タマゴの音色4




 ピアノを弾くのが嫌いじゃなくなったのは、弾いている間は、夢中になれると解ったからかもしれない。目と耳と指先を使って曲を奏でるときに、余計なことを考えてる余地はなくなる。けれど弾き終えたあとは、思い出してしまう――忘れたいことを。
『――青学のに、見に来て欲しくなんかない』
 日吉は厳しい。自分にも他人にも。
 いつも上手く伝えられなくて戸惑ってしまうと違って、はっきりと物を言う。そこが憧れだった――いや、いまも憧れている。でも――……
(素直に氷帝に入っていれば良かったのかな……)
 姉ばかり見ている日吉から逃げるために、青学を選んだ。けれど本音は――どこか期待していたのかもしれない。傍を離れたら、彼がのことを気にしてくれるかもしれないと。
(そんなの、解りきった結果だったのに……)
 確かに日吉は、が青学に入ったと教えたとき驚いてはいた。なぜ氷帝にしなかったのかと尋ねられた。でも……それだけだった。
『――の応援はいらない』
(どうすれば、いいんだろう――……)
くん――くん?」
 合唱部の子に呼ばれ、は顔を上げた。見れば合唱部の生徒たち全員と、指導してくれている指揮者の教師までこっちを見ている――まだ練習の途中だったのだ。どうやら呼ばれていたのに気づかなかったらしい。
「すみません!」
 は慌てて頭を下げた。
「最初からだ――いいか?」
 指揮者の教師は余計なことは言わず、指示を出してきた。
「はい」
 返事をして気を入れ替えると、は鍵盤に指を置く。いま必要なのは、指揮者を見て、弾くことだけだ。やがては吸い込まれるように、ピアノを弾き始めた。
「今日はここまでとしよう――解散!」
 指揮者の教師からそう声が掛かったのは、すでに周囲が薄暗くなる時間だった。は言われるがままに引き続けた。いつもならこれだけ長い時間になると集中力が続かなくなるのだけれど、今日は疲労感もさほどなく、逆に頭がすっきりとした感じがするのは不思議だった。楽譜を片付けようと立ち上がると、の横に人影が立つ――指揮をしていた教師だった。
「音には感情が表れる。迷いをぶつけて弾くといい――昇華されるだろう」
「え……あ、はい……」
 突然のことに驚きつつもが返事をすると、教師は踵を返して立ち去っていった。
くん! 太郎さまになにを言われたの?」
 教師が扉を閉めたと同時に駆け寄ってきたのは青学の合唱部の女生徒たちで。
「え…? 太郎さま……?」
「さっきの――氷帝の音楽の先生よ! 榊太郎先生」
「あ、あの……」
 戸惑っているに、氷帝の女生徒までも近づいてきて言った。
「榊先生にアドバイスもらえるなんて、滅多に無いのよ。よかったわね」
「あ……うん、光栄です」
 その場は勢いに押されるままにそう答えたものの、榊の言葉の意味は解らなかった。けれどその言葉はの心に残っていた。そしてその日の夕食後――は離れのピアノ室へと向かった。
(迷いを、ぶつけて――)
 特に意識したわけではなかったけれど、思うままに二、三曲引き続けた。そして――すべて弾き終わったとき、いつもよりも気持ちがすっきりとしている気がした。
(どうすればいいかなんて、初めから解ってた――)
 窓の外を見ると、日吉家の道場に明りがついているのが見えた。
(ただ、その勇気がでなかっただけで)
 は立ち上がってピアノの蓋を閉める。
(若に本当のことを、ちゃんと話そう)
 離れを出ると、は日吉家との境である生垣の、子どものころから使っていた細い隙間を抜けて、道場へ向かった。
「若、いる?」
 いつもなら勝手に入ってしまうところだけれど、今日は覚悟を決めるために、ノックをしてから扉を開けた。
 日吉は――いた。板張りの床の上で、きっちりと姿勢を正して正座をしている。その目は閉じられていた。の声やノックの音が聞こえなかったはずはないのだが、日吉はその姿勢を崩そうとはしない。
