タマゴの音色6




 防音室の扉を力任せに閉めて走り出した日吉は、家から飛び出し、気がつくと氷帝学園のほうまで来てしまっていた。無茶苦茶に走り回ったけれど、気持ちは発散されるどころか苛立ちが増すばかりだった。
のヤツ、いつから――)
「クソッ!」
 やり場のない怒りに、日吉は拳をギュッと握り締める。それを手近ななにかに叩きつけようとしたときだった。
「若くん……?」
 背後から突然掛けられた女性の声に、日吉は振り返る。   
「やっぱり、若くんだった。久しぶりね」
 そこにいたのはの姉、清香だった。
「清香さん……お久しぶりです」
 日吉も軽く頭を下げて挨拶する。自然と、握り締めていた手から力が抜けた。
「どうかしたの?」
 ぼんやり立ち尽くしたままの日吉に、彼女は尋ねる。
「いえ……」
 説明しようにも言葉が見つからない。そもそも説明できることでもなく、日吉は言葉を濁して目を逸らした。
「わたしは帰るところなんだけど、よかったら若くん、一緒に帰らない?」
 彼女はそれ以上尋ねることもなくそう言って微笑んだ。迷っている様子を察してくれたのだろうと日吉は思う。やはり素敵な人だと。
「ええ」
 並んで歩きながら、日吉は横にいる彼女を盗み見た。すでに身長は日吉のほうが高くなっていたから、依然とは違う角度で彼女を見ることができる。けれどやはり、変わらず綺麗な人だった。でもいまは、変わったかもしれないことを、知っている。
「あ、あの……ピアノ、辞めたんですか? いつごろ?」
「あれ、知らなかった? 二年くらい前かな。ピアノは嫌いじゃなかったんだけど、練習はあまり好きじゃなくて。ちょうど生徒会の仕事も忙しくなったから、辞めたの」
 日吉の質問は唐突なものだったけれど、彼女はなんでもないことのようにあっさりと答えた。
は、すごく練習してた。若くんに下手だって言われたの、こたえたみたいよ。最初はホント下手だったけど、いまは上手くなったでしょう?」
 ニッコリと微笑みながら、彼女が髪を耳にかける。
「……ええ」
 いつもならきっと見惚れていただろうその仕草だが、日吉の目線は髪をかきあげた彼女の指先に釘付けになる。その爪は伸ばされ、薄暗いなかでもキラキラと光を反射するほど綺麗に整えられていた。高校生ならそのくらいして当然なのかもしれないが、これではっきりした。事実なのだ――彼女はピアノも弾いていないし、そしてきっと、お菓子も作ってはいない。
「わたしはやりたいことやりたくないことをはっきり言っちゃうけど、あの子は気を遣いすぎるのよね。ピアノだって、母さんがわざわざ防音室まで作ったから、辞めるって言えなくなったんじゃないかしら――」
 不意に彼女が言葉を切って立ち止まる。彼女の視線は前方、所々街灯に照らし出されている公園のほうへと向けられていた。同じように彼女の視線を追った日吉に見えたのは、寄り添っているふたりの人影だった。
「――!」
 彼女が呼んだその名前に、日吉は飛び上がるほど驚いた。
、だって――?)
