さよならを言うまえに3




 始業式のあと、一度寮に戻って昼食を取ったは、野村に言われたとおりテニス部の部室へ向かっていた。
 あのあと野村から教えられたのだが、いままでにもマネージャー志望の女生徒なら何人もいたらしい。けれど女は煩いからイヤだとすべて観月が断っていたのだという。
 いままで足を踏み入れたことのない部室棟は教会の隣にあって、教会を眺めながら、は聞いていた左から二番目の扉をノックした。室内から「どうぞ」という声が聞こえ、ゆっくりと扉を開ける。そこには観月と――部長である赤澤がいた。
くん、ですよね。どうぞ――座ってください」
 言いながら観月もソファに腰を下ろし、観月の右手が示した長椅子の端に、は腰を下ろした。テーブルを挟んだ向かいに、赤澤も座る。
「テニス部のマネージャーを志望しているということですが……いままで部活には所属していなかったのに、どうしてですか?」
「観月、知り合いか?」
 観月の質問に、が答える間もなく赤澤が口を挟んだ。が部活に所属していないかったことをどうして観月が知っているのか――も驚いたので、観月を見返す。
 観月は、呆れた顔をして赤澤に告げた。
「期末テストの上位者十名は毎回貼りだされるじゃないですか。見たことないんですか? 彼はいつも上位に入ってますよ。ああ……アナタの名前は載らないから、興味ないんですね」
「おい――そりゃ、その……」
 観月の言葉に、赤澤は言葉にならない抗議の声を上げる。
「――だからって、所属してる部活のこととは関係ないだろうが」
 不機嫌そうに赤澤がそう言った。
「この学校にいる優秀な人間くらい、チェック済みですよ」
 貼りだされた名前を見て覚えてもらっていたという事実だけでも驚きなのに――その観月の言葉に、嬉しいというより、なぜだか怖いとは思ってしまった。
「でも、首席は観月くん、だから」
 も奨学生でいるために結果を確認している。が首席を取ったことは一度もなかったけれど、その名簿に載らなかったことも一度もなかった。自分の名前より右側にある名前を数えたりもするが、観月がこの学園に来てからは、観月の名前が常にいちばん右にあった。
「ええ、当然ですよ」
 の言葉に、観月は優雅に微笑んだ。けれどその表情はすぐに厳しいものに変わる。
「部活に所属することで、内申書を有利にしようとでも考えているんですか?」
 観月の言葉は、のマネージャー志望は外部受験を考えてのことかとほのめかしていた。野村や裕太のように歓迎されていないというのは、ここに入ったときから空気で感じていた。でも、それで諦めるわけには、いかないのだ。
「ううん、その逆――かな。受験は、考えていないよ。だから――できた時間で、ぼくにできることがあれば手伝いたいと思って」
 は一生懸命、自分の意思を伝えるための言葉を選びながら話した。
「でも、ぼくはテニスのこともほとんど知らないし、役に立つとは、正直、言いにくいんだけど――」
「じゃあ、なぜですか?」
「ぼくは、その……いままで勉強ばかりしてきて、ひとりだったから……最後に、せめて頑張ってる人を応援したいって、思って」
「最後? ああ――中学生活の最後ということですか?」
 うっかり口にしてしまった真実を観月につかれ、は焦った。けれど観月の言葉に頷いて続けた。
「だから、その、テニス部に――所属しなくても構わないんだ。なにか仕事があるときに呼んでくれれば。とりあえず使ってみて、それでも役に立たないって解ったら、来なくていいって言ってくれれば、そうする――」
 言いながら、は哀しくなってきた。本当に、自分にできると胸を張って言えることがないのだ。いくら学園の図書室が開いていないからといって、市内の図書館でも本屋で立ち読みでもいい、テニスのルールくらい把握しておけばよかった。
 でも――それでも、自分で口にした、観月も口にした『最後』という言葉が、を駆り立てた。それ以上なにも言えはしなかったけれど、は俯くことなく、観月を見返していた。
「――いいでしょう」
 フッと、観月が笑った。
くん、あなたの正式な入部を認めましょう。ここをよろしくお願いします」
「あ――はい!」
 は思わず立ち上がって、弾みで長椅子がガタンと音をたてる。
「よろしくお願いします!」
 は、観月と赤澤とに頭を下げた。
「ではコートに野村くんがいますから、仕事を聞いてください。ああ、その前に、いったん寮に戻ってジャージに着替えたほうがいいですね」