 歓迎されていないのは解っていた。でも、だからこそ、逃げ出さずに伝えたい。
「若――ねぇ、話があるんだ」
「邪魔するな。試合前のイメージトレーニング中だ」
「ごめん、でも――」

 日吉は名を呼んでの言葉を遮ると、ようやく目を開けてを見た。そして――言った。
「清香さんのピアノの音が精神集中にいいみたいだ。さっきみたいに毎晩弾いてくれるように伝えてくれないか?」
 どこかで、なにかが壊れる音が聞こえた気がした。
「……うん、分かった。伝えとくよ」
「それで? 話ってなんだ」
「えっ……?」
 そう、話があると言ったのだから、そう聞かれるのは当然のことだ。
「あ――試合。見には行かないけど、若を応援してる。学校は違っても、若を応援するよ――いい、だろ?」
 咄嗟に思いついたにしては上出来だ――どこかで別の自分がそう言っていた。
「……分った。じゃあ、修練に戻らせてくれないか」
「うん……邪魔して、ごめん」
 扉を閉める最後の瞬間まで、ちゃんと笑えていたと思う。


 日吉に言われたとおり、は毎晩離れでピアノを弾いた。日吉のためだからと自分を奮い立たせても、以前のような気持ちでは弾けなくなっていた。弾き終えた後は、ひどく疲れて、頭が重かった。
 やがてやってきた週末――空いた時間にピアノを弾く気にはなれず、はもうひとつの趣味に没頭することにした。幸いなことに、セールのチラシが入っていたのだ。
「だからって、買いすぎた、かも……」
 卵と小麦粉と砂糖――学校で使う分と自分が試作する分と、買物に行くと知った母に自宅用にもと頼まれた分を合わせると――右手の分と左手の分、合計10キロは越えているだろう。
 このくらい平気だと店を出たときは思ったのに、歩き始めてしばらくすると、荷物の重量が増してきたような気がしてくる。ちょっと一休みしたいと立ち止まったけれど、さすがに地面に買ったものを置く気にはなれず、立ち尽くしてしまった。
「あれ…?」
 の脇を追い抜いて行こうとした人物が、足を止めて振り返った。その声に、も顔を上げる。
「あ――確か、この間の」
 広すぎる氷帝学園内で迷子になりそうだったを案内してくれたテニス部の二年生だ。名前は――聞いたような気もするが思い出せない。
「この間はごちそうさま。すごい荷物だね、持つよ」
 そう言うと彼はが右手で持っていたほうのビニール袋へと手を伸ばしてきた。
「いや、悪いよ」
 氷帝学園の制服を来た彼は、右肩に大きなラケットバッグを担いでいるのだし。
「俺もちょうどこっちに行くんで、ついでだから」
「あ、でも、その……」
 それにそう、買ったものをあまり見られたくない。そう思っては断ろうとしたのだけれど――人の良さそうな笑みを浮かべ、彼は半ば強引にの荷物を持った。
「あ、の……ホントにいいの? 重くない?」
 5キロは越えるその袋を軽々と持って歩き始めた彼に並んで、も再び歩き始めた。
「全然。トレーニングにもなるし――」
 彼は軽々とビニール袋を持ち上げてみせる。その目線が自然と袋の中を見た。
「これって、砂糖と小麦粉…?」
「ん――ああ、姉さんに頼まれて。この先に安売りしてるとこあってさ」
 嘘をつくのが上手くなっている気がした。だからといって嘘をついたときに感じる胸の痛みには少しも慣れることはないのだけれど。
 俯いてしまったの頭上から、鳳の静かな声が降ってきた。
「こないだの……きみが作ってたんだよね?」
「え…」
「隠さなきゃいけないことなの? 別に変なことじゃないと思うけど」
 思わず足を止めて鳳を見上げていたに、鳳はニッコリと笑った。
「あっと、いまさらだけど、俺は鳳長太郎。日吉とは同じクラスになったことないけど、部活は一年のときからずっと一緒なんで」
