コイゴコロ(前編)




「ねぇ、長太郎くん、お願い。跡部先輩に紹介して欲しいの!」
 掃除当番だったため、ひとり遅れて部室で着替えたあと、テニスコートに向かおうとしていた鳳は、同じクラスの女子に呼び止められて、体育館裏にいた。
「告白するだけでいいのに、三年の先輩たちが怖くて近寄れないの。だから――お願い!」
 両手を目の前で合わせて祈るように頭を下げる彼女を見て、鳳は気づかれないようにため息をついた。こういうパターンなら何度も経験している。
『鳳くんの好みのタイプってどんな子? ふうん……じゃあ××先輩の好みのタイプって分かる?』
 そんな会話なら、何十回とさせられた。でも、彼女とはそんな会話をしたことはなく、なにか聞いてくるときも、鳳に関することだけだったのに。
(結局――跡部部長に近づきたいためだったってことか……)
「……解ったよ。じゃあ、機会を探しておくから」
 早く会話を終わらせてしまいたく、鳳はそう言った。跡部はそんなふうに告白してきた相手とは付き合わないという事実を言っても、理解してはもらえないだろうから。
「ホント! じゃあ、よろしくね!」
 嬉しそうに駆け出していった彼女の姿が消えてから、鳳はもう一度ため息をついた。
「っと、練習行かなきゃ――」
 掃除だけですでに遅くなってしまっていたのだ、こんな下らないことで怒られてはたまらない。気を取り直して体育館の角を曲がった鳳は、壁に寄りかかって微笑んでいる人物とぶつかりそうになる。
「――先輩!」
「悪い。立ち聞きするつもりじゃなかったんだが。彼女に先に声を掛けられてしまったからな、終わるまで待ってたんだ」
 そう言いながら身体を起した、の色素の薄い柔らかそうな髪がサラリと揺れた。
「そうしょげるな。まったく、跡部なんかのどこがいいんだろうな? 見る目ないよな」
 小柄なが、励ますように鳳の腕をポンポンと叩きながら言う。確かに励ましてくれているのだろうが、つまり先ほどの会話の内容をすべて知っているということだ。
先輩――もしかして、“立ち聞きするつもり”だったんじゃないですか?」
「バレたか」
 鳳の軽口に、もいたずらっぽく笑い返した。鳳のなかから、すでに先ほど感じたイヤな気分は吹き飛んでいた。
「それで、俺になにか用ですか?」
「ああ。ひとりでギャラリーのなかを抜けるのは苦痛なんでな」
 歩き出したに従うように、鳳も歩き出す。
「コートに行かれるんですか? 珍しいですね」
「行きたくはないんだが、早急に跡部に確認しないとならない項目ができてしまってなー」
 は手にしている書類の束を軽く掲げてみせる。
「生徒会の仕事なんて雑務ばっかりなのに、なんでアイツが会長に立候補したのか不思議だ」
 氷帝の生徒会は会長のみが立候補で、副会長以下は会長の指名制である。は、その副会長を務めているのだ。
先輩のような優秀な方に、安心して任せっきりできるからじゃないですか?」
「鳳……、お前、跡部より口がうまいな」
「本気で言ってるんですよ」
 笑いながら歩くふたりの前に、テニスコートを取り囲む女生徒の集団が見えてくる。集団というか、群集というか、群れというか。
「よくもまぁ、毎回こんなに集まるよな。試合ならともかく、練習を見るのが楽しいというのが理解できない…」
「見られてる――と思うと緊張感はでますけどね。まぁ、あのギャラリーの大半は、跡部部長しか見ていないでしょうが」
「それも理解できん……」
 どうやら本気で呟いているの姿に口元を緩めたあと、鳳は正面を向き直って声を張り上げた。
「すみませーん。通してくださーい!」
 鳳の声に、コートばかりを向いていた女生徒が一斉に振り返る。『レギュラーの鳳くんよ!』などという声に混じって『鳳先輩…』などという声も、には聞こえた。
「じゃあ、行きますよ」
 そう言った鳳の前の人ごみは割れ、コートの入り口のフェンスへ続く道ができていた。
「ああ」
 鳳の影に隠れるようにして、が頷く。『あれ…あの、鳳くんの後ろにいる人って……』という声が聞こえてきたところで足を速め、無事コート内へたどり着いた。もちろん基本的に部外者はコートへは立ち入り禁止なのだが、生徒会副会長であるは例外だった。
「ふ〜」
 盛大なため息をつくに、鳳は笑ってしまう。
「生徒総会の議事進行のときは、もっと大勢の生徒の前に立つじゃないですか」
「それとこれとは別。少なくとも総会のときはあんなにギラギラした目で見てるやつはいないぞ」
「確かにそうかもしれませんね」
 一息ついているふたりのもとへ、背後から声がかかる。
「遅いぞ、長太郎。ペア練習ができねーじゃねーか」
「すみません、宍戸さん」
「悪い、宍戸――ぼくが呼び止めてたんだ」
 振り返って謝った鳳と、その背後からが顔を出す。
じゃねーか。どうした――も、こうしたもねぇか。跡部なら向こうだぜ」
「サンキュ、宍戸。じゃあ、ありがとな、鳳。練習頑張れよ」
「はい!」
 元気よく返事をした鳳に微笑んで、は跡部のほうへ歩いていった。満面の笑みでその姿を見送っている鳳に、宍戸が言う。
「そういや、お前……学食なんかでもやたらに挨拶してっけど、なんでそんなに親しいんだ?」
