さよならを言うまえに4 次の日の練習前、コートの準備を済ませたは、部室の前で赤澤が出てくるのを待っていた。着替えて出てきた赤澤に、日曜日の午後から休ませてもらえないかと言うと、赤澤はあっさりと頷いて、そして何事もなかったかのようにコートへ向かっていった。その背中を見ていることができず、は俯く。 理由を聞かれるわけでも、自分からやりたいと言い出したくせに休むのかと非難されるわけでもなく、嫌な顔すらされなかった。そんな赤澤の態度にほっとする――わけはなく、はとても哀しくなった。はここにいてもいなくても、どうでもいい存在でしかないのだ。 (それでも……それでもまだ、来なくていいって言われたわけじゃないんだから) 軽く首を振って気持ちを切り替え、顔を上げる。 「! 遅くなってゴメン! 部室空いたぞ〜」 扉が再び開いて、野村が出てくる。楽しそうな野村に、も自然と笑顔になった。そう――が雑用を引き受けているから、野村は練習に集中できて嬉しいと言ってくれた。がまったく役に立っていないわけではないのだ。 「うん、じゃあ掃除してくる。野村は練習、頑張って」 すれ違いざまそう言って、はすぐ部室に入ってしまったから、野村が立ち止まって振り返っていたのに気づかなかった。 「って笑うとなんか可愛いっていうか……って、なに考えてんだ、俺は〜!」 野村は全速力でその場から走り出した。赤澤とコートに入ろうとしていた金田が、その野村の姿を見て呟く。 「野村先輩はラケット持ったままランニングですかね」 補強組のいないルドルフの練習は、かなりのどかに進行していた。 日曜日。掃除、洗濯、買出しを午前中に済ませると、は寮へ戻った。着替えようと私服に手を伸ばして――その手で掴んだのは聖ルドルフの制服だった。自分がこの学園が好きなこと、日曜日も遊んでいるわけではないのだということを解ってもらうために。この制服にしか、にはすがれるものがなかった。この同じ制服を着ていられることだけが、唯一の観月との繋がりなのだ。 寮で軽く昼食を取り、外へ出る。駅まではバスで15分ほど。そこから父親の家がある最寄り駅までは、乗り換え一回を含めて一時間半はかかるだろう。 乗り継ぎはあまりよくないようだったが、通えない距離ではなさそうだった。なぜ父親が突然一緒に住むと言い出したのかは解らないが、とにかく転校だけはしたくないと伝えようと、電車のなかでずっと決意を固めていた。 やっと父親に指定された駅に着き、は改札へ向かった。改札はひとつしかなかったが、出口は北口と南口のふたつあった。迎えに来るとのことだったが、どちらに行けばいいのか聞いておらず、父親がいないかどうか周囲を見回してみた。けれどその姿を見つけることはできず、とりあえず両方の出口へ行ってみるしかないと、北口へ足を向けたときだった。 「お前――か?」 不意に掛けられた声に振り向くと、そこにはよりずっと背も高く、体格も大きい男が立っていた。男といっても、その顔立ちは若い。よりひとつかふたつくらい上の、高校生くらいだろう。 突然のことに、は返事をすることもできずただ男を見返していた。が答えないことを男は肯定と受け取ったようで、観察するようにを見下ろして――というより睨みつけていた。 「小さいな。ホントに中三かよ」 呟かれた声はの耳にも届いた。会ったことはないはずの相手なのに、の名前も学年も知っている――どういうことなのかにはさっぱり解らなかった。男はに背を向けると歩き出した。どうしたらいいのか解らず、がその場に立ち尽くしたままでいると、男が振り向いて不機嫌そうに怒鳴った。 「ついて来い。の親父に会いに来たんだろうが」 の親父と彼が口にしたのがの父親のことだと気づいて、は男のあとをついて歩き始めた。どうやらこの男は父親が寄越した迎えのようだった。 南口の階段を下りると、広がるロータリーの脇をスタスタと歩いていく。男は普通に歩いているだけなのだろうが、が小走りにならないとついていけないほど早かった。やがてロータリーの端に停めてあった車の後部座席に彼が乗り込んだ。その運転席から顔を出したのは、確かに見覚えのあるの父親だった。 も後部座席に乗るように言われ、彼と並んで座る。発進された車の中で、父親はとんでもないことを口にした。 「タカシくんはやっぱり大きいなぁ。と並ぶと、とても同じ学年には見えないね。でものほうが三ヶ月早く生まれているから、のほうが兄さんになるんだけどね」 「……え?」 同じ学年ということは、彼と自分は同じ歳ということだ――驚いては彼を見た。彼は父親の言葉が聞こえなかったはずはないのだが、腕を組んで目を瞑ったまま、不機嫌そうにむっとしているだけだった。 それにしても、彼は何者なのだろうか。 「えっと……あの……」 車中のことに一切関心を示そうとしない彼にではなく、運転している父親に向かっては声を掛けた。けれどどう聞けばいいのか解らず、口ごもってしまう。そんなの様子に、バックミラーを通して父親が気づいた。 「ひょっとしてタカシくんは自己紹介していないのかい? ユミ子の息子だよ。と同じ歳――なのはさっき言ったね。バスケ部のレギュラーなんだよ。あれ、はなにか部活はやっていたんだっけ?」 「あ――あの、いま、テニス部で――」 「そうか、テニス部か。こっちの中学にもテニス部はあったよなぁ、タカシくん?」 マネージャーをしているとが口にする前に、父親の問いかけに遮られる。