コイゴコロ(中編)




『――先に乗っててくれ』
 跡部が電話している相手がだと気づき、鳳は急いで着替えると部室を出た。学年も部活も違うに会える機会は少なく、話せる機会はもっとないのだ。けれどいま正門へ行けば、確実に会え、話せる。跡部が来るまでのそう長い時間ではないが、ふたりきりで話せるチャンスなどそれこそないのだから。
 走りながら鳳は、街灯に照らされて浮かび上がる細い背中を捉えた。跡部の運転手が車から降りてきたのも見える。できれば車に乗り込む前に掴まえたかったが、この距離では無理そうだ。まぁ窓を叩けば、先輩は降りてきてくれるだろう――そんなふうに考えながら走っていた鳳の視界に、一瞬にして五、六人の人影が現れた。鳳が理解する前に、運転手は倒れ、ぐったりとして意識がないと分かる小さな身体が抱えられていた。
 なにが起こっているのか理解はできなかった。
 けれど行かなければならない――それだけが鳳の意識を支配していた。
 それまでよりももっと、全力で駆け出した鳳がたどり着いた正門で、が抱えられ運ばれていった方向を見たが、車が一台、消えていくのを見つけただけだった。
「ん……景吾さまに、連絡を……」
 開け放たれたままのドアの下に倒れていた運転手が身体を起しながら、呟いた。
「は、はい!」
 鳳は慌てて鞄から携帯電話を取り出すと、跡部の番号を探す。「あ」で始まるのだからいちばん最初に入れてあるはずなのに、なかなか探せなかったのは、手が震えていたからだ。コール二回で跡部は出たのだが、それすらも鳳にはもどかしく感じられた。
「部長! 大変です! 先輩が! 先輩が!」
『――鳳か? なんだ?』
「だから! 大変なんです! 先輩が! 先輩が――連れ去られちゃったんです!」
 口にしてはじめて、自分がいま見た現実を思い知らされる。混乱するあまり、涙すら浮かんできた。
『なんだと? 鳳! お前、いまどこにいるんだ?』
「正門です! 先輩の車の前です! 車に乗り込もうとしていた先輩を、変なヤツラが――!」
『鳳。波多野はどうした?』
「え? 誰ですって?」
『うちの運転手だ。近くにいるのか? いるなら、代われ』
「は、はい――」
 鳳が携帯を差し出すと、上半身を起して助手席のドアにもたれかかっていた運転手が受け取る。
「すみません、わたくしの不手際です。さまが、何者かに連れ去られました――」
 彼の額は血で滲んでいるし、喋る口の端からも血が零れている。身体が起せないほど痛めつけられているようなのに、そんなことを微塵も感じさせない淡々とした声で彼は報告を続けた。
「相手は――少なくとも五人いました。使用していたのは日本語ですが、イントネーションが怪しかったので、おそらく中国系だと思われます。使用していた車は白のライトバン、車種までは分かりませんでした。ナンバーは品川、ねの――」
 これだけのケガを負わされながら、そこまで相手のことを見ていたのかと鳳は驚かされる。鳳も、確かに消えていくバンのような車は見えたが、ナンバーを見るなどというところまでは、頭が働かなかった。自分の不甲斐なさにショックを受けていた鳳に、運転手の言葉がさらに追い討ちをかけた。
さまは、景吾さまと間違えられて、連れ去られました」
 
 