 足早に近づいていく清香に遅れるようにして、日吉も後に続く。
「……姉さん」
 顔を上げたのは確かにだった。慌てて離れた――日吉にはそう思えた――のを見て、日吉はがもうひとりの男に抱きしめられていたのだと気付く。そしてその相手を見て、それが日吉のよく知っている相手だと解って、日吉は更なる衝撃でなにも言えなくなった。
「お姉さんですか、初めまして。日吉の同級生の鳳長太郎です。噂に聞いていた通り、美人だなー」
 その場で笑顔だったのは、能天気な声でそう言った鳳だけだった。
「ありがとう、鳳くん。あなたもハンサムね」
 鳳に答えた清香の言葉自体は決して悪いものではないはずだが、その口調は冷たく、目は笑っていない。真っ直ぐに鳳を睨みつけながら、彼女は続けた。
「でも、を泣かせるのは関心しないわ」
「ち、違うよ。姉さん! 鳳は話を聞いてくれてただけで……」
 姉の言葉に驚いたが慌てて否定する。けれど日吉も驚いていた。なんとなく――の顔が見づらくて、清香のほうばかり見ていたのだが、彼女の言葉に改めてを見ると、確かにその瞳は潤んでいたのだ。
(なんで――なんでが泣く? それに鳳は――)
「じゃあどうしてが泣いているの?」
 姉の追及には俯いてしまう。そんなを見て、動いたのは鳳だった。鳳の目線が、探るようにスッと日吉へと向けられる。姉は当然、それに気付いた。
「若くん…? 若くんなの? あなたがを泣かせたの?」
 姉の顔は急に日吉へと向けられ、その冷たい口調とまなざしで問い詰められる。
「違うっ、姉さん、やめて! 若のせいじゃないから――ぼくが悪いんだから」
 姉を制止するようにが動いたのが視界の隅で見て取れた。けれど日吉は姉に睨まれたまま動くことができず――視線を外すことも、それこそ答えることもできずにいた。
「なにがあったの、若くん?」
 事情を知るまでは一歩も譲らないというような清香の迫力にのまれたまま、日吉はゆっくりと口を動かし始めた。
「その、確かに……俺の言い方は、少しきつかったですけど……でも、それはが俺のこと騙して、からかってたからで――」
 次の瞬間、日吉の耳にパンッという音が聞こえた。それと頬に感じた衝撃が、一瞬日吉のなかでは結びつかなかった。けれどじわじわと痛みだした頬と、振り上げられている綺麗な指先の手を見て、自分が姉に叩かれたのだと理解した。
が若くんのこと騙してからかったりするわけないでしょ! 長い付き合いなのに、のこと全然解ってないのね。見損なったわ」
 清香は怒りに満ちた目で日吉を見つめていた。初めて見る――彼女のこんな表情を。こんなに、はっきりした性格の人だったろうか。
「待って、姉さん。違うんだ、若は悪くないんだ。ぼくが……嘘ついてたから」
 動けずにいた日吉の隣で、再び押し留めるようにが姉の腕を引く。清香はようやく日吉を睨むのを止め、へ向き直った。
……あなたが嘘をまったくつかない人間だとは言わないわ。でもね、あなたが若くんに対して嘘をついたのだとしたら、それは若くんがそうさせたんだわ」
 きっぱりと言い切った姉の言葉に、日吉は驚くことしかできない。けれどは困ったように姉からその視線を逸らせただけで――否定しなかったのだ。
「若くん、心あたりはないの? に本当のことを言い出せなくした心あたりは?」
 冷たい目線だけを日吉に向ける姉に、そんな覚えはないと口にすることも日吉はできなかった。
にきちんと謝るまで、うちの敷居はまたがせないから。行きましょ。よかったら、鳳くんもどうぞ」
 清香はの腕を取り、先ほどとは打って変わってにこやかな笑顔で――日吉の知っている清香の笑顔で――鳳にも声をかけていた。
「そうですね、ちょっとお邪魔しようかな」
 日吉に見せ付けるように嬉しそうに答える鳳に怒りを覚える。けれど――その様子をただ見守ることしかできなかった日吉の前で、姉に腕を掴まれたままのが振り返って、その口元が静かにゴメンと形を作ったのが見て取れた。それは日吉の見間違いだったのかもしれないが、去り際に見せたのその哀しそうな表情は、日吉の胸に怒りとは違う感情を起こさせた。


 のろのろと、ひとり自宅に戻ってきた日吉は、道場の明りを点けたままだったことを思い出した。部屋に戻る気にもなれず、再び日吉は道場で正座することにした。両手を膝に置き、目を閉じる。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。お菓子だって、確かに最初は清香さんが作っていたはずだ。清香さんと一緒に遊ぶことがなくなっても、が持ってきてくれていた。いつから、それを作っていたのがに代わったのだろう――?
