さよならを言うまえに1



 なにを話しているのか解らない――――

 は、目の前で繰り広げられる会話の意味が理解できず、ぼんやりと座ったままでいた。
「――ちょっと! 聞いてるの?」
 に向かってヒステリックに声を荒げている女性が、誰だか解らない。
「おい、ユミ子。もまだ礼子が亡くなったばかりで動転しているんだから……」
 ようやくにも理解できる単語が聞こえた。“礼子”はの母親の名前だ。が八歳のときに離婚してからひとりで働いて、を育ててくれていて。母に楽をさせたいのもあって、新設された全寮制の中学校――聖ルドルフ学院へ奨学金を取って入学した。部活には入らず、一生懸命勉強して奨学生の座を保ちつづけ、長期休暇はもちろん、毎週末にも家に帰って母と一緒に過ごした。今は春休み中で、は夕飯の支度をして母の帰りを待っていたはずなのに、どうして母がいないのか理解できない。
?」
 男性の低い声で名前を呼ばれた。その声には聞き覚えがあり、はのろのろと顔を上げる。
「……おとう、さん」
 の記憶にある六年前に別れたときよりも少し老けた顔がそこにあった。
「いくら身寄りが他にないからって……施設に入れればいいじゃないの」
「ユミ子――後見人になるだけだよ。は頭が良くて奨学生なんだ――寮にも入ってるし」
「一緒に暮らさなくてもいいなら……仕方ないけれど、我慢してあげるわ。でも、この葬式代は返してもらいますからね」
「ユミ子、なにもいまそんな話しなくても……。、きょうはもう疲れただろう。ゆっくり眠りなさい」
「ちょっと、早くこのアパートも片付けてもらわなきゃ。このままにして家賃まであなたが払うなんて言わないでよ。あなたの稼ぎじゃそんな余分なお金はないんですからね」
「おいユミ子――……」
 まだなにか喋っているようだったが、には理解できなかった。
 気がつくと部屋の中にひとり座っていて、相変わらず母はいなかった。
(そうか、母さんは、いないんだ……)
 独りきりの部屋は、どこも変わらないはずなのに、広すぎて冷たかった。