『……先輩!』
 声が聞こえる。もう何度も聞いた、自分の名前を呼ぶ声が。
 しかし気持ちが悪い……ああ、そう、あのときもそうだった。けれど見知らぬベッドで眠る気にはなれなくて、タクシーでも呼んで帰ろうかと思っていたのに。
『すみませーん。ちょっと切っちゃったんですけど……』
 そう言いながら入ってきた相手の顔を、は見ることができなかった。彼はより長身だったし、その顔の半分を左手で覆っていたし、なにより――血だらけだったからだ。
『あれ、先生いないんですか? 困ったなぁ』
 ちっとも困っていないような声で、彼はそう言った。困ったのは、のほうだった――――
『先輩! 先輩――!』
 遠くからでも、を見つけると駆け寄ってきた、その声は、いつから心地よく響くようになったのだろう。
 でも……なんだ? いまは気持ちが悪い。なぜ、こんなに揺れているような気がするのか? そして苦しいのか?
 身じろいで――しかし思ったように身体は動かなかったが――は目を開けた。目に入るものがすべてぼんやりしている――それが薄暗いからだと気づく前に、はパニックを起こしそうになった。腕が動かないのだ。まるで、腕がないとでもいうように。
 腕がなくなったわけではないと気づいたのは、夢中で身体を動かして感じた、手首の痛みでだった。ようやく、両手が後ろ手で縛られているのだと気づく。ご丁寧に両足もだ。
 は深呼吸を繰り返して、必死で気持ちを落ち着かせた。
 気持ちがある程度落ち着いたころ、薄暗さに目も慣れてきた。壁と天井とレースカーテンのかかった窓、そして自分がいま横たえられているベッド――それしか判別できなかったが、どうやらそれ以上のものはないらしい。ウィークリーマンションか、ビジネスホテルのようなところだと思う。
 なぜ自分がこんなことに――という答えは、意識を失う寸前、耳元で囁かれた。
『跡部景吾だな――一緒に来てもらおうか』
 ぼくのどこがあんな不遜なツラしてるんだ、拉致るヤツの顔くらい覚えてこい――そんなことを考えられるほど、まだ自分は余裕があるらしいと気づいて、なぜかほっとする。そう、これからどうするかを、考えなければならないのだ。
 跡部と間違えられた、これは確実だ。跡部がなぜ拉致されるのか――それは知ったことではないが、こうして生かしている以上、なにかの取引材料にされるということだろう。それはつまり、『跡部景吾』は価値があるということだ。自分が跡部ではないと分かったら――開放してくれる、わけはない。それこそ、最悪のケースが待っているはずだ。ここは、向こうが間違いだと気づくまでは、跡部のフリをするしかない。
 なにかの要求をつきつけた跡部家で、「うちの息子じゃない」と否定されてしまえばそれまでだが、それは――跡部がさせないだろう。跡部だってバカじゃない。いまごろ、必死になって探してくれているはずだ。
 けれど…………
 跡部が、無事助け出してくれるという保障は、どこにもない。
 自分で、なんとかこの場から助かる方法を探さなくてはならない。でも、どうやって――?
 なにもない部屋に、縛られた両手足で、できること……辛うじて口だけは塞がれていないが、叫んだとしても、外部には聞こえなければ、自分の寿命を縮めるだけの話だ。
 とりあえず手か足を縛っている縄が緩められないかと、は身体を動かす。そのとき――腰のあたりに、違和感を感じた。ズボンのポケットに、なにか入っている――?
「あ……」
 思わず、声を出してしまい、慌てて口をつぐむ。しばらくじっとしていたが、誰かが室内に入ってくる気配はなかった。安堵して、は、縛られた両手を精一杯動かした。このポケットには――跡部に返そうと思って入れておいた、跡部のPHSがあるのだ。
 外部に連絡ができたからといって、ここがどこなのかもわからないには、どうすることもできない。けれど、いま自身にできることは、それしかなかった。
 腰を捻り、縛られた両手を、必死に伸ばすことしか。


 樺地を従えた跡部が正門に現れたのは数分後のことで、運転手は立ち上がって頭を下げた。
「申し訳ありません――」
「詫びなら後だ。運転できるか?」
「はい」
 運転手が右足を引き摺りながら運転席へ向かう。跡部は開けられたままだった後部座席へ乗り込んだ。その扉を閉めようとする樺地の手を押さえて、鳳は叫んだ。
「俺も連れてってください! お願いします!」
「鳳。お前が来てもなにも――」
「なにもできないかもしれません! でも、ただじっと待ってるなんて、できません!」
 これ以上ないというくらい不機嫌そうな跡部だったが、怯むつもりはなかった。なにもできない――だからこそ、なにもしないでいたら、死んでしまいそうだった。
「――仕方ない、いまは一刻も惜しい。乗れ」
「ありがとうございます!」
 鳳が跡部の隣に座ると、樺地がドアを閉める。車は静かに、けれど法定速度ギリギリで走り出した。
 膝の上で両手を握り締めることしかできない鳳の横で、跡部が電話をしている。どうやら、実家に掛けているようだった。
「ええ、そうです――犯人から連絡があったら、とにかく聞いてくださいよ。金だったら言い値を用意してください。その他の要求でも、できるだけ呑むように――間違っても、犯人に人質が俺じゃないとバレないようにしてください」
 鳳がもっと、もう少し早くあの場所についていれば、こんなことにはならなかったのに。ぐったりとした意識のない身体が連れ去られていく光景を忘れることはないだろう。
「――それから、犯人の乗ったライトバンのナンバーが分かっています。緊急手配してください。いえ、車種は分かりません。犯人グループの話し方から中国系だろうと波多野が言ってます。中国系の不法入国者の溜まり場、中国人街を中心に捜索してください。それと――すぐ移動可能なSPを五人ほど、待機させておいてください」
 次々と指示を出した跡部は、電話を切った。なにもできない自分とはなんて違うんだろう――鳳が跡部をチラリと見ると、跡部はゆったりと背中をシートに預け、腕を組み目を閉じてなにかを考えているようだった。
 しばらく車を走らせていると、跡部が手にしていたままだった携帯が鳴る。
「――はい。そうですか。一千万? ……まぁ、いいでしょう。用意してください。ああ、いま着きました」
 跡部が通話を切ると、車はちょうど跡部家の敷地内に入っていくところだった。
「あ、あの――身代金の要求が来たんですか?」
「ん? ああ、一千万だとよ。仮にも俺様を誘拐して請求するのがそんなもんとはな。ずいぶんと安くみられたもんだ」
 クッと嘲るように笑った跡部に、鳳はカッときて怒鳴った。
「そ――そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! 一千万円だって、他の人には大金ですよ!」
 跡部は静かに、鳳を睨みつけた。
「――鳳。お前、馬鹿か? 円じゃねぇ――ドルだ」
「え……?」
「それに、俺様のやり方に文句があんなら、ついてくるんじゃねぇ」
「そ、そんな……俺は、俺はただ――」
 うろたえる鳳を置いて車を降りようとした跡部の手で、もう一度携帯が鳴る。開いてディスプレイ画面を見た跡部が、顔色を変えた。
「この番号は――!」