タマゴの音色5
「え?」
長かった髪をばっさり切った宍戸に呼び止められ、日吉は聞き返した。 「いや、だから。その弟って、お前の隣に住んでるんだろ? 偵察かと思って睨んじまったんだよ。謝っといてくれよな。ドーナツ美味かったって」 訳が解らないながらも「解りました」と答えて、日吉はその場を後にした。 それ以上、宍戸の前にいたくなかったからだ。会話なんかしたくない。喜んで話などできるものか――やり場のない怒りに、日吉は右手をギュッと握り締めることしかできなかった。 宍戸がレギュラーに復帰するなんて―――― 負けた人間は使わないという厳しい規律のなかだからこそ、自分を磨き、頂点に立つことを目指してきたのだ。ようやく準レギュラーまで上り詰め、宍戸が負け、その宍戸に滝が負け、監督が正レギュラーとして日吉の名前をあげたというのに。 結局、日吉は準レギュラーへと逆戻りしてしまった。 いつもの日吉なら、自分で正レギュラーを倒して堂々と入れ替わればいいとすぐに気持ちを切り替えられただろう。けれど今回はいったん手に入ったものだけに、その喪失感は大きく、しかもその理由が日吉には納得のいくものではなかっただけに、苛立ちは収まりそうもなかった。 「なんですか、若さん。無言で入ってくるなんて行儀の悪い」 重苦しい気持ちを引き摺ったまま帰宅した日吉は、無言で玄関を上がり、母に叱られる。 「すみません――ただいま戻りました」 不機嫌な母に改めて頭を下げて挨拶を済ませると、日吉は自室へ向かった。部屋のなかにラケットバックだけ置くと、着替えもせずすぐに道場へと向かう。 このもやもやした感情をどうにかしなければ、明日の学校でも失態が続きそうだ。 屋敷の裏手に位置しているため、暮れかけた陽の入らない道場はすでに暗く、日吉は明かりをつけると中央に腰を下ろした。無人の静まりきった空間で正座をすると、目を閉じる。 (戦いたい――……) 関東大会の初戦は青学だ。手塚や不二という名の知れた強敵と日吉も戦いたかった。その機会が納得できない理由で失われてしまったのは悔しい。だが……青学は氷帝には劣るが強豪だ。この試合で誰かが負ければ、今度こそ日吉が正レギュラーになれるだろう。関東大会は無理でも、全国大会で正レギュラーとして試合に臨める可能性は高い。 (下克上だ――) そのチャンスを逃さず、今度こそ自分の力を見せ付けて、正レギュラーの地位を手に入れる。そのためにはいつコートに立つことになってもベストを尽くせる状態にしておかなくてはいけない。 決意を新たに目を開けた日吉は、か細いピアノの音色に気づいた。日吉が道場に来たときには聞こえていなかった。いつのまに弾き始めたのかしらないが、やはり清香さんのピアノは精神集中にいいらしい。だが同時に、日吉は嫌なことを思い出してしまった。 『その弟って、お前の隣に住んでるんだろ――謝っといてくれよな。ドーナツ美味かったって』 特訓していた宍戸のもとへ、がお菓子を差し入れしたらしい。 (なんで――……?) 青学のと宍戸の間に接点はないはずだ。第一、が宍戸に差し入れする理由が解らない。しかもドーナツなら、清香さんの手作りではないだろうか? このあたりに店はないし、日吉もときどき貰っている。 宍戸が一年のとき、清香さんは三年で、同じ校舎に通っていたのだから、知り合っていてもおかしくはない。だがなんでわざわざ宍戸に差し入れするのか。 (まさか、清香さんは、宍戸先輩のことを――……) ありえないと日吉はその考えをすぐに否定した。きっと作りすぎたものをが持っていて、たまたま宍戸に渡したとか、そんな理由だろう。 そう、清香が宍戸を好きだなんて、そんなはずはないのだ――そんなことあるはずがないと思うのに、否定すればするほど、それが真実であるような気がしてきた。 目を閉じて雑念を払おうとしても、聞こえてくるピアノの音に集中を乱される。 「クソッ――」 日吉は立ち上がった。いつまでも気にしているより、直接聞いてしまったほうがすっきりする。幸い、宍戸からの伝言を伝えるという口実もある。への伝言だが、清香に伝えてもらったって構わないだろう。それにそれを聞いたときの清香の反応で、きっとさきほどのバカな考えも否定されるはずだ。 すぐに戻ってくるのだからと道場の明りはそのままに、外用のサンダルを引っ掛けて日吉は庭へ出た。家との境になっている生垣の隙間を抜けるのは久しぶりだ。 漏れ聞こえてくるピアノの音が、次第に大きくなっていく。いつもなら日吉の心を落ち着かせてくれる音色なのに、きょうばかりは戸惑いと苛立ちを感じさせた。だから本来なら曲の途中で邪魔をするなどということはしたくなかったが、曲が途切れるまで待っている気にはなれず、日吉は離れの扉の前まで来ると、ノックした。 演奏が、止まる。 「若です。すみません――」 引いた扉の向こう、ピアノの前に座っていたのは、ここにいるはずのない相手だった。 「? どうしてお前がここに――」 * * * それは一瞬のことだった。ノックの音が聞こえて、は手を止めた。 「若です、すみません――」 すぐに聞こえてきた声に反応する暇もなく、次の瞬間、は驚いて見つめている日吉と目を合わせることになってしまった。 「? どうしてお前がここに――」 日吉の顔が怪訝そうに歪む。まっすぐに――を見て。 「ピアノを弾いていたのは、お前なのか……?」 は答えることができなかった。いやその前に、いまなにが起きているのかすら理解できないでいた。 