 それから一週間後の四月一日――聖ルドルフ学院の入寮開始日だった。
 入寮者は一日から入学式の前日までに荷物を運ばなければならない。けれど、すでに入寮している者は春休みに入る前に荷物を新しい部屋へ移動してから帰省しているので、特に運ばなければならない荷物もなく。新入生も大抵が入学式の前日に荷物と一緒に入寮するので、一日に戻る生徒はほとんどいない。
 も、去年は入学式の前日に戻った。けれど今年は、三月一杯で母と住んでいたアパートを引き払わなければならず、仕方なく昨晩は24時間営業のファミリーレストランで時間を潰していたにとって、一日から入れるのはとてもありがたい話だった。
 家財道具や洋服など、売れるものはすべてリサイクルショップへ引き取ってもらい、捨てられるものは捨てた。残したのは――母が好きで集めたクラシックのCDが数枚と、写真、そして母が大事にしていた綺麗なレースのハンカチだけだった。あまりたくさんの物は、寮にも持っていけないのだから。
 早朝、これ以上不審そうに見られることに耐えられなくなり、ファミリーレストランを出た。学園の近くの公園かどこで時間を潰そうと思った。寮は九時くらいにならないと開けてはもらえないだろうから、あと三時間はある。学院の前を通って――門が開かれていることに気づいた。
(なんで、学校が、もう……)
 つい導かれるように足を踏み入れてから、気づく。
(そうか、教会が――)
 早朝礼拝を行っているのだ。一瞬躊躇ったが、自分もルドルフの生徒なのだし、追い出されることはないだろうと教会へ向かうことにした。
 ミッションスクールである聖ルドルフ学院では、学校行事のほとんどがキリスト教にのっとったものであり、この教会内で行われる。だからも何度もここに足を踏み入れているはずなのだが――重い扉を押し開けてなかに入ったその日、そこは異空間のようにも思えた。
 全校生徒六百人近くが一度に収容できる大きな教会は、いまはほんの数人しかいないようだった。ろうそくの明かりも祭壇のあたりにしかなく、が入ってきた扉のあたりは、ほぼ真っ暗だった。は最後部の長椅子の端に腰を下ろした。祈る声も聞こえてくるのだが、静かとしか思えなかった。いつしかは、そのまま眠ってしまっていた。
 目覚めたのは、昼過ぎだった。いつのまにか木の長椅子に横になって眠っていた。恥ずかしい話だが、腹が減って目が覚めたらしい。ファミレスでは仕方なく紅茶を頼んだが、それ以前になにか口にしたのかすら、覚えていなかった。眠れたせいで、身体も欲求を思い出してきているのかもしれない。
 千幸は立ち上がって、教会内を見回した。明かりは変わらず、祭壇の周りにろうそくが灯されているだけだったが、出入り口の扉は開かれており、そこから光が射しこんで大分明るくはなっていた。どうやらのほかには誰もいないようだった。持っていた鞄はそこに置いたまま、は立ち上がって祭壇のほうへ歩き出した。
 ゆっくりと絨毯を踏みしめて歩き出したが向かったのは、祭壇ではなく。祭壇に向かって左側の、最前列の長椅子の、その脇に立った。
「観月、くん……」
 思わず呟いてしまった、その名前。去年のクリスマス礼拝でソロを歌った観月は、この場所にいた。は後方で、ほとんどその姿を捉えることはできなかったけれど、その歌声はいまも忘れてはいない。この広い教会に響き渡った、優しくて、でも強く張りのあるソプラノ。人の声で涙が出るなんて、初めての経験だった。
 観月はじめは、二年の二学期にスポーツ特待生として入学してきた。他にも何人か特待生はいたけれど、そのなかでも観月は目立っていたし、寮生でもあったからもすぐに覚えた。けれど同じクラスでもなく、テニス部で忙しい観月と、部活には所属せず寮の部屋でひとり勉強だけしているとでは、接点は皆無だった。
 観月と個人的な会話をしたのは、たった一度。
(そう、あのとき――音楽室で会った、あのときだけ……)
 それは去年、十二月に入ってすぐのことだった。四時間目の授業が自習になり、みな思い思いの場所へ移動するなか、も教室を抜け出した。向かったのは食堂ではなく、音楽室。
 は、ルドルフに入学する前からクリスチャンだったというわけでもなく、賛美歌を聴いたこともなかった。だがいざ入学してみると、歌わされる機会がとても多い。もちろんいくつかは授業でも教えてもらえるし、楽譜ももらえる。授業で習って楽譜を読むこともできたから、なんとか周囲に合わせて誤魔化してきたけれど、今年のクリスマス礼拝では、ちゃんと歌いたい歌があったのだ。
『Amazing grace』
 有名な賛美歌のため、授業でもあまりとりあげてもらえなかった。でもこの曲は、母が好きだと言っていた曲なのだ。
 楽譜を読んで大体頭のなかには入ったけれど、声に出してみたかった。けれど寮でそんなことができるはずもなく、だからといって外でする気にはもっとなれない。
 だからその日、時間が空いたのを幸いに、は音楽室へと向かった。今日は音楽教師が来る日ではないから授業はないはずだし、あそこなら防音もしっかりしている。なにより他のクラスは授業中なのだから、誰も近づかないだろう。
 音楽室に着いてから、は鍵がかかっている可能性があるということに気づいた。借りに行くことを迷いながら手をかけたドアノブは止まることなく回り、扉は開いた。コーラス部かブラスバンド部が朝練でもして、閉め忘れたのかもしれない。
 一曲歌う間だけだからと、は電気は点けずに、内鍵だけかけた。蓋の閉じられたグランドピアノに近づき、そっと蓋を押し上げる。思っていたよりも重いものだった。鍵盤の上に置かれたフェルトのカバーの間から最初の音だけを捜しあて、人差し指でポンと押した。
 目を閉じてその音を記憶したは、蓋をしめ、その場で歌い始めた。
 歌い終えたとき、パンパンと軽く叩かれる拍手の音に、は文字通り飛び上がって後ずさった。音楽準備室の扉が開かれ、その前に誰かが立っていたのだ。
「なかなかいい声ですね」
 驚きと緊張と恥ずかしさで、自分の鼓動が聞こえるほど心臓が激しく脈打っていた。ゆっくりとその場からに近づいてきた人物――それは観月はじめだった。逃げるなどという考えも浮かばず、にはただ立ち尽くすことしかできなかった。
「絶対音階がある。ピアノでもやっていたのですか?」
 の正面に立ち、観月がそう聞いてきた。まるで閉じ込められているよな気分で、は反射的に答えた。
「ううん、やったことはない、です……絶対音階って?」
 同じ学年ではあるのだが、観月の言葉遣いに影響され、敬語交じりの曖昧な言葉では返した。
「ドレミファソラシドの音階を自分のなかに持っていて、楽器などを弾かなくても正確に表現できる能力のことですよ。小さいころから音楽や楽器などに親しんでいると、自然と身につくようですね。もちろん、ぼくにはありますが」
「そう……でも、ぼくは楽器もやったことはないし、音楽も、あまり聴いたことがないけれど……」
 離婚する前に住んでいたのは父の会社の小さな社宅だったから楽器やオーディオセットなど置くスペースもなかったし、母とふたりになってからは、ポータブルの小さいプレイヤーでヘッドホンをつけて聞くくらいで、それに熱心だったわけでもない。
 そのとき、突然思い出した。
「母さんが、いつも、歌を――」
 寝るときはいつも、母が子守唄を歌ってくれていた。寝ていないときでも、オモチャで遊ぶより、母の歌を聴くのが好きで、よくせがんでいたと思う。幼稚園に通っていたころまでの話だけれど。
「そうですか。ではきみのお母さんはとても歌が上手なのでしょう。お母さんに感謝すべきですね。――ところで、ぼくの用事はもう済んだので、ここの鍵を返しに行こうと思うのですが、きみが使うならきみに預けましょうか?」
 観月が右手を軽く上げ、その手に持っているものをに向かって軽く揺らして見せた。が音楽室の開いていた理由を察した途端、呪縛されているようだった身体は動いた。
「いえ、もういいです!」
 逃げるようにその場を駆け出して、観月とはそれきりだった。もちろん寮ですれ違うこともあったけれど、観月の視界にはは入っていないようだった。
 あんな程度のこと――観月には覚えておく価値があることでもないのだろう。ほっとするのと同時に、どこか寂しくもあった。だからといって、観月と親しく会話する自分など、想像することも困難だった。
 ここで歌っていた観月は本当に素晴らしかった――教会の長椅子に手を伸ばしながら、はぼんやりと思う。観月と自分の差は、同じ教会のなかにいても決して近づくことのできないあのクリスマス礼拝のときくらい――いやそれ以上にあるのだろう。
(――ではきみのお母さんはとても歌が上手なのでしょう。お母さんに感謝すべきですね)
 あのときの観月の言葉に『そうなんだ』と、ちゃんと胸を張って答えておけばよかったと、いまになってそれだけは残念に思う。
(ほんとに、母さんから、ぼくはいろんなものをもらっていたのに……)
 はその場にしゃがみ込み、母がいなくなってから初めて声をあげて泣いた。