さよならを言うまえに6




 テニス部が負けたら転校する――――
 転校はしないと、観月たちのためにできることがあるならやるのだと――決めた途端に突きつけられたその約束を、は覆すことができなかった。
 父親と離婚してからずっと、母が朝早くから夜遅くまで一生懸命働くのをは傍で見てきた。生活するにはお金が必要で、お金というものは簡単に沸いてくるものではないのだと、働いたことがないでも充分理解できた。だからまだ働くことすらできない身では、お金のことを言われればなんの反論もできない。
(それに――)
 父親が言ったことも、確かに正しいのだ。負けたら、三年生は引退だ。雑用係なんてもう必要がなくなる。
(観月くんの傍にいられる理由は、なくなってしまう――)
 だとしたら、未練がましく校内や寮内で観月の姿を追うよりも、いっそ転校したほうがいいのかもしれないとも思う。けれど、その度に思い出すのは、ぞっとするほど低く冷たい声と、掴まれた手首の痛み。
『――帰れ!』
 より身体の大きい義弟は、明らかにを歓迎していない。そんなところに行って、うまくやっていけるとは到底思えない。
 夕食も取らずに部屋へ戻り横になったものの、ろくに眠ることができなかった。気がつくと両手が震えてしまっていて、ギュッと握ることでそれをやり過ごしながら、はベッドのなかでじっと夜が明けるのを待っていた。
 同室の木更津が身支度をする音で、は自分がうとうとと寝入りかけていたことに気づく。けれど木更津が起きる時間ということは、自分も起きなくてはいけない。重くだるい身体を起こして、はベッドから降りた。
「オハヨ。お先」
 ラケットバックを担いで部屋を出て行こうとしていた同室の木更津が振り返る。
「あ、うん、お早う」
 慌てても言葉を返して、着替え始めた。
 寮にはスポーツ推薦で入学してきた生徒たちが多くいるため、朝練の時間に合わせて食事が取れるようになっている。そのまま学校へ行けるように鞄も持ってが食堂へ降りたとき、すでに裕太、木更津、柳沢、野村、そして観月というテニス部が座っているテーブルができていた。
先輩!」
 裕太が声を掛けてくれたので、そのテーブルに行ってもいいのか迷っていたは、安心して近づくことができた。
「おはよう」
 はみんなに声を掛けてから、裕太の向かい、野村の隣の空いている椅子を引き、鞄を置いた。
「はよ、。お前にしては遅いじゃん。早く取ってこないと、食べる時間なくなるぞ」
 そう言う野村の前に置かれたプレートの朝食はほとんど無くなっている。お代わり自由のご飯とお味噌汁、それにハムエッグと野菜サラダとバナナと牛乳という、質より量の朝食だ。は配膳場所に行くと、食欲がないからと断って、ハムエッグと牛乳だけもらってきた。
、それだけ?」
 が置いたプレートを見て、野村が問う。
「うん……あんまり、食べたくなくて」
 昨晩は結局夕飯をとらなかったのだからお腹が空いているはずなのに、食欲はなかった。食べなかったせいで、逆に胃が働かなくなってしまったかのように。
「先輩、どこか具合でも悪いんですか? そういえば顔色も良くないみたいですけど」
 向かいに座る裕太からの視線を感じて、は避けるように目を逸らせた。
「そんなこと、ないよ……ちょっと、眠れなかっただけ、だから」
「夜更かしでもしたんですか?」
 突然、冷たいともとれる口調でそう告げたのは、裕太の隣に座っていた観月だった。はっとして顔を向けたと、観月の視線が合う。
くんはずいぶん痩せているようですが、自分の健康管理もできず、肝心なときに倒れられては迷惑ですよ」
 迷惑――観月から言われたその言葉に、は泣きそうになる。
「ご、ごめん――」
 情けなさを堪えて俯いたの耳に、観月独特の笑い声が聞こえる。顔を上げたが見たのは、間違いではなく確かに笑みを浮かべている観月だった。
「君がいなくては困ると言ってるんです。せめてあとこれくらいは食べなさい」
 そう言うと、観月は自分の皿の上に置かれていたバナナをのプレートへと乗せた。
「あ――」
 信じられなかった。観月が困ると――がいなくては困ると言ってくれるなんて。しかもの体調を心配して、自分の食事を分けてくれるなんて。
「ありがとう、観月くん。ちゃんと食べる――ありがとう」
 プレートの上に置かれたバナナは、をとても幸せな気分にさせる。
「自分が食べれなくなったのをに押し付けたんじゃ……」
「なにか言いましたか、野村くん?」
「い、いや――なんでもないよ、観月」
「そうですか。では僕は先に行っていますよ」
 食べ終わったプレートを手に観月が立ち上がる。
「ノムタク先輩はいつも一言多いんすよ」
 呆れたように呟く裕太の声も聞こえていたけれど、はバナナを食べることでいっぱいだった。大事に皮を剥いて口にしたその味は、いままで食べた中でいちばん美味しかった。


 その日から、は少し変われた――ような気がする。
