鳳のほうだった。
(まさか、テニス部だったなんて――)
 日吉が家からユニフォームを着ていくことはなかったとはいえ、幼稚舎まで氷帝に通っていたときに見ていたはずなのに、テニス部に縁のなかったはすっかり忘れていた。
「なんだ日吉の友達だったんだ――あれ? マドレーヌは確か、高等部の先輩が作ったって言ってたけど……」
「そ、そう。作ったのは姉さんで……ぼ、ぼくはそれを持ってただけだから」
 鳳の疑問に、は慌てて誤魔化しの言葉を選んだ。そんなの焦った様子にも、鳳は気づかなかったようだ。
「そうなんだ。あ、ジロー先輩、俺にもくださいよ」
 鳳はジローへ向き直ると、手を出していた。
 鳳の口調が砕けたものに変わったのは、日吉の友達ということでのことを同じ二年だと思ったからだろう。けれどわざわざ説明して訂正するのも、面倒なだけだ。
 鳳に手を差し出されているジローは、袋を抱え込んで「えー」と不満そうに答えていた。
「じゃあ、ぼくはこれで」
 退散を決め込んで、がその場を離れようとしたときだった。
「鳳――! ジロー先輩は見つかったのか――?」
 背後から聞こえてきた聞きなれた声は、がいま、いちばん聞きたくない声だった。


っ!? こんなところでなにをやってるんだ?」
 を見つけた日吉は予想通り不機嫌そうな声を上げた。
 逃げ出そうにもすでに距離はなく。
「えーっと、まぁ、その……」
「やっぱり日吉の友達だったんだ。音響室に案内してるところだったんだ。合唱部の合同練習に来たんだって」
 答えを見つけられず言葉を濁していたに代わって、鳳が口を開く。
「合唱部? あそこは女子だけだろう?」
「そういえば――」
「合唱部の子が! 楽譜――そう、楽譜忘れたから、届けて欲しいって! パシリなんだな。まぁほら、ぼくなら家も近いしさ」
 鳳と日吉の間で交わされていた会話に、は強引に入り込んだ。
「ほら、だから急いで届けないと! 若、案内して」
「なんで俺が」
「ぼくが困ってるんだから助けてくれたっていいだろ。入り口まででいいからさ」
 それ以上はついてこられたら逆に困るのだけれど、とにかくこの場で会話を続けないほうがいいだろうと、は強引に日吉の腕を取る。
「おい、!」
「行ってきなよ、日吉。ジロー先輩は俺が連れて行くし、跡部部長にはちゃんと理由言っておくからさ」
「あ、ここまで案内ありがとな」
 が礼を言うと、鳳はしっかりとマドレーヌを二個掴んだ右手を軽く振って「ごちそうさま」と答えていた。
 いまだ渋る日吉の隣を、は黙りながら歩いた。
 会いたくない。そう思ったからこそ会わないように時間をずらしたのに、結局会ってしまった。それなのに――こうやって隣を歩くことができて、やっぱり嬉しいと思っているなんて。
「なんだ、?」
 の視線に気づいて、日吉が険しい目線を向けた。
「いや、その……ソレ」
 所在無げに、は日吉を指差した。
「は?」
(道着もいいけど、ソレも似合っててカッコイイ――なんて言えるかっ!)
「テニス部のユニフォーム。見たことなかったから、さっきの人たちがテニス部だって、気づかなかった」
 事実だけを口にすると、日吉はさらに不機嫌そうな様子で視線をそらせた。
「悪かったな、コレを着れるようになったのがつい最近で」
「へぇ、そうなんだ? 二年にならないと着れないの?」
「まったく――なにも知らないんだな」
 日吉の口調は、あきれ果てたとでも言いたいようなもので。
「な、なんだよ」
「……このジャージはテニス部のレギュラー用だ。正レギュラーと準レギュラーしか着ることができないんだ」
「そっか。若、すごいんじゃん。じゃあ今度試合見に行こうかなー」
 それは自然に口をついて出た言葉だった。確かには、姉に憧れる日吉を、一学年下の友達と一緒にいる日吉を見ていたくなくて、違う学校を選んだ。けれど元はといえばそれは、自分がいつも、こんなふうに日吉の隣にいたいという願望が強すぎたせいだ。だから届かないと解っていても、やはり日吉の姿を見ていたい。
「……本当に、はなにも知らないんだな」
 静かに呟いて、日吉は足を止めた。不思議に思ったが振り向くと、日吉は侮蔑すら含んでいそうな瞳で、を見下ろしていた。
「関東大会の初戦――ウチと対戦するのは青学だ」
「え……?」
「青学のに、見に来て欲しくなんかない。の応援はいらない」
「そ、んな――」
「特別教室棟はそこに見えてる。俺は練習に戻る」
 日吉が軽く手を上げて指差した、その方向をが見た隙に、日吉はに背を向けて走り出していた。
「若っ!」
 の呼び声に、日吉が振り向くことはなかった。