名前を呼ばれたタカシは、渋々といったふうに目を開くと頷いた。 「たぶんな」 そしてその不機嫌な瞳が、に向けられる。 「お前みたいのが所属してるテニス部じゃ、実力が知れるな。そんな貧弱な腕で入れる部はうちの中学にはねぇよ」 のことだけを言われたのなら聞き流していたかもしれない。けれどテニス部を誤解されては困る。あの観月が作り上げた強いチームを。 「ぼくは、マネージャーで選手じゃないよ。ルドルフのテニス部はとても強いし、今年は全国大会にだってきっと――」 だからそれを見届けるためにも自分は転校するつもりはないのだ。それを父親にはっきり言わなくてはいけない。父親のほうに向き直ったの横で、嘲るような声が響いた。 「全国大会だって? マジかよ? じゃあ――賭けるか?」 「え……?」 「強いんだろ、お前のガッコ? だったら賭けようぜ。お前んトコのテニス部が全国大会に行くかどうか。負けたら――そうだな、勝ったほうの言うことをなんでも聞くってのでどうだ?」 「なんで……」 なんでそんなことになるのか、にはまったく理解できない。 「ん? 行くんだろ、全国大会? それともやっぱ、口だけかよ」 「そんな――」 「おいおいタカシくん、そんなに苛めないでやってくれよ――っと、着いたぞ。ここだ」 車が停車したのは、二階建ての一軒家の前だった。周りには同じような外観の家が隣接していた。タカシは車が停まるなり、扉を開けてさっさと玄関へ向かっている。 「車を入れるから、も先に降りて上がっててくれ」 そうは言われたものの、勝手に上がりこむ気にはなれず、は玄関の前で待っていた。やがて車を家の脇にある駐車場に入れた父親が現われて、一緒に家の中へと入った。 部屋の広さのわりに大きすぎるように思えるテレビが置いてあるリビングに通され、座っているように言われる。タカシの姿はなかったから、二階へ行ってしまったのだろう。やがてお茶の入った湯飲みをふたつ手に持った父親が現われた。 「どうだ、?」 唐突にそう言われ、は答えられず父親を見返した。 「なかなかいいところだろう? ここで一緒に暮らそう」 「それは――」 「葬式のときは悪かったな。あのときは急で、ユミ子も混乱してたんだ。あのあとよく話してね。やっぱりはまだ未成年なんだし、家庭で暮らしたほうがいいだろう。タカシくんとも同じ歳だし、うまくやっていけると思うよ」 どうしてそんなふうに勝手に決めてしまうのだろう。は必死で首を振った。 「?」 「ぼくは――テニス部に、いるから。マネージャーだけど、今年は、全国大会を目指してるくらい強いし、ルドルフは、いい学校だから、転校はしたくないんだ――」 父親の顔を見る勇気まではなく、俯いたままだったけれど、は一生懸命自分の考えを口にした。 「うーん、でも三年だから、部活は一学期までだろう? それに受験もある。早くこっちの環境になれておいたほうがいいと思うんだがなぁ」 父親はの思いをまったく解っていないようだった。 「あの……おとうさん、ぼくは、一緒には――」 が八歳のときから、ずっと母親とふたりでやってきたのだ。母親がいなくなったいま、ひとりになるのはにとって当然のことと思えた。新しい家族なんてほしくなかった。たとえそれが、六年前に別れた父親であっても。 でも本人を目の前にしてそう言うのは、流石に難しかった。 「寮が、あるし、ひとりで大丈夫、だから――」 「――……」 気まずい沈黙が室内に漂った。それを遮ったのは電話のコール音だった。 「もしもし――ユミ子か。ああ、解った」 立ち上がって受話器を取った父親は、短い会話を済ませると受話器を置いた。 「ユミ子の仕事が終わったんだ。ちょっと迎えに行ってくるよ。はここで待っていてくれ。ああ、タカシくんに二階の部屋を見せてもらうといい。――ちゃんとの部屋もあるんだよ。よく考えておいてくれ」 父親はそう言うと階段の下へ行き、タカシの名前を呼んだ。 「なんだよ」 上のほうから、タカシの怒った声が聞こえる。今度はの名前が呼ばれ、手招きされる。仕方なくは近づいていった。 「お母さんを迎えに行ってくるから、その間、に部屋を見せてあげてくれ。頼んだよ」 それだけ言って父親は外へ出て行ってしまった。残されたのは階段の上から睨みつけているタカシと、階段の下で途方にくれるだけだ。進むことも戻ることもできず、はその場に立ち尽くしていた。やがてトントンという足音が響いてきて、タカシが階段を降りてくる。タカシが階段から降りられるよう、は壁のほうへその身を寄せた。タカシはを置いて出て行くつもりなんだと思った――その考えが、一瞬にして間違いだと思い知らされた。 「痛――!」 すれ違うのだとばかり思っていたタカシは、その右腕での左手首を掴むとの身体を易々と持ち上げていた。 「は、放して――」 掴まれている手首も、肩も痛い。 歓迎されていないことは解っていた。けれどとて望んでここに来たわけではないし、来るつもりもない。こんな扱いを受けなければならない理由はないはずだった。 自由な右手を無我夢中で動かし、彼の身体を押した。けれど彼の身体はビクともしない。肩の痛みに、上手く力も入っていないようだった。その右手も、彼の左手にあっさりと捉えられ、左手首と一まとめに彼の右手に捕まれてしまう。次の瞬間、の身体は壁に叩きつけられた。 「帰れ」 壁にそって崩れ落ちるの耳に、ぞっとするほど冷たい声が聞こえた。 |