さよならを言うまえに5




 痛む身体を起こして、はすぐに家を出た。とにかく歩いて歩いて――父親の家から遠ざかった。どのくらい歩いていたのかは解らないけれど、ようやく気持ちが落ち着いたころ、足を止めた。もちろんここがどこなのか、にはまったく解らなかった。
 車の音がするほうへ向かい大きな通りに出ると、バス停を見つけることができた。バスの行き先は幸いにも来たときに降りたのと同じ駅名が書かれていて、時間はかかったがなんとかひとりでルドルフまで帰ることができた。
 が学園前でバスを降りたとき、時刻はすでに六時を回っていて周囲は薄暗かった。
(帰ってこれた――…)
 薄明かりのなかに浮かぶ見慣れた建物を見て、は思わず涙ぐんでしまうほど嬉しかった。寮ではそろそろ夕食の時間になる。このまま寮へ戻ろうかと思ったの足は、自然と学園の敷地内へと向かっていた。食欲は感じられなかったし、まだ誰かと顔を合わせたい気分でもなかった。ここに帰ってきたことをもっと実感したかった。
 ところどころの教室にまだ明かりが灯っている校舎を横目に、は校庭を歩いた。そして吸い寄せられるように、礼拝堂へ来ていた。扉を押すと、それはゆっくりと開いた。
 以前、早朝に来たときとは違って蝋燭もついておらず、明り取りの窓から入る僅かな明かりだけが、礼拝堂のなかを照らしていた。足元はすでに暗く、長椅子に挟まれた中央の通路をはゆっくりと祭壇へ近づいていった。奥に進むことは目的があってしていたのではなく、ただなんとなくしていたことだった。けれどはまた、思い出していた――去年のクリスマス礼拝のときの観月の姿を。あのときはこの礼拝堂もクリスマスの飾りつけでいっぱいにされていて、すべての蝋燭に火が灯され、どこもかしこも輝いていた。はクリスチャンではないけれど、とても幸福な気持ちになったのを覚えている。そして、そのなかで歌われた観月の声――――
 そのとき、の背後で聞こえた軽い音とともに、明かりが拡がった。振り返ると入り口の脇に置かれた燭台に火が灯されているところで、蝋燭をつけたマッチの火をフッと吹き消したその人こそ――観月だった。
「みっ、観月、くん――…!」
 思わずあげてしまった声に、観月が振り向く。
「誰です――?」
 燭台を手に取り、観月がゆっくりと近づいてくる。
「あ、あの……」
 夢じゃないだろうか――は思った。だって観月のことを考えていたら、観月が現れるなんて。あの蝋燭の明かりが消えてしまったら、観月も消えてしまうんじゃないだろうか。
「ああ、くんでしたか」
 一歩も動けずにいたの前へと観月は近づいてきて、手にしていた燭台を掲げてを見た。それでも、はなにも言えないままだった。
「なんです、そんなに驚いた顔をして? ぼくはあなたの懺悔の邪魔でもしましたか?」
 観月の声は静かな礼拝堂のなかに朗々と響いた。
 ようやくはこれが夢じゃないのだと――観月が自分に向かって話しているのだと気づく。観月の質問に答えなければと、は慌てて首を振ったが、観月の不審をあおっただけのようだった。
「ではなにをしていたんです? 肝試しをするには早い時間ですけれど。まさか――なにか盗みにでも来たんですか?」
「ううん、そうじゃ、なくて――」
 ようやく出せた声は、すこし掠れていた。観月の綺麗な声とは大違いだ。それでも、観月の誤解を解かなければとは必死で言葉を探した。
「ここに来たのは、ちょっと綺麗なものが見たくなって……。それで、その……クリスマス礼拝のときの、観月くんの歌がすごく良くて……それを思い出していたら、そうしたら、観月くんがいたから……」
 夢かと思ったんだ――とは、流石に恥ずかしくて口にできなかった。
「そうでしたか。ここは静かなので、思索にふけりたいときはよく来るんですよ。寮ではなかなかプライベートな時間を持てませんからね」
「そう、だよね。あ……邪魔して、ごめん。じゃあぼくは――」
 思いがけず観月と会うことができたけれど、ひとりになりたくて来たのだと聞いてしまっては、これ以上ここにいることはできなかった。扉へ向かおうと足を踏み出したの耳に、信じられない言葉が聞こえた。
「――待ちなさい、くん。驚かせてしまったお詫びに一曲歌ってあげましょう」
「え――……?」
 観月は、いま、なんと言った? 歌って、くれると言ったのか? のために。
「あ、あの……ホントに?」
「嘘を言ってどうするんです? なにがいいですか?」
 もしかしたらこれは夢で、明かりが消えたらやっぱり観月は消えてしまうのかもしれない。それならば急いで願いを伝えなければ。
「じゃ、じゃあ『Amazing grace』を――」
「解りました。では、これを持っていてください」
 観月が手にしていた燭台を差し出してきた。蝋燭の炎が揺れると、照らし出されている空間も揺らめき、ますますを夢のなかにいるような気にさせた。けれど手を伸ばしても、燭台は消えることなく、観月の手からの手へとしっかりとした重さを持って移動してきた。
 の手に持たれた炎が照らし出す空間で、まっすぐに立った観月が、静かに目を伏せた。
 