 言われた仕事しかこなせないのは相変わらずだったけれど、自分から積極的に「なにか仕事ある?」と声を掛けてまわるようになった。食事も、量は少なかったけれど、全部の種類を口にするように努めた。昼間一生懸命勉強とマネージャー業をこなして、食事も規則正しく取るようになって――眠れなくなることもなくなった。
 観月も、に対する態度が、少しだが変わったような――気がする。
 その日も、部室に洗濯物を取りにいったは――偵察にでも行っていたのだろう――遅れて着替えている観月と出会った。挨拶だけ交わして、カゴいっぱいの汚れ物を持ち上げようと手を伸ばしたは、その手を止めると、意を決して観月に声を掛けた。
「あの、観月くん。観月くんの洗濯物もよかったらするよ。教えてくれれば、ちゃんとその通りにやるから」
「そうですね――では次からくんにお願いしましょうか。なにも特別なことはないですが、他の部員の物とは一緒に洗わないで下さい。洗剤はこの――ここにある、バラの香りのものを使っていただければ」
「手洗いとかしなくていいの? 観月くんはみんなと違うの着てるよね?」
「ああ、長袖なのは日に焼けないためですよ。肌が弱いもので、すぐに赤くなってしまうんです。くんも色が白いほうですよね。大丈夫なんですか?」
「ぼく…? ぼくは……どうなんだろう? いままであまり外に出たりしてなかったから。そういえば……小学校のときだったかな、一日中プールにいて、次の日に全身が真っ赤になったことがあったよ」
 そう、小学校一年のときだ。家族三人で出かけた、最後の思い出。次の年の夏には、もう母とふたりきりになっていたから。
 両親の離婚の原因を、ははっきりとは知らなかった。を育てようと頑張って働いている母に、そんなことは聞けなかった。ただ――父親が再婚したのは、離婚してそう経っていない時期だったと思う。母が、夜中に声を殺して泣いていたのを見たことがあった。「こんなに早く……」と一言だけ呟いていたのを覚えているから。
 あのころは――ただ新しくはじまった母との暮らしで精一杯だった。その前に確かにあったはずの楽しい時間も、記憶の彼方に埋もれていって、思い出すこともなかった。どうして、いまになって思い出したのだろう。
「――ちょっと待っていてください」
 そう言うと観月は鞄のなかに手を入れて、なにやら小さなボトルを取り出し、近づいてきた。
「え……?」
 の前に立った観月は素早くそのボトルのキャップを外し、液体を指先に出すと、の鼻へ触れた。すこしだけ冷たい液体が、の鼻から頬へと塗られていく。驚いて――は動くこともできなかった。
「日焼け止めです。春でも紫外線は強いんですよ、気をつけたほうがいいです。敏感肌用ですから、合わないことはないと思いますが」
「あ、あ……りがとう」
 ようやく、それだけ言葉にできた。
「コレは差し上げますよ。残り少なくなってきたので、ちょうど新しいものを購入してきましたから」
 の手を取って、観月はその小さなボトルをの掌に乗せた。
「では。洗濯、お願いしますね」
「う、うん――ありがとう、観月くん! あの――ぼく、頑張るから!」
 は嬉しくて、そのボトルをギュッと握り締めながら言った。そしてそのボトルをジャージのポケットにしまうと、洗濯物のいっぱい入ったカゴを抱えて部室を出ていった。
 ひとり残された観月は、指の先に髪の毛を絡めながら、クスクスと笑っていた。
「まったく――僕のためなら、なんでもやりそうですね、彼は」
 観月はという“役に立ちそうな駒”をどう動かそうかと考えて、試合をシミュレートするときと同じ楽しさを感じた。それがなにを意味するのか、観月自身気づいてはいなかったけれど。
 そして迎えた都大会準々決勝。相手は裕太の兄がいるという青春学園。
 それまで観月のシナリオは外れたことがなかったのに――は指先が震えそうになるのを押さえながら、フェンスの外でコートを見守っていた。
 柳沢と木更津のペアは棄権。赤澤と金田のペアは予想通り7−6で勝ったけれど、次の裕太で決まるはずだった試合は、観月までまわることになってしまった。裕太を呼びに行くのは野村に任せて、は観月のもとへ向かう。
「観月くん――」
 は洗濯してきた観月のウェアを差し出す。
「念のためきみに用意してもらいましたが、まさか着ることになるとはね」
「で、でも――すぐに裕太くんが勝って、それから観月くんが勝つんだから――!」
「ええ、そうですね」
 険しかった観月の表情が、答えながら少しだけ和らいだようだった。
「そ…れに、観月くんが試合するところ、久しぶりに見れるの、嬉しい――」
 地区大会も含めて観月が試合をしたのは、全員が試合する初戦だけだ。あとはずっとマネージャー件監督としてベンチに座っていた。他のメンバーに的確な指示を出していく観月もすごいと思っていたが、試合をしている観月は普段見られないだけに、を見惚れさせるのに充分だった。
「そうですね、せっかく取ったデータです。使わせてもらうとしましょうか」
 楽しげに微笑んだ観月に、も微笑み返す。その先に待つ最悪のシナリオに、ふたりはまだ気づいてはいなかった。