「はい!」
 は喜びを隠せない笑顔で頷いて、もう一度頭を下げると部室を後にした。すぐに寮を目指したから、閉じられた扉の向こうで話されていた会話を聞くことはなかった。
「ずいぶんあっさり決めたなぁ、観月。他校が送り込んできたスパイかもって話はどうなったんだ? それも調べたのか?」
「いいえ。でもたとえ彼がスパイだとしても、ここで雑用をさせるだけなら、なんの情報も盗めませんよ。それに――あの様子だと、マネージャーの仕事といえば、なんでもしそうじゃないですか。運動能力は平均以下のようですが、成績の悪い部員の家庭教師をさせてもいいでしょう」
「観月……。お前がそう決めたんなら、いいけどな」
 赤澤はなにか言いたげだったが、結局それ以上口にすることはなく、立ち上がって部室を出て行った。
「使えるものは使う――それだけですよ」
 再び閉められた扉に向かって、観月は呟いた。


 マネージャーになったの仕事は、主に洗濯、部室の掃除、球拾いだった。他には、頼まれてなにか買いに行ったり、取りに行ったりと、その時々の雑用をこなす。マネージャーというより使い走りのような存在だったが、流石に三年であるに用を頼むのは同じ三年かレギュラーだけなので、慣れないことばかりではあったが、そう忙しいということもなかった。
 こんな自分でも役に立てるのなら嬉しい――その思いは変わっていなかったけれど、ひとつだけ残念なこともあった。観月は、ほとんどテニスコートにいなかった。
 補強組と呼ばれているスポーツ特待生は、学園内のコートで練習するのではなく、テニススクールでそれぞれの能力を高める練習をしているのだそうだ。さらに観月は他校に行ってまで対戦相手のデータも収集しているらしい。その上で、完璧なまでの攻略法を組み立てるのだという。
(やっぱり、観月くんってすごいな……)
 部室のなかに観月専用のスペースがある。机と椅子、そしてパソコンだ。掃除するときは机の上に触らないように言われていたから、せめてと思い、は床を磨いた。
 もちろん、部活に所属したことで成績が下がったりしては困るので、勉強もきちんとこなした。予習復習に取れる時間が少なくなった分、授業中に集中することを覚えた。
 新しい生活は順調だった。同室になった木更津とは同じテニス部でも補強組のほうだからあまり顔を合わせることもなかったが、お互いに喋るのが好きというタイプではないので、朝夕の挨拶程度でもうまくやれていると思う。同じ部活だから、朝起きる時間と夜寝る時間がほぼ同じだというのも、お互いに気を遣わないで生活できる一因だった。
 そう――すべてはうまく行っているはずだった。その夜、一本の電話が掛かってこなければ。
 電話は基本的に舎監が取ることになっているが、通りかかった生徒が取って呼びにいくのが通常になっていた。知らせてくれた顔見知りの寮生に礼を言って「もしもし…」と少し不審そうには電話に出た。に外から電話を掛けてくる知り合いがいるとは思えなかったからだ。
『ああ、か。どうだ、元気か?』
 受話器越しに聞こえてきた男性の声を、は一瞬思い出せなかった。
「……おとう、さん?」
『ああ、そうだよ。元気でやっているか? 実はだな、その……やっぱりお前をひとりで置いておくのは心苦しくてな。ユミ子の了解は取ったから……だから、こっちの家で、一緒に暮らさないか?』
「……え?」
 一緒に暮らす? なぜ突然そんな話になるのか、理解できない。
「……寮も、学校も……部活」
 寮で暮らしているからひとりではないし、学校も楽しいし、部活にだって入って頑張っているのだから不満はないと言いたいのに、突然のことに上手く口にできない。
『そうだな……うちはちょっと田舎だから、都内の学校に通うのは難しいだろうな。でも近くにいい公立もあるから……』
「あ――」
 それは転校しろということなのだろうか?
「あの――」
 いまのままが――いや、いまのままでいたいのだと言わなければいけない。
『とにかくうちを一度見に来るといい。きっと気に入るから。そうだな……今度の日曜日に、駅まで来てくれれば迎えに行くから――』
 慌しく最寄駅と時間を告げられ、電話は切られてしまった。
「どうして……」
 の呟きは、もう届いてはくれない。
 受話器をフックに戻した、その指先が震えていた。
 震えを止めるために手を重ねてギュッと握り締める。その姿は、まるで祈っているかのように見えた。