Amazing grace, how sweet the sound
    
That saved a wretch like me
    
I once was lost, but now am found
    
Was blind, but now I see.
    
 礼拝堂のなかに響き渡る観月の歌声――――
 なにも言えなかった。動くこともできなかった。
 の手のなかにある燭台の冷たい金属の感触と重さは、確かにいまが現実だと示しているはずなのに、それすらも忘れた。すべてのことが消えてしまったの世界に、ただ観月だけが存在していた。
 やがて観月の歌が終わっても、はただ呆然と立ち尽くしているだけだった。
「――くん?」
 観月がを呼ぶ――それすらも、別の次元での出来事のようで。
「やっぱり、観月くんは、すごい……」
 うわ言のように、は呟いていた。視界が滲むのを抑えることができず、は空いているほうの手で目を擦った。
「……そこまで気に入っていただけたとは、嬉しいですね」
 その言葉で、ようやくは我に返った。
「あ――ありがとう。観月くん、どうも、ありがとう――」
 手早く涙を拭って、慌てては頭を下げた。夢のような空間から急に現実に返って、は燭台を手にしていたことなどすっかり忘れていた。
「危ないっ!」
 素早く伸ばされた観月の手が、燭台を持つの手を上から握って支えた。おかげで蝋燭は倒れることもなく、溶けた蝋が蝋燭をつたい流れただけですんだ。
「ご、ごめんなさい――!」
 落としていたら、火事にはならないにしても、長椅子や絨毯をダメにしてしまったかもしれない。
「大丈夫ですよ」
 震えそうになるの手を、しっかりと掴んだまま観月は言って、そしてぼくが持ちましょうと燭台を引き取っていった。
くんは、見かけによらず抜けたところもあるんですね」
 観月の口調は怒っているようではなく、むしろ楽しんでいるかようにには感じられたのだが、気のせいだろうか。
「抜けてばかりだと思うけど……」
「そんなことありませんよ。マネージャーとしてよくやっていると赤澤から報告を受けています。部室もいつも綺麗にしていただいて、感謝していますよ」
「そんな……当然のことだし。ぼくは大したことできないし、少しでも役に立てればいいって、それだけ、だから――」
「ええ、助かってますよ」
 にっこりと観月に微笑まれて、は嬉しさと恥ずかしさで目を伏せてしまった。
「あ、ありが、とう……そんなふうに、言ってもらえる、なんて……」
 いてもいなくても変わらない、役に立たない存在だと思っていたのに――は胸がつまって、再び瞳を潤ませた。
 観月とこんなふうに言葉を交わせる日が来るなんて。しかもこんなふうに言葉をかけてもらえるなんて、嬉しくてたまらない。でも、だからこそ、もう充分だ。これ以上観月の邪魔はしたくない。これからも、自分にできることで、観月の役に立てたらいいと思うから。
「それじゃあ……ぼく、行くね。本当に、ありがとう――」
 今度は燭台も持っていない――は深く頭を下げて、扉へ向かって歩き出した。観月の持つ燭台の炎が浮かび上がらせている扉へと。
 そのとき、照らされている空間が揺れた。
「気が変わりました。ぼくも寮へ戻ります。一緒に行きましょう」
 観月の言葉に、は驚いて足を止めた。振り返ったに、観月がゆっくりと近づいてくる。
「あまり美味しいとは言えませんが、夕食の時間でしたしね。くんも、食事はまだでしょう?」
「う、うん――」
「では、行きましょうか」
 信じられなかった。
 けれど言われるまま、は頷いて観月について行く。頭のなかが真っ白で、考えることができないでいた。
 扉の前までくると、観月が炎を吹き消して燭台を元の場所へ戻す。そしてふたりで礼拝堂を出て、先ほどよりももっと暗くなっていた校庭を歩いた。
