さよならを言うまえに2




 外の水道で顔を洗ってから、は寮へ向かった。
 昼を過ぎていたからもう寮は開いていて、入り口にいた寮母のおばさんに挨拶をした。
「夕飯を食べるようだったら、そこのノートに名前書いておいてね」
 示されたノートにはすでに二人の名前が記入されていた。そのうちの一人はもよく知っている相手だった。野村拓也――去年のルームメイトだ。
 明るくて面倒見のいい野村は、になにか無理強いすることもなく、いいルームメイトだったと思う。多少話し好きなところはあるけれど、ときどき愚痴交じりに、でも本当に好きなんだと解るテニス部の話は、も聞いていて楽しかった。
 この寮ではどこもふたり部屋になる。部屋を移動してから帰省したので、今年のルームメイトももう解っていた。の今年のルームメイトは木更津淳。やはりテニス部で、選抜組と呼ばれるスポーツ特待生だ。
 割り当てられた二階の部屋に入ると、帰省したときのままだった。二段ベッドの上にたたまれたまま置かれている布団、机の上には勉強道具の入ったダンボール、タンスの前にはしまうことなく紙袋とカバンに詰め込まれた私服類。それらを無視して、は一直線に窓へと向かうと、カーテンを引き窓を開けた。
 まだ少し肌寒い風が、室内の埃っぽい空気を押し流してゆく。今日から一年、はここで暮らす。ルドルフには高等部もあるけれど、おそらくが進学することは難しいだろう。高等部で奨学金がまたもらえたとしても、奨学金は生活する費用までは賄ってくれないのだから。
(働いてお金を貯めて大検に受かれば、大学に入ることだってできるんだから――)
 だから特別、自分の境遇が不幸なわけじゃない、とは思う。
(哀しいのは、もう母さんに会えないってことだけ……)
 事故だった――と聞いている。居眠り運転のトラックが、自転車に乗っていた母を巻き込んで民家に激突したと。も警察へ行ったのだが、遺体の確認は父親がした――らしい。見ないほうがいいと言われて逆らわなかった。父親の連絡先を聞かれて、答えた。そのときのは、周りの人間に言われるままに行動した――なにが起きているのか、理解できていなかったから。
 は窓を開け放ったまま、二段ベッドの下の、たたまれたままの布団の上にその身体を投げ出した。移動のときにとりあえずの布団を下に置いただけなので、木更津が来たらきちんと決めなおさなければいけないだろう。でも、今日はまだ戻っては来なそうだった。
 はそのまま目を閉じた。
 動かない姿を、見ていないからかもしれない。見たのかもしれないが、その姿はの記憶にはなかった。だからには、実感が伴わない。
(本当に、母さんはもういないのかな……)
 ぼんやりと記憶のなかの母の姿を思い返しながら、は再び眠ってしまった。腹が減っていたはずだったのに、その欲求はまたどこかへ行ってしまっていた。


 寒さで身を震わせて、は目を覚ました。薄闇のなか、見覚えのないこの場所が新しい寮の部屋のベッドの上だということに気づくまで少し時間がかかった。のろのろと起き上がって窓とカーテンを閉める。電気をつけ机の上の時計を見ると、六時を過ぎたところだった。
 コンコンと、控えめなノックの音がした。
、いるか――?』
「あ……うん」
 聞き覚えのある声に、は扉を開ける。
「よ! 久しぶりだな〜。が戻ってるとは思わなかったよ」
「うん、久しぶり……野村」
 同室だったときと同じように明るく笑う野村に、が返せた言葉はそれだけだったが、野村はそれ以上なにか聞きたいという素振りを見せることもなく、用件を告げてきた。
「メシ、できてるって。三人しかいないから、できれば一緒に食っちゃってくれって言われてさ」
「うん、行くよ……」
 は点けたばかりの電気を消すと、部屋を出た。野村の後ろに、もうひとりいた。薄茶色の短い髪の少年はと目が合うと軽く頭を下げた。つられても頭を下げる。
「あ、こいつ、不二裕太。テニス部の後輩なんだ。裕太、こっちが俺の去年のルームメイトのな。どの教科でもトップ3に入ってる優秀なヤツなんだぞ〜。あ、裕太もスポーツ特待で入ってるから、優秀だよな」
 そういう言い方をされると普通なら少々困惑するところなのだが、野村の言い方には嫌味がなく、素直に相手を賞賛してそう言ってくれるのだと一年一緒に過ごして知ったので、も特に口を挟むことなく聞いていた。野村のそういうところをはとても好ましく思う。
 野村が歩き出して、はその横を、少し後ろを裕太がついてくる。野村の話はまだ続いていた。