「あれ、宍戸さん。話してませんでしたっけ?」
「聞いた覚えねーから言ってんだろ」
「じゃあ、お話しますよ。あれは去年の球技大会のときなんですけど――」
 鳳は思い出すだけで嬉しいというように笑いながら話し始める。
「俺は野球だったんですけど、クロスプレーでまぶたを切ってしまって。かなり血が止まらなくて、保健室に行ったんです。でも、ちょうど先生が不在で。そこにいた先輩が手当てしてくれたんですよ」
「へぇ…」
「それだけなら大したことないって思ってるでしょう? でも違うんです。その続きがあるんですよ。手当てが終わったころ、保健の先生が帰ってきて――なんて言ったと思います?」
「知らねーよ」
くん! あなた39℃の熱があるんだから寝てなさいって言ったでしょう!』
 保健医の少し甲高い声色を真似て、鳳が言った。
「それって……」
「そうなんですよ、先輩が保健室にいたのは具合が悪かったからで、先生が保健室にいなかったのは先輩のご家族に連絡を取りにいっていたからだったんです。先輩は具合が悪かったのに、俺の手当てをしてくれたんですよ。俺、感激しちゃいました!」
「へぇ…」
 確かにそんなことがあったのなら、鳳がこれだけなつく理由も頷けると、宍戸は思った。
「そういえば――跡部部長と先輩って去年はクラスが違ったんですよね?」
 突然の質問に、宍戸は少し思い返してから答える。
「ん――ああ、一年も二年も違ったな。同じクラスになったのは今年からだ。それがどうした?」
「いまさらながら不思議に思うんですけど、あのとき結局、先輩のご家族には連絡がつかなかったみたいで、どうしようかなんて話しているところに跡部部長が現れて、うちの運転手に送らせるからって連れて行ったんです。確かそのとき『クラスが違うと面倒だ』なんて言ってたんですよね。だからクラスも違うのになんで親しくなったんだろうって」
「そりゃあお互いテストで首位を張り合っていたからな、お互いのことは知ってただろうが――そうだな、一年のころは、とても仲がいいようには見えなかったな」
「そうなんですか……」
 鳳の視線がコートの奥へ向けられる。そこには跡部と話しながらメモを取っているの姿があった。大事なことを話しているのだろうが、ふたりは穏やかそうに見え、とても仲が良さそうに見えた。実際――仲が悪ければ、跡部が副会長に指名したりしないだろうし、も引き受けたりしていないだろう。
 を見つめて知らずに足を止めていた鳳の頭を宍戸が叩いた。
「ほら、ぼさっとしてねーで、練習だろ!」
「は、はい! すみません!」
 鳳と宍戸が練習を始めたのとは対角にあたるコートのすみで、跡部はの質問に答えていたのだが。
「おい、手が止まってるぞ」
「ああ、悪い」
 逸らせていた視線を慌てて書類に戻し、は書き込みを続けた。
「まぁ、聞き返さないくらいには聞いていたらしいな」
 跡部は面白そうに呟いて、背後のコートへ視線を走らせる。ちょうど鳳がサーブを打ったところだった。
「悪かったな…」
 決まり悪げに、は呟いた。さっき、練習を見るやつの気が知れないなどと言っていたことを跡部が知るわけはないのだが、誰を見ていたのかは、もう隠しようがない。
「で、すぐに決めなきゃならない問題はこれで終わりか?」
「ああ、邪魔したな」
「いや、俺が行けなくて悪いが、後は任せる」
「――了解」
 いつものことだろう、というようには笑って、そしてフェンスの出入り口へと歩き出した。跡部はベンチに置いていた鞄のなかからPHSを選んで取り出すと、の名を呼んだ。
 振り返ったは、飛んできたものをうまくキャッチした。
「どうせ遅くなるんだろう? 帰り、送ってやるよ――それに連絡入れる」
「サンキュ」
 掌のPHSを掲げて、はコートを後にした。女生徒の間を、逃げるように駆け抜けて。


 跡部から連絡が入ったのはすでに周囲が暗くなる時間だった。もちろん生徒会の用事は終了していて、ほかのメンバーはもう帰したのだが、流石に跡部を残して帰るわけにもいかず、は生徒会室でひとり予習などしていたのだ。
『悪いな、いま終わった。これから着替える。車はもう正門に回してあるから、先に乗っててくれ』
 跡部の運転手にはもう何度も送ってもらっているので顔見知りだった。だからは了承して、帰り支度を整え、先に正門へ向かった。運転手のほうにも連絡がいっていたのだろう。真っ暗だが街灯がついているなかひとり歩いてきたの姿を見て、彼は運転席から降りてきた。自分は主人じゃないのだからドアを開けてくれなくいいと送ってもらうたびに言っているだが一向にやめようとしない。
 足早に近づいていって、お礼をいって車に乗り込もうとした――そのとき。
 突然数人の足音が聞こえたかと思うと、鈍い音がした。運転手の彼が殴られ、膝をついている。なにが起こったのかわからないまま運転手に近づこうとしたの腕が、背後からねじ上げられた。
「痛――!」
 思わず悲鳴を上げたの耳に、くぐもった低い声が響いた。
「跡部景吾だな――一緒に来てもらおうか」
 否定する間もなく、はみぞおちを殴られ、意識を手放した。