『それ、ぼくが作ったんだ』
 不意に浮かんだ、まだ小学生のの笑顔。あのとき食べていたものはなんだったろう――そこまでは思い出せない。けれど確かに、あのとき食べたものは美味しかった。日吉の母は和菓子が好きで、母が出すおやつは甘すぎて日吉は好きではなかった。もちろんそんな話も、とはしていたと思う。だから清香さんが作ってくれるお菓子は甘くなくて――いや、確か最初は甘かった。それが次第に、甘すぎず、日吉好みの味に変わっていったのだ。
 美味いと、日吉がたぶん初めて言ったとき、が嬉しそうに微笑んで言ったのだ『それ、ぼくが作ったんだ』と。
 そのとき日吉はなんと返しただろう。はっきりとは覚えていない。だが……信じなかったのは確かだ。
 冗談だろう? 男がお菓子作りなんて変だぞ、くらいのことは言ったような気がする。そう、たぶんきっとその直後だったのだ、が古武術を習いたいと言い出したのは。
 ピアノを習い始めたときも、下手だとにはっきり言った。清香さんは、最初からそれなりに上手かったから。いま考えれば、小学校のときの二学年差は大きく、同じ時期に始めたとはいえ、のほうが下手なのは当たり前のことだったのに。
 中学に上がってからもが下手なままだろうと勝手に決めつけていて、「最近、の音聞こえないな? 辞めたんだろう。やっぱり清香さんが弾くのは似合うけど、には合わなかったんだよ」と言ったことを思い出す。
(違う……思い出したんじゃない)
 忘れていたわけではない。真実はちゃんと目の前にあったのに、気づくことができなかったのだ。男はこうあるべき、女はこうあるべきという主観でしか、ものを見ていなかった。
(でも、それだけじゃない……)
 特にに対して、その決め付けがひどかったのは。
(一緒に、いたかったからだ――……)
 同じことをし、同じものを見たかった。なにを考えているかわからなくなってしまったに、苛立ちを感じた。わからなくしたのは日吉自身だったのに、それをにぶつけていたなんて。
(なんて子供なんだ、俺は……)
 はどんな思いで、日吉の言葉を聞いていたのだろう。それでもずっと、は日吉の傍にいてくれたのだ。
『――にきちんと謝るまで、うちの敷居はまたがせないから』
 清香さんの言葉が思い出される。
 のことを思うと、胸が痛む。あんなふうに泣かせるつもりはなかった――別れ際に見た、あんな哀しそうな顔をさせる気も。いますぐにのところへ行って、謝りたい。だがそれはもう、謝ればすむという問題ではないだろう。
「下克上だ」
 呟いて、日吉は静かに道場を後にした。


 日吉の決意を示す機会は、すぐにやってきた。
 関東大会一回戦、青学との試合は、五試合では決着がつかず、控えだったはずの日吉にこの勝負の決着が委ねられることになったのだ。
「日吉、出番だ。行ってこい」
「はい」
 待っていた監督の言葉に、日吉は足を踏み出す。コートへ向かう日吉に、次々と激励の声が掛けられる。
「……一年相手だろうと、気を抜くなよ」
「当然でしょう」
 睨むように宍戸に答えたその言葉に嘘はなかった。
 油断した覚えも、手を抜いた覚えもない。
 この試合に勝って、その結果を直接に伝える――自分が変わったことを告げるつもりだった。その、はずなのに。
 日吉は一年の越前に負け、その結果、氷帝学園の関東大会敗退が決まってしまった。
 目が熱くなる――人前で泣くなんて格好の悪いことを自分がするなんて。けれど力を尽くしたのに負けたのだ。その悔しさは抑えきれるものではなく。
 コートで立ち尽くしたまま――立ち去るという余裕もなく――両腕で顔を隠して泣く日吉の肩を、誰かの手が叩く。いくつも、いくつもの手が、日吉に触れていった。レギュラーメンバーが自分の周囲に集まっているのだと意識の、どこか遠くのところで理解していた。
 ずっと、ひとりで戦っていると思っていた。
 テニスは個人技だけれど、これは団体戦なのだと――自分は氷帝学園のテニス部の一員なのだと――そんな当たり前のことに、いまさら気づかされる。
(負ける、はずだ――……)
 を泣かせてまで、まだ解っていなかった。自分が未熟だということを。
(変われない、すぐには――……)
 青学の勝利を告げるアナウンスが響く。整列するためにようやく腕を外した日吉だったが、俯いたままの姿勢ゆえに気付かなかった。氷帝の制服を着た生徒がひとり、静かに応援席を離れたことを。