「で、こいつの兄貴がさ〜。知ってる? 青学の天才、不二周助って。裕太はその弟君なんだけど――」
「先輩!」
 背後からの鋭い声に野村が、そしても足を止めて振り返る。
「っと、禁句だった。もう言わない、言わない」
 不機嫌そうに睨み付ける裕太に野村は誤魔化すように笑って走り出してしまった。はなにが起こったのかよく解らず、困り果ててしまう。
「あの……」
 の様子に、裕太が思い出したようにを見て、慌てた。
「あ――すいません、大声出して。俺、その……弟って言われるの嫌いで」
「……そうなんだ。ぼくは兄弟はいないから、そういうのよく解らないけど……大変なんだね」
 の言葉に、裕太は少しだけ嬉しそうに軽い笑みを見せた。
「なんつーか、その……うちの兄貴がちょっと特殊っていうか。まぁ、行きましょう」
 裕太にうながされ、もそれ以上その話題を続けることなく食堂へ向かった。
 食堂では、先に着いていた野村がすでに三人分の食事をテーブルに並べていて、お茶まで入れているところだった。
「ほらほら、用意しておいてやったぞ〜」
 裕太の顔色を伺いながらのその発言に、チラリとが裕太を見ると、裕太もを見て吹き出すように笑った。
「はいはい。さっきのはチャラにしますよ」
 そんなふたりのやりとりに、も自然と口元をほころばせていた。なぜだかとても安心できた。
「ぼくの分もありがとう」
 も礼を言いながら席についた。
「おう、もたくさん食べろよ。なんだかまた痩せたんじゃないのか?」
「そう……かな」
 野村の言葉に、はつい目を伏せてしまう。こういうとき、どう答えたらいいのか解らなくなる。
「ま、確かに先輩は痩せてますけど、ノムタク先輩は食べすぎないでくださいよ?」
 の沈黙を破るように言ったのは裕太で。
「いいじゃないか、今日は久しぶりに練習して腹ペコなんだよ。さ、食べよ。いただきま〜す!」
 ご飯に味噌汁、豚肉のしょうが焼きに漬物といった簡単な食事だったけれど、暖かい食べ物を口にしたのは久しぶりで、素直に美味しいとは思った。
「テニス部は、もう練習があるの?」
 食べながら、思い立っては聞いた。同室になるはずの木更津もテニス部のはずなのにまだ来ていないからだ。
「いや、俺たちの自主練。練習メニューは観月が管理してるからさ。学校始まったらあんまり自由にできないんだよ」
「観月さんの練習メニューは完璧ですよ」
 再び野村をジロリと睨みつけて、裕太が言う。
「いやいや、文句言ってるんじゃないよ。弱いところ練習しなきゃいけないのは解ってるけどさ、好きなこともやりたいじゃん。それに学校始まったら雑用も増えるし。観月はマネジャーって肩書きだけど、実質、監督だろ? 本来のマネージャーの仕事ってほとんどぼくがやってるんだぞ……」
 今年は最後の大会だからぼくだってちゃんと練習したいし、新入生でマネージャーやりたいってヤツが入部しないかなぁなどと、野村の言い訳めいた呟きは続いていた。
「――がやってくれたら嬉しいけど、無理だもんなぁ」
 野村の呟きを拾って、裕太がを見た。
先輩は、部活はなにやってるんスか?」
「ぼくは、なにも――」
「だったらどうですか、テニス部?」
 突然の勧誘に、は驚いてただ裕太を見つめ返す。
「ダメダメ、こいつは頭いいの。今年は受験なんだから、雑用なんかやらせてる暇ないよ」
 ルドルフには高等部もあるとはいえ、新設校の弱みもあり、大学受験を考えてより高いレベルの高校への外部受験を目指す生徒も少なくはない。だからこその野村の言葉だったのだろうが、いまのには、残念ながら関係のないことだった。
「そんなこと――野村。そんなこと、ないよ」
 たぶん高校へは行けないだろうし、とは流石に口にできない。
 奨学生ではいなくてはいけないからそれなりの勉強は必要だけれど、週末に帰るところもなくなったいまとなっては、逆に時間を持て余すかもしれない。それにテニス部には――観月が、いる。憧れている観月を見ることができるのも、今年が最後なのだ。そう思ったら、勇気が出た。
「やるよ、野村。ぼくにできるかどうか解らないけど――ぼくで、役に立てることがあるのなら」
「ホントか! ぼく赤澤に報告してくるよ!」
 言うなり立ち上がって、野村は食堂を出て行ってしまった。もちろん食事は途中のままで。
「あ〜あ。よっぽど嬉しかったみたいっスね」
 そう評した裕太も、に向かって嬉しそうに言った。
「よろしくお願いします、先輩」
 先輩と呼ばれることが、くすぐったくも嬉しかった。