さよならを言うまえに7 「あの……裕太くん、タオル――」 驚いた。裕太が一年生に負けたのもだけれど、頑張った裕太を、観月が無視したことに。 「ありがとうございます、先輩」 の手からタオルを受け取った裕太は、やはり寂しそうだった。けれどにはそれ以上、どんな言葉をかけたらよいのかが分からない。 「ナイスゲーム、裕太」 「観月は敗者にはキビシーだーね」 拍手で迎えたチームメイトと、同じく負けた柳沢の言葉に、裕太もようやく笑みを見せた。 「完敗っスよ。もう一度一から自分を鍛えなおします!」 裕太の決意にほっとしながら、も慌てて手を打ってその検討を称えた。 それにしても、いくら試合が観月の予想通りに運ばなかったからといって、裕太を怒るなんて――には観月の気持ちが分からなくなった。裕太が手を抜いたというのならともかく、あんなに一生懸命頑張っていたのに。 確かにこれで一勝二敗になってしまって、ルドルフの勝利は難しくなったかもしれない。でも裕太も――柳沢も木更津も、一生懸命やってこその結果なのだから、それは認めてあげてもいいのではと思う。 (観月、くん――) 振り返って見たフェンスの向こう、コート脇のベンチに座る観月の横顔は、はいままで見たことがないほど厳しくきついものだった。 (どうしちゃったんだろう、観月くん――) は知らずに拍手をやめ、フェンスへと近づいていた。もちろん選手ですらないがフェンスを越えて観月に近づけるわけはなく、その距離はほとんど縮まらないのだけれど、はフェンスへと手をかけ、ただじっと観月を見つめた。 観月はすこし俯くようにコートだけを見据え、厳しい顔つきで考え込んでいた。 次は観月の試合なのだから、精神集中したいのは分かる。けれど―――― (まるで、ひとりで戦ってるみたいだ……) こちらをチラリと振り返ることもなく。 いまの観月の頭の中にはチームメイトなど存在していないのではないかと思う。 (確かに観月くんは強いし、なんでもできるし――) チームメイトの励ましや助けなんて、必要ないのかもしれない。 (怖い――) チームメイトのみんなと違って、マネージャーですらない雑用係のでは、観月の役に立てるはずもなく、むしろ役に立とうなんて考えるほうがおこがましいのではないかということに、気付いてしまった。 (もし、ぼくがなにか失敗をしたら――) また練習を積んで次の試合で挽回することができる裕太と違って、にはなにもないのだ。もういらないと、いや言われるならまだいい。が存在していないかのように無視されたりしたら―――― 『ただいまからシングルス2、青学不二、聖ルドルフ観月戦――始めます』 場内にアナウンスが響いて、気付けは観月と対戦相手の裕太の兄はすでにコート上にいた。の周囲にもチームメイトが集まってきており、声援を送っている。 もその声援に合わせるように口を開いたけれど、心に湧き上がった不安が完全に消えることはなく、複雑な気持ちのままコート上の観月を見守ることとなった。 それから先、起こったのはとても信じられない光景だった。 裕太の兄である不二周助に対して、観月は圧倒的に有利に試合を進めていた――ように見えていたのに。 5ゲームを観月が連取し、残りあと1ゲームで観月の勝利が決まる――はずだったのに。 「貴様……0−5はわざとだな! ふざけやがって……」 あっという間に不二に7ゲーム連取されるという内容で、観月の敗北が――聖ルドルフの敗北が決まってしまった。 歓声に迎えられ笑顔でチームメイトの元へ戻る不二に比べ、明らかに不機嫌な観月に、はタオルを手にしたままで、近づくこともできなかった。観月に振り払われることが怖くて、動けなかった。 誰も観月に声をかけず、観月も誰とも目すら合わせることなく、真っ直ぐにフェンスへと向かうと両手を叩きつけるようにしてフェンスを掴んだ。 「勝たなきゃ……勝たなきゃ意味がないんだ! そのために僕らはわざわざ地方から集められたのに!」 観月の悲痛な叫び声は、の胸を貫いた。 そのためにわざわざ集められた――観月は、そう言ったのだ。 (ひとりでなんて戦ってない。観月くんは、誰よりもみんなのことを考えていたんだ――) 結果だけがすべて――そう言い切った観月の覚悟に、は涙が溢れそうになった。 試合を見なかった人は、頑張ったねでは済ませてくれない。まだなんの実績もない新設校で記録を残す――そのために観月は頑張ってきたのだ。それはいまのチームメイトのことも、聖ルドルフの生徒のことも、そしてこれから入ってくる生徒のことまで考えていたことに他ならない。 