「。いつも、いままでも――弾いていたのは、お前か?」 答えられないでいたは、日吉に睨みつけられ、反射的に頷いていた。 「辞めたんじゃなかったのか?」 低く響く日吉の声からは、怒りが伝わってくる。 「……辞めたのは、姉さん」 「なんで黙ってた?」 言うべきだった。言わなければこうなると解っていたのに。 何度も言おうとした。けれどそのたびに言えずに来てしまった。 先日の道場でちゃんと伝えていれば、こんなことにはならなかったのに――は答えることができず、日吉の視線から逃れるように目を伏せた。 沈黙がの身体に重く圧し掛かる。けれどはなにも――頭がすべてを忘れてしまったかのようになにも考えることができない。膝の上で両手をギュッと握り締め、その自分の手を見ていることしかできなかった。そう、逃げるということすら、思いつかなかった。 「ずっと嘘ついてたってことか……?」 「それは――」 日吉の言葉に反射的に声を上げてしまったけれど、それ以上の言葉は浮かんでこなかった。否定はできない――嘘をついていたのは事実なのだ。 声を上げたことで自然と顔も上げてしまったは、自分を睨みつけている日吉の瞳を正面から見てしまった。それはとても鋭くを見据えていて、いままで日吉にそんな目線を向けられたことはなかった。 耐え切れず再び俯いたに、驚きを含んだ、静かな声が聞こえた。 「もしかして……お菓子作ってたのも、お前なのか? 清香さんからだって俺に渡してたのも、宍戸先輩に差し入れしたってのも全部――、お前が作ってたのか……?」 はもう、動くことすらできなかった。 日吉の口から出た宍戸という名前には、鳳に差し入れしたと思っているには心当たりのないものだったが、正直そんなことはどうでもよかった。いま重要なのは、すべてが――のすべての偽りが日吉に知られてしまったということだ。それも――いちばん望んでいなかった最悪な形で。 日吉の問いに、は俯いたまま、首を振ることも頷くこともできずにいたのだが、答えられないことがつまり肯定の証なのだと日吉は正確に理解した。 「俺はずっとお前に騙されてたってことか……」 そんなつもりはなかったと日吉に対して伝える権利を、は持たなかった。 「……簡単に騙されて喜んでる俺は、さぞ滑稽で楽しかったろうな?」 聞こえてきた日吉の声は、ひどく落胆した、力ないものだった。 「ちが――」 違う、それだけは違うと日吉に告げようと顔を上げたの目に入ったのは、勢いよく閉められた扉だけだった。 「あ……」 力の抜けたの身体は椅子からズルズルと滑り落ち、絨毯の敷かれた床へペタンと座り込む。 最悪だ。 どう考えても、最悪だった。 「どうしよう――どうしたら……」 謝りたい。もう遅いけれど。許してもらえないだろうけれど。そんな資格はないのかもしれないけれど。でも。 (喜んでる顔が見たかっただけ――) 滑稽だなんて思ったことは一度もないのだ。それだけは解って欲しい。 「わかし……そうだよ、若を、追いかけなきゃ――」 ようやく力を取り戻すと、も日吉を追って離れを飛び出した。 (とにかく、とにかく謝らなくちゃ――) 庭へ出たものの、日吉の姿はすでになく。とりあえずまだ明かりのついている道場へ行ってみたが、そこは無人だった。すぐに母屋のほうへまわり、窓の外から日吉の部屋のなかを覗いてみたが、薄暗いながらも人のいる様子はないと解る。 道場にも部屋にもいないということは、屋敷の外へ出て行ってしまったのだろうか。 日吉家の門から道路へ出てみたけれど、やはり日吉の姿が見えるはずもなく。 「どこへ、行っちゃったんだろう……」 当てもなく歩き回って見つけられるとは思えない。けれど家でじっと待っていることもできず、はとりあえず家から右手に向かって歩き出した。氷帝へ通う通学路はこちらだし、それに――幼いころ一緒に遊んだ公園があるのもこちらだからだ。 キョロキョロと不安げに周囲を見回しながら、は歩いた。やがて見えてきた公園の入り口に立ち、なかを見回したけれど外灯がうっすらと照らしている園内に人影はない。このまま氷帝学園まで歩いて行こうかと道の先を振り返ったとき、ゆっくりとこちらへ近づいてくる人影を見つける。は思わず息を飲んで、その人物を凝視していた。 けれど――街灯が照らし出したその姿は、の捜していた人物ではなく。 「――さん!」 向こうもの姿を見つけると、駆け寄ってきた。 「おおと、り……」 日吉ではなく鳳だったと解ったとき、どこかほっとしてしまった自分をは自覚した。謝りたいとこうして捜しに来たというのに、日吉と対峙するのが怖いのだ。睨まれるのが、拒絶されるのが怖い。 (なんて勝手なんだろう……。こんなぼくが若に嫌われるのなんて、当然じゃないか――) 「良かった、会えて。実は先日のこと宍戸先輩に口止めしておかなかったから、先輩が日吉に喋っちゃったみたいで――」 挨拶も笑顔もなく、ただ俯いてしまったの様子を見て、鳳は言葉を切った。 「もしかして……もう遅かった、ですか?」 は顔を上げてのろのろと首を振った。 「いいんだ、騙してたのは、事実なんだし……」 笑おうと思ったけれど、それは無理だった。 「騙してたなんてそんな! 誤解してた日吉のほうが悪いんですよ。そう――むしろ気づかなくてゴメン、いままでありがとうって感謝するところだと――」 優しい鳳の言葉に、ずっと堪えていたものが溢れ出す。 「さん……」 静かに泣き出したの肩を、鳳はそっと抱き寄せてくれた。 |