着信を知らせる光の点滅に気づき携帯電話を開くと……あれ、知らない番号だ。番号からして、携帯だけれど。
「…もしもし?」 いくらか警戒した調子で応答したオレの耳に、飛び込んできたのは。 『あ、? 俺、俺。お前、今日時間あるだろ? いまから北斗杯の会場来いよ! いますぐな!』 「…………電話ではまず名前を名乗れって教わらなかったのか、倉田」 『名乗ったじゃん』 「名乗ってない!」 『でも、、分かってんだからいいじゃん』 「そういう問題じゃないだろ。登録してある番号ならともかく……って、コレお前の携帯? オレ知らなかったぞ」 『いや、俺がこんな面倒なの持つわけないじゃん。その辺歩いてたヤツの借りた』 「じゃあ、人ので喋ってんのか! 公衆電話使えよ!」 『探すの面倒だったの。時間ないんだぞ――あ、そうそう、時間ないんだ。早く来いよ、! じゃあな!』 「おい、倉田? 倉田!」 何度も呼びかけたが、返事はない。けれど通話は切られていないらしく、性能のいい機械が『どーもな』という倉田の声を拾ってくれた。通話も切らずに借りた相手に返しているらしい。そもそも、切り方など知らないんだろう。「いいんですか、切りますよ」という少年らしき声がして、今度こそ通話は途切れた。 「まったく……」 通話が終了した画面を見ながら呟いた。倉田はいつもこうだ。いまどきの小学生だってもっと分別があると思うぞ。独りごちつつ、仕方なく外出準備をしてしまう自分は、まったくもって甘いとも思うのだが。 だって仕方ない。アイツ――倉田は、同じ年だけど、オレの弟弟子なんだから。 [a life less ordinary1] 「オレも早くこんなところで打ちたいね〜」 ホテルの豪華な廊下を歩き、きょろきょろと見回しながらオレは呟いていた。北斗杯――日中韓の団体戦が開かれてるのは知っていた。十八歳以下の若手の大会とはいえ、韓国の高永夏なんて、すでに実力はトップクラスの棋士として知られているヤツも来ているわけだから、興味はあったし。けれど棋譜さえ見れれば充分なんだから、会場まで来るつもりなんて、なかったのに。まったく……倉田のヤツ! 腑に落ちない気持ちで会場の入り口を見つけた。対局が始まる時間までギリギリには間に合ったはずなのだけれど、なぜか外からでも分かるザワザワとした空気。なんだろう? でもとりあえず、倉田探すか。 受付と書かれたテーブルにいた女の子に、声を掛けてみた。 「すみません」 「パンフレットをどうぞ〜」 い、いらない――と正直思ったが、仕方なく受け取る。 「えっと、倉田、探してるんですけど」 「は?」 はっ?って…… 「あの、倉田厚七段を探しているんですけど。日本チームの、団長の」 「ああ! あのヌイグルミみたいな人! あ……」 しっかり口にしてからしまった!という顔をした彼女の悪びれない様子は、好感が持てるけどね。 「そう、そのヌイグルミみたいな男、どこにいます?」 「チームの方々は、もう検討室へ行かれたと思いますけど……」 「どこですか?」 「出て、右の……でも、関係者の方しか入れませんよ」 …と、それは痛いお言葉だな。 「オレも、いちおう棋士です。倉田に呼ばれたんで」 「あ、そうなんですか〜。すみません、わたし詳しくなくて」 ニッコリと笑う彼女に、オレもニッコリと笑って返した。 「いいえ〜。じゃあどうも」 気分よく行きかけた背中に、彼女の声が聞こえた。 「次はあなたも出られるといいですね」 は…? 「え〜っと…」 それって倉田の替わりに団長としてっていうことなのだろうか。それとも。もしかして、もしかすると、もしかしなくても、“選手として”という意味だったりするんだろうか……? 思わず握り締めていた拳をプルプルと震えさせながら、オレは「アリガトウゴザイマス」と言ってその場を後にしたのだった。 (二十三のオレのどこが選手に見えるっていうんだ…っ! あの女、目が腐ってるな!) 口にはできない罵詈雑言の限りを頭のなかで言い尽くして、少しだけオレは平静を取り戻した。検討室には他の国の棋士もいるはずなのだから、落ち着いた振る舞いを見せなければいけない。 「っと、ここか…」 スゥと深呼吸してから、オレは扉をノックして開けた。 「すみません、失礼します」 軽く頭を下げて扉を開けたまま室内を見回す。関係者じゃないから、なかには入りませんよーだ。あれ、倉田いない? 室内には七、八人の人影があったのだが、その二倍も三倍も目立つはずの倉田がいない。一瞬、部屋を間違えたかと思ったが、あの奥で微笑を浮かべつつ、こっちを見ていた顔に見覚えがあった――そう、韓国の安太善だ。 そうか、ヤツが韓国の団長か。倉田がこのあいだ惨敗してきた相手で、あのあと散々ラーメン食いにつき合わされたから、よく覚えてるよ。まさか同じ部屋にいるのがイヤで、倉田のヤツ、逃げたんじゃないだろうな。 そんなことを考えていたら、同じく奥から「どうかしたのか?」という声を掛けられた。流暢な日本語だったけれど、この男にも、見覚えがあるな。