 観月となにを話したのか、緊張してあまり覚えていない。けれどどれもたわいのないことだったと思う。寮の食事は質より量で好きじゃないとか、英語のキャサリン先生がすぐにテストにするのは日本語で授業するのが苦手だからとか――野村がキャサリン先生に憧れているというのは、から観月に話した。去年同室だったときに、何度も聞かされていたからだ。
 緊張はしていたけれど、嬉しくて楽しくて――だからは、すっかり忘れていた。
 寮の玄関に入ったとき、ちょうど階段を降りてきた裕太が声をかけてくる。
「お帰りなさい、観月さん、先輩。そうそう、先輩、二時間くらい前に電話がありましたよ。お父さんから――」
 その言葉は、幸せだったを一気に暗闇のなかへ落とした。今日の午後の、苦痛でしかなかった時間が蘇ってきて、は無意識のうちに捕まれた手首をさすっていた。
「帰ったらすぐ電話くれって。いちおう番号メモっときましたけど――先輩?」
 不思議そうに裕太に名を呼ばれて、は慌てて意識を戻すと、裕太が差し出しているメモを受け取った。
「うん、ありがとう。じゃあ……電話してくる」
 はメモを手にしたまま、食堂へ向かう観月と裕太の背中を見送ることしかできなかった。
 気が重い――父親のことも、その息子のことも、観月と会えたことですっかり忘れていた。でも、だからこそ、なのかもしれない。ここで観月の役に立ちたいというの願いを叶えるために、いま、の意思をはっきり伝えるのだ。
 は階段脇の公衆電話の前に立つと、震える指でメモに書かれていた番号を押した。
『もしもし――』
 受話器の向こう――電話を取ったのは父親のようだった。
、です――」
! どうしたんだ? いきなり帰るなんて。心配したんだぞ』
「ちょっと、用ができて、その――」
 帰れと言われた冷たい声が思い出されて、を怯ませる。けれど、そう――あんなところには、行きたくない。
「忙しいんだ、いま。テニス部が、都大会前だし……今年は、全国大会にだって行けるかもしれなくて、マネージャーのぼくだって、いろいろやることがあって、だから――いま、転校はできないから」
 言えた――ようやく。たったこれだけのことが、どうしていままで言えなかったのか不思議なくらいだ。たぶんきっと――観月が勇気をくれた。は役に立っていると、言ってくれたから。
 受話器の向こうで、すこしの沈黙が続いた後、父親は淡々と話し始めた。
……こんな話はしたくなかったんだが……学費は奨学生だから免れているとはいえ、寮費はどうする? 他にも生活費が必要だろう? 高校も奨学金を狙えるかもしれないが、受験費用だってある。恥ずかしい話だが、さすがにそういう金を肩代わりしてやれるほどの余裕はないんだ。うちに来てくれれば――多少家のことを手伝ってもらうこともあるかもしれないが、その分、金の心配はしなくていい。高校だって好きなところに行ってくれて構わない』
 考えて、いなかった――――
 母親が亡くなって、父親の籍に入ったわけではないが、後見という立場で、書類上のの保証人になる手続きはしたとか聞かされた気がする。母親が亡くなってすぐのことはあまりよく覚えていなくて、そのままにしていたのだが、金銭的な請求が父親のところにいって、そして急に同居だなんてことになったのかもしれないと、ようやくはこの突然の展開を理解した。
『――? やはりすこし強引な話だったな。だったら――どうだ、テニス部が負けるまでっていうのは?』
「え…?」
『負ければ、どっちにしろ三年は引退だから、のすることもなくなるんだろう? だったら、いいんじゃないか?』
 には反論する気力も勇気も残っていなかった。
「わかり、ました――」
 途切れた受話器を元に戻すと、は食堂へ行くことなく、ひとり部屋へと戻った。