 だからってすごく仲いいってわけじゃないんだけど――笑う鳳に、すっかりの気も楽になった。
「あ、ぼくはです。若とは家が隣で、幼馴染みで――いま、ぼくは青学に通ってるんだけど――」
 改めて自己紹介をして、自分が料理部の部長であることも話した。合唱部はたまに手伝いで参加してるということも。すべてを聞いた鳳が、急に真顔になっておずおずと尋ねてきた。
「同じ学年かと思ったんだけど、もしかして違う…?」
「三年だけど、気にしないで」
「いえ、気にします!」
 すみませんでした! と鳳は深々と頭を下げて、それ以後はきっちりと敬語で話してきた。それでも、その優しそうな印象は変わらず、はすっかり鳳に打ち解けて、お菓子作りやピアノを弾いていることは日吉には隠しているということまで話していた。
「だって、変じゃないか?」
「どうしてですか?」
「男だったら普通スポーツやるだろ? 料理とかピアノとか、女子のするものって感じがするし……」
「そうですか? シェフとかパティシエって、普通男の人じゃないですか? ピアニストも、女性より男性のほうが有名な方が多いと思いますけど」
 が自分から打ち明けたのは、乾以外初めてだった。けれど鳳は本当になんでもないことのように返してくれたのだ。
「そっか……ありがと」
「お礼を言われるようなこと言ってませんよ」
「ううん、嬉しかったから」
 鳳があまりにサラリと受け止めてくれたので、自分のほうが気にしすぎなんじゃないかという気までしてくる。ここ数日を悩ませていた重苦しい闇が、晴れていくようだった。
 やがて差し掛かった十字路で、お互いの方向が反対だということが分り、は礼を言って荷物を受け取ると、鳳と別れた。これから鳳はこの先にある貸しコートで先輩と特訓をするのだそうだ。
(……頑張ってるなぁ。大会が近いって言ってたもんな。そうだ――お礼になにか作って持っていこうか)
 は家に帰るとさっそくキッチンへ向かった。
「鳳!」
さん」
 一時間後、紙袋を片手にコートへたどり着いたは鳳の名を呼ぶ。の姿を見つけて、鳳はすぐに近寄ってきた。コートにいるもう一人が鳳の先輩なのだろうが、その姿は少しおかしかった。
「アイツ、ボロボロじゃないか。ほんとにテニスやってるのか?」
「まぁ、特訓ですから」
 鳳が曖昧に笑いながらそう答えると、いつのまにかその人物はこちらへ近づいてきていた。
「おい。誰だ、長太郎?」
「青学の三年のさんです」
「青学?」
 学校の名前を聞いた彼は、を睨んだ。なにも睨まれるようなことはしてないぞとは思ったが、日吉の言葉を思い出した。氷帝と青学は戦うのだ。
「偵察とか、そんなんじゃないよ。テニス部じゃないし。ちょっと鳳にお礼を持ってきただけだから――じゃあね」
 押し付けるように紙袋を鳳に渡して、は走り出した。
 鳳の手に残された紙袋は、まだ温かい。すでにいい香りを漂わせているその袋を開くと、そこにはドーナツがたくさん入っていた。
「わぁ、美味そう。揚げたてですよ。さっきさんが砂糖とか卵とか小麦粉とか、たくさん荷物持って歩いてたんで、運ぶの手伝ったんです。帰ってから作ってきてくれたんですね」
「……そーゆーのは、先に言えよな」
 宍戸は自分の失態にチッと舌を鳴らした。
「今度会ったら謝っといてくれよ……って言ったか。ん? 最近聞いた名だな」
「いまウチの高等部にいるっていう、元生徒会副会長の弟さんだそうですよ」
「ああ――日吉の隣だっていう。アイツの家はこの辺だったのか」
「そうみたいですね」
 鳳の返事はおざなりだった。それもそのはず――彼はすでにドーナツを手に取っていたのだから。
「ん――美味い! 宍戸さんもひとつどうです? 美味しいですよ」
 幸せそうにドーナツを頬張る鳳に、宍戸は本当にひとつだけ分けてもらった。