確か、中国の棋士だったはずだ。 「すみません、倉田厚を探しているんですが」 オレはしっかりと猫をかぶって丁寧な日本語で尋ねた。 「倉田? さっきまでいたんだが……」 彼はきょろきょろと室内を見回したあと、近くにいた天然パーマの小さな少年に話しかけている。可愛いなぁ、彼も北斗杯の選手なんだな。少年からなにか答えを聞くと、彼は立ち上がってオレの前までやってきた。目の前に立たれると……う、でかいな、コイツ。 「倉田なら、さっきまでいたんだけど、誰かが呼びに来て出て行ったらしい。すぐ帰ってくると思うけど……」 「そうですか。なら、ここの前で待ってます。ありがとうございました」 頭を軽く下げて閉めようとした扉を、彼の手が押さえた。 「すれ違いになるかもしれないから、なかで待ってたら」 「え…? でも、お邪魔なんじゃ……」 こんなメンバーのなかに入り込んで待っているほうがイヤなんだってばと、やんわりと辞退しようとしたのに、彼の手がいつのまにかオレの肩にまわされていて、室内へと促されてしまった。 「えっと…あの……」 「いいから、いいから」 ニッコリと笑うこの男――親切なんだろうけど、断れなくなってしまって困る。仕方なく室内に入ると、近くの椅子を勧められた。このさり気なさ。きっと女ったらしに違いないぞ。 「あれ? くんじゃないか〜」 いきなり脇から暢気な声が聞こえて、その声の主を見つけた瞬間にほっとした。 「古瀬村さ〜ん。お久しぶりです〜」 そうか、日本チームは誰もいなくても、日本の記者がいたか。 「なに、くんも北斗杯見に来たの?」 「いえ…そのつもりはなかったんですけど、倉田に呼ばれて……」 「あ、倉田くん? あれ、いないね。どこいったんだろ〜?」 古瀬村さんがキョロキョロと首を回す。ああ、ほんとにネズミみたいな人だ――もちろん、本人には口が裂けてもいえないけどね。 「……、くん?」 「はい」 脇で聞こえた声に、思わず返事をしてしまう。いつのまに隣に座っていたのか――オレをなかに引き入れた男だった。 「初めまして、中国の楊海です」 そう言って、軽く頭を下げる仕草も様になっていて外国人らしくないな、なんて思いつつ、つられてオレも頭を下げて名乗った。 「初めまして。、です」 「くんも、棋士なんだよね?」 「ええ、まぁ、はい……」 語尾が小さくなっていくのは、当然のこと。 「何段?」 そう――そう聞かれると思ったよ。 「…………四段、です」 ああ、そうだよ! まだ四段だよ! 倉田より五年も早く囲碁始めてたっていうのに、あっという間に七段になったアイツにはまったく追いつきませんよ。第一、プロになったのもアイツのほうが一年先だし! 弱いんですよ、へぼへぼなんですよ! 呟いて俯いたオレの頭の上に、楊海さん――倉田と同じ七段だか八段くらいだろう――の静かな声が響いた。 「へぇ……一度手合わせしてみたいな。この大会終わったら、どう?」 「え?」 驚いて顔を上げて楊海さんを見たけれど、その目に嘲っている調子はない。けれど、からかわれているのだろうか? それとも、社交辞令? それとも中国式冗談? 「えっと……」 答えに窮していたオレの背後で、ノックもなしに扉が開く気配とでかい足音がした。 「あ、じゃん。遅いよ」 いきなり呼びつけておいてその言い草かといつもなら怒鳴りつけるところだが、今回ばかりは許してやる。 「倉田〜」 立ち上がって倉田のところにいくはずだったオレは、腕を引かれて、また椅子に逆戻りしてしまった。 「で、くん。返事は?」 「え?」 あ…、なに? まだ諦めてくれてないの? 「えっと、あの……」 助けろ、倉田! とオレは必死にアイコンタクトを送る。気づけ、倉田! 「なにやってんだよ、楊海!」 倉田が俺の二の腕を掴んでぐっと立ち上がらせる。 よし、偉いぞ、倉田! と思ったのはつかの間だった。 「俺の兄弟子にちょっかいかけるなよなー」 オレの腕を掴んでいた楊海さんの手があっさりと離れてくれて、それはそれでよかったんだけど………… 「…兄弟子? くんが、倉田の…?」 楊海さんが驚いた顔でオレと倉田を見比べている。 倉田め〜、余計なことを言いやがって! そうか、いまさらながら気づいた。オレは身長が低いから、楊海さんはオレのこと、少し年下に見てたんだろう。だから四段だと聞いても見下さなかったんだ。 「そうなんです。オレはまだ四段のヘボ棋士なんで、とても楊海さんと手合わせできるほどの力はないんですよ、すみません…」 「え? 楊海、コイツと対局しようとしてたの? バカだなぁ」 煩い! お前に言われたくないぞ! でもオレに実力がないのはホントのことだから悔しくても言い返せない。 「おい、倉田! わざわざ呼び出してなんの用だよっ!?」 オレの剣幕に倉田は目を丸くして――いつも丸いが――ああ、と思い出したように呟いた。 「そうだった、そうだった。、ちょっとこっち」 二の腕を掴まれたまま、オレは検討室から連れ出されたのであった。 |