観月の練習メニューに、野村などは多少の文句を言いつつも素直に従っていた。それは「勝つ」という目標のためには決して妥協しないという観月の徹底した決意を分かっていたからなのだろう。 だけが、本当の観月に気付けなかった。 「観月、まだ五位決定戦でチャンスが……」 「赤澤! 一敗だって許されるもんか。聖ルドルフの汚点だ」 たった一度の敗北で、いままでの観月の信念が崩れてしまうものではないと思うのだけれど、それを観月に伝える言葉を、は持たなかった。 (そんな、資格ない……) 憧れてやまない観月――ずっとそう思ってきたのに、はいったい観月のなにを見てきたんだろう。 そのときザザッと現れたのは、黒いジャージを来た集団だった。 「不動峰!」 誰かの声が聞こえる。確かにその黒いジャージの胸には不動峰と書かれていた。青学、氷帝、山吹と、強いと言われている中学のことはそれなりにも把握していたけれど、不動峰のことは名前を見たことがあるくらいにしか知らなかった。 「また一から築いてきゃいいじゃねぇか。お前たちの新しいスタイルをよ――俺たちはそうやって来たぜ」 強い言葉だった。 信念と自信に満ち溢れていたその言葉は、なによりも説得力があった。 観月はなにも返さなかったけれど、その瞳にいつもの力が戻ったことに、は気付いた。 『整列!』 声がかかり、青学と聖ルドルフのメンバーたちが挨拶のためコートへと戻っていく。一緒に行けないは再びフェンスの前に立ったのだが、そのとき不意に背後から声が聞こえた。 「おい」 低いその声は、条件反射のようにの背筋をゾッとさせた。 「……ど、どうして、ここに――?」 「見て来いって言われた、親父に」 よりもはるかに背が高く体格のいいその男は、相変わらず不機嫌そうにそう呟いた。たった一度会っただけの、義弟といっていいのかどうかすら分からない、相手。 「来いよ、話がある」 「え、でも……」 の返事を待たず、タカシはに背を向けて歩き出してしまった。 チラリとコートを見ると、メンバーはネットを挟んで整列を終えたところだった。挨拶を終えたメンバーはすぐに戻ってくるだろう。でもまだ試合は残っていて、閉会の挨拶まではこの会場にいるはずだから、が少しくらい席を外すくらいは大丈夫かもしれない。 それに――着いて行かないと、タカシになにかされるかもしれないという不安もあった。 「負けたな」 もうほとんどのコートで試合は終わっていて、タカシに連れられるように歩いてきたその練習用の小さなコートの周囲には人気もなかった。 「全国大会に行くとか言ってたじゃねーか」 タカシのその言葉に、はなにも言い返せない。 「親父に結果見て来いって言われて仕方なく来てやったけど、まったくダッセエ試合だったぜ。特にあの観月ってやつ? 無様だったよなぁ」 「――そんなことない!」 は、叫んでいた。 初めてタカシと正面から向き合ったかもしれない。 タカシに対する恐怖は消えていなかった。けれどそれ以上に、観月のことを侮辱されて言い返さずにいられなかった。 結果だけかすべてと言う観月の言葉の正しさが身に沁みる。 けれど、だからこそ――は負けた観月を責める人間に対して、黙っているわけにはいかないのだ。 「観月くんは、すごい人なんだから! 観月くんは、誰よりもみんなのことを考えていて、それで――」 言葉が続けられなかった。 タカシに胸倉を捕まれ、ルドルフの制服を着ていたの足は、地面から浮き上がった。 「お前……誰に向かってそんなクチ聞いてんだよ」 襟元がきつく締め上げられていて、苦しい。 けれど撤回する気はない。観月は――の考えなど及ばないくらい素晴らしい人なのだから。こんな相手に馬鹿にされていいはずはないのだ。 「なんだよ、その目?」 タカシに睨みつけられても、は視線を逸らさなかった。 「気に入らねぇなぁ。おい、負けたら勝ったほうの言うことをなんでも聞くっての、覚えてんだろうなぁ?」 なんのこと、とが思った瞬間だった。 「――ぐっ」 腹部に強い衝撃を受け、の力が抜ける。胸元を掴んでいた手を外されると、そのまま地面へと膝をついた。 腹を蹴られたのだと分かったのは、再びタカシの足がの背中を蹴ったからだ。はその勢いに逆らうこともできず、倒れこんだ。 「これだけでもう立てねぇのかよ。弱すぎだな、つまんねぇ」 の肩を押さえ込んでいるのは、たぶんタカシの足だろう。 息が上手くできなくて、咳き込む。 痛かったし、辛かった。 けれど、どうしてこんなことをするんだと問う気にはなれなかった。 には、この痛みが観月を信じることができなかった自分への罰のように思えた。 |